暫く後。
「あれぇ、もう戻ってたんだ〜」という、のんびりした声がして、忍路はばっと振り返った。
 そこにはあの痩せた小柄な少年が、いつもの調子で立っていて、慌てて目縁に溜まっていた涙を拭う。
「どこ…行って…」
「あのさ『御代様がハラ減らしてるから、もっとメシ一杯出して』って、水屋に頼みに行ってた」
「水屋…」
「でもダメなんだってさ。お殿様がダメって言ってるからなんだって」
 少年は納得のいかない、不服そうな顔をしながら襖を閉めている。
「――っ」
 なぜだろう。子供心にもこんなに申し訳なく、恥ずかしく、そして情けないと思ったことは無かった。
(もう一度、是が非でも頼みに行かねば)
 忍路は心に固く誓った。


 その夜、忍路は再び父の部屋へと向かった。
 廊下の突き当たりに警護の者の姿が見えたが、向こうも自分だと分かると別段咎めもせず、その場を動かなかった。
 中には朧に灯りが灯っており、障子の向こうからはトーンを落とした低い話し声がしている。聞き間違うはずなどない、父と母だ。
 二人ともいると知って、一瞬腰が引けていた。しかしここで怖じ気づいて舞い戻っては、また同じ事の繰り返しだ。
 一度大きく深呼吸をして障子に手を掛け、今まさに「父上、御代です」と声に出そうとした時だった。
 少年の耳に、思いがけない会話が飛び込んできた。

「――まさか、あんな乞食を拾って来るとはな……今まであれ程までに厳しく躾けてきたはずが…正直恐れ入ったぞ…」
 ドキリとした。
 あれ程自分に無関心だったはずの両親が、自分のことを話している。思わず全神経を集中させ、懸命に耳を澄ませた。
「血は争えぬとはよく言ったもの。幾ら見た目が似た種とはいえ、卑しい血を躾で何とかしようなど……、そもそもが無理な話だったのです」
「――ううむ…、甘かったか…。しかし、今更どうにも出来ぬぞ。ここまで来て実の子ではないなどと言い出せば、奴等に格好の攻撃材料を与えることになる」
(ぇ…?)
 心臓が、大きく跳ねたまま凍りついた。
(いま……いま、なんて…?)
 頭の中が真っ白になった。
 自分が何をしようとしていたのかすら、動揺に掻き消されて見えなくなっている。到底信じがたい言葉に、我が耳を疑った。
 激しい動悸に立っていられないくらいなのに、聴覚だけは恐ろしく研ぎ澄まされていて、障子の内側の声を余さず拾い続ける。
「ですからっ、私があれ程申しましたでしょうに…! あの者はこれからますます手が付けられなくなりましょう。あんなどこの馬の骨とも分からぬ乞食まで引き込んで、城内を二人で好き勝手に歩き回っているなど…、もう私は歯痒うてなりませぬ!」

(うそ……うそだ……そんなの…)
 力一杯耳を塞ぎたかった。なのに、全身が金縛りにでもあったようにぴくりとも動かない。

「仕方なかろう。いつまでも世継ぎが生まれぬとなれば、当時は儂の地位さえ危うかったのだ。大体お前がもっと目をかけてやらぬからだぞ」
「なッ…何を仰いますっ! まずは城主のあなた様が…!」
「ふん、こんな面倒な事になるなら、石女(うまずめ)のお前なぞ娶らねば良かったわ。今更言っても遅いがな」
「いっ、いま何と…?! 私の父の後押しでここまで上りつめておきながら、余りに恩知らずな言い草、悔しいーッ!」
「たわけ、これで万が一にも失脚なぞすることになれば、儂が苦労して一代で築き上げたもの全てが泡と消えるのだぞ。そうなれば、お前の恩なぞ帳消しどころか恨んでも恨みきれぬわ!」
「…な、なんと酷い…!」

 皮肉にも、両者の言葉の攻撃の矛先が、自分から目の前の配偶者へと変わっていったことで、忍路の体はようやくギシギシと軋みつつも動くようになった。
 だが、その後城内のどこをどう歩いて戻ったかは、まるで記憶がない。
 気が付いたら自室の襖を後ろ手に閉めており、「あ、御代様お帰り〜」という、少年ののんびりした明るい声で、ようやく我に返っていた。
 だが「どうでしたぁ?」と聞かれても、一言も返答出来なかった。無言のまま力無く御簾を払うと、白い布団にがくんと座り込んだ。

