五層目まできたところで移動を止めると、男は忍路を抱えたまま、漆喰の壁にもたれて座った。
 眼下はもうすっかり見慣れた城下町のはずだったが、何の囲いもない高い位置から世界を見渡す気分は最高だった。
 きっとこの中には見張りの者が詰めているのだろうが、まさかこんな所に人が居るなどとは露ほども思うまい。しかもそれが城主の一人息子だなんて。
 忍路は愉快でたまらなかった。今にも男の懐から飛び出して、踊り出したいくらいだった。
 そして、忍というのは何と凄い者達なのだろうと思った。

「怖かったですか?」
 全く息を乱した様子のない男が、小声で訊ねる。
「いや、全然。実に爽快な気分だ。月に向かって大笑いしたいくらいだよ」
 男の首から手を離した忍路は、自分と同じ色の瞳を見つめながら小さく返す。
「それは良かった」
 口布の下で、男の口元が静かに笑っていた。

「なぁお前、今日はなぜ来たんだ?」
 無数の星屑をばらまいたように美しい城下の景色から、男の顔へと視線を戻した忍路が訊ねた。
 あんなにきっぱりと「本当の意味で大人になったら来る」と言っていたのに。
「さぁ〜、何ででしょうねぇ」
 片目の男は、その唯一露わになった瞳を城下に向けたまま、飄々とした調子で答えている。
「やはり私は、大人になったのか?」
 確かにこんなに真剣になって大人達とやりあったのは、生まれて初めての経験だった。少年の世話も、相当に頑張ってやっていると自負している。
「ふふふ、馬鹿言っちゃいけませんよ。さっきまで赤ん坊みたいにめそめそしてたお方が」
 覆面男の指摘は容赦ない。
 だが落ち込んで塞ぎかけいた少年の心をくすぐって奮い立たせるには、それで十分だった。
「なっ…、なにをっ!」
 忍路はバツが悪く、照れも手伝ってムキになる。しかし片目の男は目元に僅かな微笑をたたえながら、さらりと答えた。
「んー、まだ約束した大人には程遠いですが。――まっ、少しは近づきましたかねぇ?」
「ふん。少しは、か」
「ええ。少しは、です」
(…そうか)
 城内の者達のような、あからさまな無視や頭ごなしの叱責でない、その男の内側からどこかじんわりと伝わってくる温かな言葉に、忍路の乾いてささくれ立っていた心は癒され、満たされていった。


 男の言っていた「半刻だけ」という時間など、忍路にはほんの刹那にしか感じられなかったが、逞しい腕に抱きかかえられて天守閣を一気に降下していく時の、その胸のすくような浮遊感にはいよいよ興奮して、寝室へと戻った時にはもうすっかり元の利発で溌剌とした少年の顔に立ち返っていた。

 忍路が「そのオレの影武者、面白いから置いて行け」と言って指差すと、たった今までそこで少年を看病していたはずの「もう一人の自分」は跡形もなく消え失せていた。
「何だ、つまらぬ。大人のクセに、ケチ!」
「おや、これはまた随分な言いようですね」
 男は変わり身のいた場所にポトリと落ちた螺鈿細工の短刀を拾い上げ、忍路に手渡しながら続けた。
「あなたがこの世に二人いて喜ぶのは、悪人だけですよ」
「ふっ、何を言う。今そこにもう一人のオレを作り出していたのはお前じゃないか」
「ですから、私がその悪人です」
「ははっ、お前は本当に面白い奴だな。自ら悪人だと言う奴に悪人はいないと、本に書いてあったぞ?」
 この男が悪人な訳がない。もしそうなら、城内の者などみな大悪人になってしまいかねない。
 忍路は子供らしく快活に笑った。
「まっ、現実は小説より奇なり、などともいいますからね」
「…………」
 その一連の会話の意味が、今一つ分かったような分からないような少年だったが。
 この尊敬すべき忍から、何かとても大事なことを言われているのかもしれない、という事だけは何となく分かった。
 そしてそのことが、訳もなく嬉しかった。

「なぁおい、この者は、大丈夫かな? いや、大丈夫だよな?」
 畳に両手両膝をついて、昏々と眠る少年の顔を覗き込む忍路の後ろで、銀髪の男は一歩、また一歩と音もなく背後の闇へと下がりだしている。
「なぁ、お前はどう思う? ――ぁッ?! 待てっ!」
 返事が返らないために忍路が振り向くと、男の最も明るい色をしている部分…銀色の髪…が今まさに闇に溶けようとしているところだった。
 慌てて駆け寄ったものの、掴みたかった男の手は既に闇にとけていて見えない。
 目の前で艶のある銀色が見る間に色を無くしてゆき、ただの暗がりへと変わっていくのを、少年はただ呆然と見守った。


「――御代様? いま何か仰いましたか?」
 襖の向こうから、聞き慣れた従者の声が掛けられると、忍路はハッと我に返った。
「……いや、何でもない」
 忍路は御簾の内側と入ると、真っ白な夜具に体を横たえた。その手には、男から手渡された短刀がしっかりと握られている。
(きっとまた、会おう…)

