(ようし!)
 少年は、勢い良く沸き上がってきた自身の考えに素直に従った。銀髪の忍の「参った」と言いたげな表情が脳裏に浮かぶと、もはや彼を押し止めるものなど何ひとつなくなっていた。小さな口元が緩むのをどうにも押さえきれない。
「この者を連れ帰る。誰か馬を!」
 その瞬間、従者から一斉に沸き上がったヒステリックな反応は、忍路にはどこか滑稽にすら思えた。
 そしてそれは、少年の心をますます頑なにしていく。
「よい、もう頼まぬ! お前達が駄目なら自分で運ぶ!」
 忍路が少年の腕を取って肩に抱えると、想像以上にずっしりした重みと共に酷い臭いが鼻をついて、一瞬臆した。それでも自らを奮い立たせ、馬へと引き摺っていく。こんなことくらい、あの男に会うためなら何でもなかった。
 そうしていよいよ、少年を馬上へと引き上げようとした時だった。粗末な衣服の袖がめくれて、細い腕にも一面に大きな紫色のアザが露わになった。それは子供の目にも醜く、少々不気味に映ったが、それでも忍路は運ぶ手を一時も緩めなかった。
 そのアザの浮いた手をしっかりと握り、背中に少年を担いだ格好で、忍路は馬へと力一杯跨った。
 そして、どよめくばかりでいつまでも動けないでいる列をあっさりと見放すと、馬の脇腹を勢い良く蹴飛ばす。
 あとは行きに覚えていた道を、城まで一気に駆け抜けるだけだ。
 高く結った長く美しい銀髪が、栗駒の鬣(たてがみ)と同じく真横になびいた。


     * * *


 自室に少年を連れ帰った忍路は、自分が目を離した隙に彼がどこかに連れていかれぬよう、片時も目を離さず手元に置き続け、書物を読み漁っては少年の看病に勤めた。
 後から思えば、彼は貧しさから極度の栄養失調だったさ中に酷い風邪をこじらせていただけだったのだが、犬の子一匹育てたことのない忍路には、何もかもが難題に映った。
 しかも忍路の苦難の道のりはまだ始まったばかりで、周囲が宥めすかすなどして何とか穏便に止めさせようとしていたのも最初のうちだけだった。
 すぐさま昼となく夜となく、凄まじいばかりの非難の声が浴びせられるようになった。上の指示から従者達がこぞって手の平を返したように非協力的になりだすと、流石の頑固な少年も少しずつ意志が揺らぎ始めた。
 だが(ダメだ、ここで挫けていてはいけない。どこからか必ず見ているはずのあの男に会えなくなる)と、その度に気力を奮い立たせる。
 しかし息子の突然の奇行に、あからさまな嫌悪感ばかりで何の理解も興味も示そうとしない両親に対峙すると、決まって激しい反抗心が沸き上がってきて、落ち着いて会話をする余裕などどこにもなくなっていく。
(くそっ、何でだ…!)
 予想を遥かに上回る、大人達の高圧的な説得の日々と、少年の寝ずの看病疲れが重なり、忍路は自分でも気付かぬうちに、どんどん袋小路へと追い込まれていった。


 数日が過ぎた。
 深夜、忍路は真っ白な夜具に突っ伏していた。
 誰も自分の話を聞いてくれず、精神的に追い詰められ、どうしていいか分からなくなっていた。何もかも投げ出したいような気持ちだった。
 だが隣で連れ帰った少年が昏々と眠っているのを見ると、それも出来ない。もしここで投げ出したら、あの男は一生会ってくれないのではないかという、怯えもあった。
 今にも挫けそうな片意地だけが、今の忍路を支えていた。
 不覚にも涙が出て、白い枕に幾つもの染みを作った。