 魂ここに在らず、というような抜け殻の自分を見て、無邪気な少年は「やっぱダメだったか」と思ったらしい。
「もう今日は寝よっ、なっ!」と、行燈の灯りを落として回ると、「おやすみぃ〜」と言って布団に潜り込んだ。
 だが続いてのろのろと床に入っても、寝付けるわけがない。布団を頭から被っても、体中で激しく渦巻いているものは何も変わらない。それどころか、今し方の恐ろしい会話がより鮮明に脳裏にこだましてきて、他のことは何一つ考えられない。
 一生このままかと思うほど、明け方近くまで同じ事を何度も何度も繰り返し考えた。
(――実の息子では、ない…)
 だから今まであんなにも無関心だったのか?
 だから今まで周囲の目ばかり気にしていたのか?
 だから今まで…
 だから…
 後から後から、恐ろしいほど心当たりが浮かんでは消えていく。
 やがて、襖の隙間から淡い光が射し込み始める頃。
 それらの事実を否定するような出来事が何一つ浮かんでこない事にようやく気付くと、それまで激しく波立って揺らいでいた心が、ことりと一箇所に転がって止まった気がした。
 そして(あぁなんだ、そうだったのか)と、自分でも意外なほど静かに思った。だからか、と。
 何の疑いもなく信じていた者に裏切られた事は、とても悲しく、辛かった。十を幾つか超えたばかりの子供が一人で乗り越えるには、あまりにも大きな出来事だった。
 けれど、ようやく落ち着いてきた時、ふと思ったのだ。
『不思議と、さっき少年が居なくなったと思い込んでいた時ほどは切なくないのだな…』と。
 確かに、先刻のようには涙が出なかった。
 むしろ時が経つにつれ、(自分はこの先どうなってしまうんだろう?)という、漠然とした不安の方が大きくなり、心の中の涙は急速に乾いていく。
 それは、十三の少年にとってまだ少しは幸運だったのか、それともこの上ない不幸だったのか。
 ふと気が付くと枕の下に手を入れて、螺鈿細工の短刀を固く握り締めていた。
 そんな風にして、少年は一睡もしないまま、朝を迎えた。



「あれ、御代様、目が赤いよ?」
「そ…、そうか?」
 朝、開口一番紫奴に言われて、慌てて目を擦った。確かに睡眠不足のために目も頭もどこかぼんやりとして辛かったが、何より胸の辺りに何かが重苦しく詰まっているような気がして、その感じが何ともいえず不快だった。
 出来ることなら、今すぐにでもそれを払拭したいと思う。
(昨日までの自分を捨てて、新しい自分になりたい。いやなる!)
 もう少し冷静になって考えれば、そんな事は到底無理だと気付きそうなものだったが、あの会話を聞いてしまった後では、とてもそんなに落ち着いていられなかった
 それはある意味、辛い現実からの逃避でもあったが、もう一方では僅かな希望に支えられた、「必死の模索の末の第一歩」とも言えた。
「なぁ」
「うん? なに?」
「オレは、今日から名前を変えようと思う」
「えぇ〜? 変えるって、いいけど、なんで?」
「ま…ちょっと、な。色々あって、気分を変えたいんだ」
「ふぅぅ〜ん? で、何て名前にすんの?」
 茶色い髪の少年は、同系色のつぶらな瞳をくりくりさせながら、興味津々といった様子で自分の言葉を待っている。
「忍ぶ路と書いて、忍路だ。それなら読みは同じだから、お前も呼びやすいだろ?」
「しのぶ…みち…?」
 変えると言った割には、音感的には何ら変わっていないその名に、向かいの少年は少々拍子抜けしたようだった。だが忍路本人にとっては、とても大きな転換と言えた。
 あの覆面男がこの事を知ったら、何と言うだろうか?
 今朝方、短刀を見つめていた際にこの案を思い付いた時には、それまで感じていた不安や悲しみが随分と和らいだ気がしていた。
(きっと、喜んでくれる)
 以前、あの男に初めて会った際、生意気にも「元服の儀などという形だけのものでは、自分も周囲も何も変わらない」などと批判していた事もすっかり忘れて確信していた。
 心密かに尊敬している、あの銀髪の男からも一文字を貰った。そしてその文字が意味する通り、これからは置かれた状況を堪え忍んでいくのだ。
(オレは、忍路だ)
 今日からオレは生まれ変わる。昨日までの自分は、同じ自分であってそうでない。

 少年は、心を痛め付けられる辛さを、己の望む名前に転化することで、その苦しみを何とか乗り越えようと、ほぼ無意識のうちに必死で藻掻いていた。
 だがそれは、城内の大人達から見れば全く意味不明の、しかも極度に不快な行為でしかなかった。
 図らずも忍路の選んだ茨の道は、尚一層深く、険しくなっていった。

「んじゃおいらも名前変えるよ! 忍路様、なんかカッコイイのつけて」
 自分より更に幼い少年は、まるでゲームか何かのように屈託無くその行為を楽しんでいる。とはいえ、そんな些細なことでも、今の忍路には救いだった。
「ん、そうだな…、お前のその手のアザ…」
 少し考えて、忍路は今にも折れそうな細い腕に浮いた、紫色の痣を指差した。
「これかぁ?」
「ああ、それを名前にしよう。紫の奴で紫奴、どうだ?」
「ええ〜〜シドぉ〜?」
 思わず少年の口から、不満そうな声が上がる。
「嫌か?」
「…え? …ぁ…うん。だって…」
 少年は俯いて言い淀む。明らかに何かしらの引っかかりがあるようだった。
「いいか、もしもお前がそのアザを恥じているなら、その必要はない。隠す必要もない。隠すから皆が面白がって苛めるのだ。堂々としていればいい。苛められるからと、こそこそしているお前なんかオレは見たくない」
 両親が…いや、両親だと何の疑いも抱いていなかったあの二人が、「卑しい血の者」と自分を称していた記憶が、再び生々しく脳裏をよぎる。
(卑しい血とは何だ? どういうことを指しているんだ?)
 なにも分からないのに、訳も分からず不安になる自分をどうにもできない。
(卑しい…血…)
 だから、少年に対して言ったその言葉は、そのまま自分への励ましの言葉だった。
(そうだ、オレは忍路だ。逃げも隠れもしないぞ。堂々としていればいいんだ)
「うん、わかった! じゃ、おいら紫奴な!」
 その言葉に背中を押されるようにして、忍路は再び父の…いや、父と思っていた男の元へと赴いた。









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