厳しい躾の中で育てられ、誰にも甘えることを許されなかった青年に、突如訪れた年上の女との情交は、たまらないものがあった。
 薄暗い背徳感と、火のような高揚感。そして激しい征服欲と切ないほどの甘えという、一見相反するものが同時に心身に渦巻く、目も眩むような時間だった。
 女は、高みに達して半ば夢心地になった忍路の髪を優しく撫でながら言った。
「若様はもう立派な大人です」と。
 言われて自分もそんな気になった。だって大人の女をこの腕に抱いて自在に翻弄しているのだ。これが大人の証でなくて何だろう。
 訳もなく心が浮き立ち、得意気な気分になった。例え褥にやってくる女の殆どが、城中で昼夜問わずに身の回りの世話をしている御中臈などの素性の知れた奉公人でなく、今まで一度も見たことのない、そしてなぜか二度会うことのない者達ばかりであったとしても、さして疑問に思うことはなかった。
 オレは(これであの男との約束をついに果たした)と思った。(きっとあの銀髪の男はやって来る。間違いない)
 そう確信していた。
 しかしどういうわけか、待てど暮らせど男は現れない。その間にも複数の女を抱いたが、それでも男が現れる気配は微塵もなかった。

「――そのうち、他人と体を繋げただけでは大人にはならないのだと、ようやく気付いたよ」
 忍路は少し寂しそうに、勇名の赤らんだ顔を見ながら言った。

 初めてあの覆面男に会った時。
「あと五年したら読んでいい」などと、大人が読むという本を見せながら言っていた。
 だが晴れてその年齢を超えた時も、あの男は現れなかった。
「――なぁ、勇名。お前の考える『本当の意味の大人』とは、どのようなものだ? 何でもいい。聞かせてくれ」
 若き城主は「またあの男に会いたいのだ」と言いながら、組んでいた長く白い足を組み直す。
「ゃっ……はぁ…。――そう、申されましても…っ」
 城主の余りにあらさまで赤裸々な話に、勇名は戸惑いながらひたすら俯く。よもやそんな話を、他でもないこの雇い主の口から聞くことになるとは思ってもみなかった。全く心の準備が出来ていない。
(そもそも、そういう話は…)
 得意じゃない。それどころか最も不得手な分野なのに、あらかた聞いてしまったし。本当に良かったのだろうか。困った。
 とにかく忍路の顔がまともに見れない。聞かれている事に何か答えねばと思うものの、肝心の言葉が浮かんでこない。格好良くないと分かってはいても、どうしようもなかった。
「えぇ…何と、申しますか……その…っ…」
 二人だけの気まずい空気を感じると、黒髪の男はますます言葉を詰まらせた。


 いつもはあれ程冷静に、憎らしいほどの粘り強さでもって、己に課せられた任務を遂げようとしてくるのに、その時に限ってどこかのネジでも緩んでしまったかのように言葉がおぼつかなくなった中忍を目の当たりにして、忍路は(これが本当にあの男なのか?)と暫し我が目を疑った。
 まるで生娘か何かのような初心な反応に、不思議さと同時に、何とも言えないおかしみがこみ上げてくる。
(お前は本当に訳の分からん、面白い奴だな)
 覆面の男が「色んな者と話をしろ」と言っていたことを、自分なりに守っていて良かった。
 頑固で任務一辺倒だった、堅物といっていい男の、いつもと違う意外な一面を知り得たことに、忍路の心はいつにない温かいもので満たされた。


