「――どうした、勇名?」
 いきなり自分の名を呼ばれ、木ノ葉の中忍はハッと我に返った。
(ぁ…)
 忍路が細い眉を顰めて、じっとこちらを見つめている。自分は今、どんな顔をしていたというのだろう。
「いっ、いえ…」
 気持ち血の気の失せた白い頬を、勇名は意味もなく片手で撫でた。
(もしも…もしもこの話が全て、事実なのだとしたら…) 
 勇名は、今し方の城主の話をまだ頭からは信じることが出来ずに、どこかぼんやりとしたまま思った。
(聞いてはならぬ事を…聞いてしまった…)
 一旦速くなった胸の鼓動は、すぐには静まりそうもなかった。情けないことだが、ほんの一瞬、(忘れられるものなら…)とすら思った。
 胸を衝かれたのは、彼が先代の実子でなかったというくだりだけではない。「卑しい血」というその言葉に、自身でも理解し難いほどの衝撃を受けていた。
 いつの頃からだろうか。他ならぬ里の同胞達が、一部の心無い雇い主や里外の一般人らにそう呼ばれていることに、薄々ながら気がつき、意識しだしたのは。
 だが表向きは、敢えて気付かぬふりを続けていた。取り合ってどうにかなるものでもない、というやや後ろ向きな思いもあった。
 その長年に渡って敢えて視界に入れないようにしてきた鋭い言葉の刃を、今真っ暗闇から鼻先へ、いきなり突き付けられた気がしていた。
(彼が何故、その先代夫婦らに「卑しい血」の者と言われたのかは分からないが…)
 ほどなくしていつもの冷静さが戻ってくると、勇名は護衛役としての顔に戻って考える。事の子細は分からないが、この事実が何らかの事由で何処かに漏れれば、彼の人生が一層大きく狂っていく事になるのは間違いないと思われた。それは危うい均衡を保っている火の国の政情までもが、一気に不穏な方へと傾く可能性をも孕んでいる。
 また彼の母親…いや今は亡き先代の妻が、血の繋がらない彼に対して良い感情を抱いていないらしい事から、彼女とその周辺の人物からも目が離せなくなったな、とも思う。
 そして勇名は、何故この若き城主が、様々な警護の穴を今の今まで放りっぱなしにしていたのか、何となく分かったような気がした。
(……生きる目的が、なかった…)
 思えば彼は、何にも執着していない。城主としての最低限の執務はこなしているものの、大名なら誰もが喉から手が出るほどに欲している地位も、名誉も、権力も、富にも、そしておのが生きるという事さえも、彼の目にはどこか色褪せて映っている。唯一何かしらの意欲が垣間見えるのは、こうして向き合って昔話をしている時だけのように見えてならない。とても孤独なのに、城主という立場上、誰にもその飢えや渇きを訴えられず、心の奥にひたすら隠し通して、何でもないような振りをして見せている。
(そうか…)
 よく知りもしないまま、自分は彼を馬鹿殿などと決めてかかっていたが、とんでもない誤解だったなと今更ながら深く反省する。そしてそんな自分を信用し、思い出すのも辛いであろう過去を打ち明けてくれたことが、嬉しかった。


 夜も更け、床に就いた忍路のかすかな寝息が御簾の向こうから聞こえ始めると、勇名は城内に追加の影分身を二体放ち、自身は部屋の隅に座した。
 そして目の前にあった行燈の灯りを吹き消すと、その姿を闇に溶かしつつ考える。
(仮にもし、己が卑しい血の者だったとしても構わない)
 結論はすぐに出ていた。改めて考えるまでもないことだ。
 依頼主であるこの男…忍路を、全身全霊をかけて守り抜くことについては、一切、何の支障もないはずだ。