 美しい鞘の中に収められた、鋭い銀の刃を胸に抱いたまま、忍路はそっと目を閉じた。



 翌夕。
 ようやく病が回復し始め、まともに口がきけるようになってきた少年に、忍路は彼を草むらで見つけてから今日に至るまでの事のいきさつを、ゆっくりとかいつまんで話して聞かせてやっていた。
 貧しく身寄りのない少年は、最初のうちこそ話がよく呑み込めずにぽかんとしたり驚いたりしていたが、元々の明るく屈託のない性格も手伝って、急速に打ち解けてくる。
「じゃあのー、おいら…じゃなかった、ええっと…オレ? って、いつまでにここを出ていかなきゃいけねぇんだ…ですか?」
「なんだ、出ていくことを考えるくらいなら、ここに留まることを考えたらどうだ? 他に行くところがないんならな」
「うへぇ、ホントかぁ?! はぁーなんだかウソみてぇだな…です」
「あぁ、それから言葉遣いも気にするな。思ったことは思ったように言えばいいし、自分のことくらい呼びたいように呼べばいい」
 飾らない少年からは、何物にも囚われていない、とても自由な匂いがした。それはあのとてつもなく身軽で、決して誰にも捕まらず、何にも束縛されない覆面男と遠くで重なっているようにも思える。
「んじゃあ、おいら、でも?」
「ああ構わん。私も…そうだな、これからは『オレ』でいこう」
 城中の者達が判で押したように一様に、そして声高にお仕着せてくる諸々のものに、なぜだか無性に反発したくなっていた。そんな中で見つけた「オレ」という呼称は、ささやかだけれど最大の証明のようにも思える。
「うへへ、お殿様なのにオレって、カッコイイ」
「そうか? とにかくオレは、何一つやましいことなどしていないんだ。大人達の下らない世間体とやらに負けて、自分が決めたことや信じていることを、途中で投げ出してしまうか否かなんだ」
「はぁ? …せけん、てぃ?」
 一人分しか出されていない膳を二人で分け合いながら、話は続く。
「但し、お前がここにいる間は、これからも冷たい目が注がれ続けるだろうな。…耐えられるか?」
 すると、少年は一点の曇りもない笑顔で言った。
「えへっ、もちろんですよ。おいら、そんなの昔っから慣れっこですから!」
 その瞬間、忍路はこの年下の少年が自分より遥かに大人というものに近い気がして、内心で焦った。
 ひょっとすると、自分があの男との約束を果たせる日は、まだ遥かに遠いのかもしれない。
 それでも忍路は(もう大丈夫だ。これからは何があろうと、きっと上手くやっていける)と強く思った。



     * * *



「――そのっ、忍路様を連れだしたという木ノ葉の忍の名は?」
 いつしか対座し、身を乗り出すようにして城主の話に聞き入っていた勇名が、好奇心に負けて訊ねる。
「名は知らぬ。かなり特徴のある男だが、奴のことは決して口外しない約束だしな。それも言えぬ」
「あぁ…なるほど。そうですね」
 誰かは知らぬが、木ノ葉にも随分と味なことをする忍がいるものだ、と勇名は思う。
 父の話では「年を追う毎に、木ノ葉の忍里とそれを取り巻く人の世は殺伐としてきている」とのことだが、その裏ではこんなにも心ある同胞がいた事を誇りに思った。
 それにしても一体誰なのだろう。自分の知っている忍だろうか。話の感じからすると、自分よりは年上のような気もするが…。

「これで分かったか。紫奴の事はお前がどうこう言えるようなものではないのだ」
 勇名がいつまでも黙っているのに痺れを切らしたのか、城主が念を押してくる。
「はい、忍路様。承知致しました」
 勇名は着任して初めて、忍路の拒否を受け入れた。勿論、これであの紫奴という男の身元が証明された訳ではなかったが、後は自分で調べればよいという気になっていた。
 城主の心の中で今もなお煌めき続ける大切な記憶を、これ以上傷付けたくない。

 御簾を通さずに改めて間近で見た忍路は、自身の大切な思い出を打ち明けたからだろうか、随分と穏やかな顔付きになっていた。
 普段は極力表に出すまいとしているようだが、常にどこか寂しげで暗く張り詰めていた面差しに、安堵の色が見え隠れしている。こんな城主の表情を、勇名は初めて見ていた。
 今、自分が彼の意向を受け入れたことは、彼にとってそんなにも大きな事だったのだろうか。
 いずれにせよ、気難しく、世の常識がなかなか通用しなかったこの依頼主とようやく少しだけ距離が縮まった気がして、勇名は嬉しくなる。
 しかし。
(ああ、いけない。護衛役が個人的な主観など入れては…)
 木ノ葉の実直な中忍は、その思いを静かに滅却した。



     * * *



 だが忍路は、勇名の自制を知ってか知らずか、その日を境に夜ごと色々な話をし始めた。
「――勇名、お前は女を抱いたことがあるか?」
「っ、は?!」
 今夜も御簾越しに忍路と対峙するや、開口一番城主が問うてきた唐突な言葉に、勇名は酷く面食らう。
「女を…ああいや女でなくとも構わぬが。誰かを、抱いたことがあるかと、聞いているのだ」
 白い着物を纏った美しい城主は、微塵の照れも猥雑さもなく、静かに勇名の答えを待っている。
「……ぇっ、…ぃ…ゃ…」
 勇名は言葉を失い、俯くしかなかった。知らず眉根が寄り、じわりと顔が熱くなる。

「オレは、十七の春に初めて女を抱いたよ」
 問いに対する返答がいつまでたっても返ってこない事から、忍路はやや訝りながら話を進める。
「今から思えば、どんどん紫奴以外の他人を寄せ付けなくなっていたオレを、周囲が何とかして懐柔しようとしていたんだろうな」
 最初は人と密に接するのが億劫だった。だが、次第に上からあてがわれた女に夢中になっていった。









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