 一事が万事そんな調子で、雇い主の昔話の内容は、まるで勇名を試しているかのように、次第に自身をさらけ出すものになっていく。
(――ん…まぁ、忍の口は堅いと、ある程度信用してくれてのこと…なんだろうけど、な…)
 一時期に比べて随分と協力的になってくれているのは有り難いと思う半面、(それにしても、警護の忍相手になぜここまで…?)と、生真面目な中忍は時に複雑な心持ちになる。
 いつだったか、彼が対話の場に酒と肴を用意させようとした時には、流石にきっぱりと退けたものの。
 城主から『オレは、お前がただ警護をしているだけでは物足りないのだ』と暗に言われているように思える時があるのだ。
(考えすぎ、か…)
 失礼ながら、最初のうちはてっきり昼行灯を決め込んだ世捨て人のように思っていた。だが最近では、知識が豊富で、話せば話すほど人心を惹き付ける独特の魅力に溢れた、実はとても伸び代のある統率者なのではないか…と思いを新たにし始めている。
 そんな男が切り出してくる興味深い昔話の数々には、いかに実直な木ノ葉の中忍と言えども、つい時と立場を忘れてのめり込んでしまうのが常だった。


 長きに渡って信頼している唯一の側近を勇名が認め、自身の意向と共に受け入れたと感じた途端、それまで苛々として心の奥底で固くわだかまっていたものが溶けていくような感覚に、忍路は注意深く己の内側を見つめた。
 一旦気付くと、それもまた面白いと思えた。勇名が来てからというもの、今まで以上に色んなものに…例えば人の心にも興味が湧くようになっていた。
 相変わらず城内の警備などで意見はぶつかったが、そんな自身の「内情観察」を繰り返しているうち、すぐには苛立ったりせず、最後まで落ち着いて中忍の話に耳を傾けられるようになっていく。
 自身を上手くコントロール出来るようになると、勇名との会話にも深みや広がりが増して、知らなかった世界がまた一つ開けたように感じられた。



(勇名…)
 朝、目覚めると、城主はこの部屋の周辺のどこかで夜通し自身を守っていたであろう、黒髪の忍のことを真っ先に思い浮かべるようになった。
 日が高く昇り、人々が仮初めの平穏な時を過ごしている頃、あの男は人知れず束の間の休息に入る。
 そんな時、無性に手元に呼び寄せて話をしたくなる気持ちを、忍路はぐっと堪えた。ふと気付くと、何かもっともそうな理由を付けて、顔だけでも見られないものかと大真面目に思案していることもあった。
(ふ、なんとも、おかしなこともあるものだな)
 どうやら自分は、いまだにあの男に関することだけは、上手くコントロール出来ないでいるようなのだ。

 そして今夜も城主はその理由を求めて、御簾の奥の暗がりで手探りをする。
「勇名、お前は親御殿は健在か?」
 夜間の警護をしていた勇名を呼び付けると、白い夜具に座した城主は、厚手の上着を羽織りながら訊ねた。
 その様子から(彼は長い話をするつもりでいるのでは…)と、勇名は推察する。
「いえ…、母は私がまだ幼い頃に亡くなりました。父は、お陰様で」
 現場に残してきた三体の影分身が、何事もなく稼働していることを遠くに確認しつつ、勇名は答える。
「そうか。やはり二人とも忍なのか?」
「はい。海野家は代々、と聞いております」
「そうか。――代々…、か」
 代々、という言葉の何がそんなに引っ掛かったのかは知らないが、彼はその言葉に存外力を込めていた……ように思えた。
「――――」
(はて、何が知りたかったのだろうな?)
 相変わらず城主の心の内が読みきれないでいる忍は、黙することで先を促した。


「――オレの、親の話をしようか」
 図らずも出来てしまった沈黙の澱みを振り払うように、忍路が切り出した。
「は…」
 また一段と雇い主の懐深くに踏み入るような予感がして、勇名は半ば本能的に至極曖昧な返事を返す。
 半年ほど前に亡くなった彼の先代は、鷹派で名を馳せていた人物で、それだけに敵も多かった。自分がことさらくどくどと警備体勢に口を出しているのもそのためだ。
 だが白状すると、ここ最近己の中の好奇心をどうにも抑制出来ないでもいる。
(そうだな、少しだけ…ほんの少しの間だけ…)
 まるで何かの呪文のように繰り返しながら、勇名は銀髪の青年の言葉に急速に魂を寄せていく。