「どうか、なさいましたかね?」
 背後から突然掛けられたその聞き覚えのある声に、忍路は跳び上がらんばかりに驚き、ばっと顔を上げた。
「!」
 夢でも幻でもない。御簾の向こうに、確かにあの男がいた。
 会いたくて会いたくてたまらなかった、あの銀髪で、片目の、黒い覆面をした長身の男がいつの間にか立っていた。
「おま…ぇ!」
 忍路は大きく顔を歪め、一瞬泣き笑いのような表情になった。だが何を思ったか、すぐさま何事もなかったかのようにいつもの取り澄ました顔付きへと変わっていく。
「…いいや。何でもない」
 赤く充血した目で、少年は背筋を伸ばしてきっぱりと言い切った。
「そうですか」
 男は何も見なかったかのように、視線をついと手元に落とした。
 その指無しの黒手袋をはめた手には、またもや螺鈿細工の短刀が握られている。
「ぁ!」
 忍路は慌てて枕の下に手を入れてまさぐった。が、そこにあるはずのものが無い。
「おいお前。その刀、どうやって取るのだ?」
 たちまち好奇心が頭をもたげだした。今の今まで枕を濡らしていたことも忘れ、忍路は男とその手に握られた短刀に急速に引き寄せられていく。
 以前訊ねた時は、「見せびらかすものではないから、教えられない」と言っていた。けれどまたしても同じ事をして見せている。如何にも聞いてくれと言わんばかりに。
 彼はただ単に自分をからかって楽しんでいるだけなのか? それとももっと他に意味があるのか? 忍路はまるで分からなかった。ただ今は、その方法が知りたい。
「教えられませんね」
 しかし男は前回と同じ返答を繰り返してくる。
「どうしたら教えてくれる? オレも使えるようになりたい」
「はて、この術を使ってどうなさるおつもりで?」
「その術を使うと、人に気配を覚られないのだろう?」
「如何にも」
「ではその術を使って……城を、出たい」
「――――」
「もちろん、気がすんだらちゃんと戻ってくる。約束する」
「――――」
「術はそんなに難しいのか? でも、やってみなくては分からないだろう? な、頼む、教えてくれ!」
「――――」
 だが、男は急にむっつりと押し黙ってしまい、忍路の顔を片目でじっと見つめている。
 その時になって初めて、少年は自分の考えを正直に言ってしまった事を悔いた。
「申し訳有りませんが、忍の術は忍を志す者にしか伝授出来ない仕来りになっております。ご要望には沿いかねますね」
 やはり率直に言いすぎたのだった。こうなってはもはやどうしようもない。忍路は力無く俯いた。
「それに、その病気の子を、ここに置き去りにして出て行くおつもりですか? 感心しませんねぇ」
 男が、今日までの一連の騒動を全て知った上で言っているのは明らかだった。その声はどこまでも静かで、激しさなど微塵もない。なのに、今までのどの大人達の叱責より、ずしりと少年の胸に響いた。
「――――」
 今度は忍路が黙り込む番だった。確かに自分はこの状況から逃げだそうとしていた。男に指摘されて、初めて気付いていたが、弁解の余地などどこにもない。
 だが、片目の男は意外な事を言いだした。
「ですが、今夜は特別に外にはお連れしましょう。但し、警備が厳しいので半刻だけですが」
「ほ…本当か?!」
 忍路の小さな顔が勢い良く上がった。
「外は冷えますから、何か羽織るものを」
「要らぬ! 早く!」
 忍路は御簾から飛び出した。何かとてつもなく楽しい事が起こりそうな予感がした。気持ちが一気に浮き立って、他に何も考えられない。
「さぁ、行こう! 早く!」
 前回はどうしても触れることが出来なかった男の服の袖すら難無く握り、廊下に向かって強く引く。
 男は『仕方ありませんね』というような表情でちょっと苦笑すると、少年に袖を引かれるまま歩き出した。