「紫奴の病もすっかり良くなって、いよいよ奴と親しくなりだした頃のことだが…――」
 忍路は、白い夜具に視線を落とした。



     * * *



 その日自分は「あの者は身寄りがないそうだし、とても仲良くなったから、是非従者にしたい」と頼みに、父親のいる部屋へと足を運んでいた。
 父は昔から、一人息子に対してもとても厳格かつ、冷淡だった。だが、それだからこそ混迷の時期にも頭角を現し、火ノ国の五指に入るほどの力を有していたとも言える。
 城内にいることは少なく、居ても滅多に顔を合わせることはなかった。たまに合わせても言葉を交わす事など皆無に等しかったため、人との会話が苦手な忍路にとって、父への「陳情」は大変な壁だった。
 母もまず何より世間体を重んじる人だった。忍路にとっては二重の壁だったが、城主である父を説得しさえすれば、何とかなりそうな気がしていた。
 覆面の男とのあの「月夜の外出体験」を思い返すたび、(投げ出しそえしなければ、きっと最後までやれる。いややるんだ)と、不思議と力が沸いてきて、自分を信じていられた。
 どれほど腹が減っていても、一つの膳を分け合えるまで仲良くなった少年と離れたくもなかった。それに何より、あの銀髪男にだけは失望されたくなかったし、「大人になった」と認めて欲しかった。
 この時、自分には怖いものなど何一つ無くなっていたと言っていい。
 自分が閉鎖的な大人社会の中で、どれほど的の外れた無理難題を押し通そうとしているかなんて、気付きもしていなかった。
 だが息子が部屋に通されたというのに、無言のまま書き物を続け、いつまで経ってもこちらには何の感心も示そうとしない父の背中を見ているうち、正直怖くなった。
 もっと頭から怒鳴られると思っていた。なのに、息子である自分の存在など空気も同然。まるでこの世に居ないかのように振る舞われた事は、烈火の如く怒られるより何かが酷くこたえた。
 結局一言も発することが出来ないまま、少年はとぼとぼと自室に戻った。
 だが部屋に入ると、いるはずの少年の姿がどこにも見えない。
「!!」
 何やら酷く嫌な予感が胸の奥に走った。
 咄嗟に続きの間の襖をスパンと勢い良く払ったが、そこにも当然のように誰もいない。厠かと思い走ったが、そこにも姿はない。廊下にも、中庭にも、あの痩せこけた茶色い髪の少年はどこにも見当たらなかった。
 今になって思えば、大勢の従者らがそんな自分を面倒臭そうな目で傍観していたのだが、その時はパニックで気にもとめなかった。
(もしや…もしや…?!)
 自分がほんの少し目を離した隙に、城外へ連れ出されたのではないか。もしそうなら、彼とはもう二度と会えない気がした。
(いやだ、いやだ! いやだ…っ!)
 悲しいというより、恐ろしかった。こんなに一人になる事が怖いと思ったのは、生まれて初めてだった。城内に何人居るかもわからない従者がいても一人だった。そして気付けば、親すらも数に入ってはいなかった。
 それでもずっと、「本さえあればいい」と思っていたのに、僅か数日で自身の中の何かが変わってしまっていた。
(お願い、誰か助けて! 一人になるのはいやだ! 何でもするから、どうか助けて!)
 祈ること以外に、己が出来ることは何も無いように思えた。畳に力無くぺたんと座り込むと、震える両手の指を組んで、瞼の裏に片目の男の姿を思い浮かべながらひたすら強く念じた。
 途中、茶色のつぶらな瞳の少年の顔を思い出すと、切なくなってきて嗚咽がせり上がってくる。
 それでもあの銀髪の男に、「赤ん坊みたいにめそめそしていたクセに」と言われた事が思い出されると、喉の奥に無理矢理押し込めて念じ続けた。









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