 
 先に歩いていた忍路がそろそろと襖を開け、おっかなびっくり長い廊下を見渡した。が、間の悪いことに、こちらを見ていた警護の者と真正面から目が合った。
(うわっ!)
 慌てて顔を引っ込めたが、もう見つかってしまっただろう。忍路は済まなそうな顔で、背後に立つ男を振り仰いだ。
「大丈夫ですよ。さあ、中庭へ」
 小声で背中を押されて、恐る恐る廊下に踏み出す。
(え…?)
 だが男の言うことは本当だった。確かに警護の者はこちらを見ているのに、何の反応も示さない。まるで自分達の姿が見えていないかのようだ。忍路は何度も目をぱちくりとさせ、小首を傾げた。
 そっと襖を閉める際、眠り続けるあの少年のことが気になって、一度だけ背後を振り返った。
 と、何と自分の布団に、少年の方を見ながら座している、白い着物を着た「もう一人の自分」がいるではないか。
(ぁ?!)
 目を見開いて男の顔を見上げると、彼は小さく一つ頷いた。その目元は確かに、『大丈夫、全部首尾良くやってます』と言っていた。

 二人はゆっくり、そして堂々と警備の者の前を通り過ぎ、渡り廊下から青白い月明かりのさす中庭へと向かった。
 中庭へと降り立つ際、玉砂利の上に音もなく飛び降りた男が、忍路に向かって無言のまま両手を差し伸べてくる。
 抱き留めるから来い、と言っているのはわかったのだが。
(えっ…と…)
 何となく怖いような、ちょっと照れ臭いような。でもその半面、勢いよく飛びついていきたいような酷く複雑な思いに、小さな心は揺れ動く。
 しかし、その逡巡もほんの一瞬だった。思い切って正面から飛び込んだ男の懐はとても広く温かで、忍路はどんな困難をも寄せ付けない揺るぎない力強さというものを、肌身でもって直に感じた。
 そうか、これが本当の大人なんだ、と思った。

「暫く声は我慢して下さい」
 少年の細い腕がしっかりと首に回ったのを確認すると、男は少年を抱いた左腕にぐっと力を入れた。かと思うと、たったの一跳びで本丸の屋根へと跳び上がる。
「…ッ?!」
 突然の浮遊感に、驚きと歓声の入り混じった叫びが思わず喉を突いて溢れそうになり、忍路は慌てて両手で口元を押さえた。
 その間にも男は甍の波を蹴り、風のような速さでもって天守閣へと駆け上がりはじめた。ひょうひょうと耳元で風が鳴り、あっという間に今し方まで自分がいた部屋や、広い中庭が遠ざかっていく。
(な…?!)
 やがて、本丸から天守閣へと続く渡り廊下の屋根を駆け上がり、天守の屋根へと飛び移って上階へと上がり始めると、いよいよ景色は一変していく。
「!!」
 いま自分は、門柱よりも、老松よりも、本丸の屋根よりも遥かに高いところにいる!
 よく見知った分からず屋の従者が、燭台を手に廊下を歩いているのが小さく見える。守衛達も自分達の存在にまるで気付かず、皆あさっての方向を見つめている。よそよそしい両親らが眠る一室も、大嫌いな武術を叩き込まれる武道場も、毎日通う書庫すらも、眼下に遠く小さくなっていく。
 訳の分からない高揚感が全身を包み、震えるような感動が胸一杯に広がっていく。冷たい晩秋の空気が頬をひっきりなしに掠め飛んでいくが、寒さなどまるで感じない。体中が興奮でカッと熱くなり、青白い息が次々暗闇へと飛び去っていくのが愉快でならない。
(すごい! すごいぞ!!)
 天守閣など子供の頃から何度も登っていたが、もちろん屋根に出たことなど一度もない。ましてやその一番突端の部分になど。
 だが男は空いている右手を使い、その縁に飛び付くと、尚もひらり、ひらりと天守の屋根を一層ずつ登っていく。

 登っている最中、ふと真下を見下ろすと、そこには何もない暗闇がぽっかりと大きく口を開けていた。
 だが、なぜか全く怖くなった。落ちたらどうしようなどという考えも、これっぽっちも思い浮かばない。
 銀髪の男の腕の中は、それほどまでに絶対の安心感があった。









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