     * * *



 翌晩、忍路と勇名は、再び向かい合って座していた。
 夜具に腰を下ろした忍路は、もう御簾を下ろさなかった。
 二人の間を隔てていたものが、ひとつ、またひとつと消えてゆく。
「――オレが紫奴を従者にしたいと、頼みに行く所からだったな」
「は…、はい」
「勇名、何を緊張している? 心配するな。オレがこうしてぴんぴんしていると言う事は、彼等に取って食われたのではないのだ、安心しろ」
 忍路は勇名の表情を見るや、くっくと笑った。
「………」
 すると黒髪の中忍はますます複雑な表情になり、いつもはきりりとしている眉を寄せている。その様子を見た忍路は、再び小さく口元を綻ばせた。

「父の部屋に通されると、オレが何を言いに来たかをおおよそ察したらしい彼は、すぐに母を呼んだよ」
 だが、話ながら俯いた忍路の目元には、もう既に濃い影が生まれていた。
 そしてそれをすぐ間近から見とめた勇名は、当時の幼い彼が受けた言葉に出来ない辛苦を思い、密かに胸を痛めた。



     * * *



 その夜、二人の大人の前に立った少年は、持てる勇気の全てを奮い起こすと、自身が紫奴をどんなに大事に思っているかを説明し、『確かに最初はほんの出来心だったかもしれないが、今では決して遊びなどではない』と、懸命に力説した。
 そして「二人とも名も心も入れ替えて、今日から何もかも新しくして心機一転頑張る。嫌がっていた武術も礼法も全て言いつけ通りにするから、どうか彼を側に置く事を許して欲しい」と懇願した。
 だが、忍路の言葉の全ては、ただただ一方的に二人の嫌悪感を煽り、激怒させただけだった。
 母はヒステリックに叫び、父はいまだかつて見たことのない形相で怒鳴り続ける。
 それは、「話し合い」などというものからは程遠い時間だった。
 気の遠くなりそうな平行線を辿るうち、次第に少年の気力は打ちひしがれてきて、言葉が続かなくなってくる。
 そうなってくると(それでもどうしても引き下がるわけにはいかない、紫奴と別れたくない!)という激しい葛藤との狭間で、もはや自分の身を削るような実力行使に出るしか術はなくなっていた。
 限界まで追い詰められた少年は、自身を鼓舞するお守りのつもりで懐に持ってきていた螺鈿細工の短刀を、やにわに取り出した。
 二人がギョッとした様子で息を呑んで身構えたのが分かったが、その目の前で美しい鞘を払う。
 まさかそんな行為の一つ一つまでもが彼等の心証を尚一層悪化させ、もはや二度と修復不可能な深部にまで悪印象を灼き付けてしまっているなどとは、思いもよらずに。

 美しい虹色の貝細工の中から音もなく滑り出てきたのは、行燈の光をぎらぎらと妖しく跳ね返す、銀色の刃だった。忍路は急に口ごもって後ずさりしだした大人達の前で、同じく銀色に光る長く艶やかな髪を掴んだ。
 そのまま髪の根元付近に冷たい刃を当てると、母が引きつるような短い悲鳴を上げる。
 その際、(この刀でこんな事をしたら、あの男は何と言うだろう?)という思いが脳裏を過ぎり、ほんの一瞬だけその決意が鈍ったが、この期に及んで後戻りなど出来るはずもない。己の思いの強さ、決意の固さを、今ここではっきりと証明してみせなくては。
 よく研がれた銀色の刃は、少し力を入れただけで、少年の柔らかな髪をあっさりと断ち切った。
 騒ぎを聞きつけた側近らが、ただ事でない様子にどやどやと踏み込んできた時には、散らばった無数の銀糸の中に、冷たく冷えきった「家族という名の他人」が三人、佇んでいるだけだった。
 唯一救いだったのは、世間の目を極端に気にする母が、それ以上の騒ぎをそこで起こされないために「勝手に、なさい!」と、震えながら言い放ってくれたことだけだった。


 自室に戻ってきた忍路は紫奴と肩を叩き合い、転げ回りながら「陳情の結果」を喜びあったが、暫くして興奮の波が引いていくと、ぺたんと畳に尻餅を付いて放心状態になった。
「あれぇ、忍路様? 髪、無いじゃん?!」
 布団で手足をばたばたさせて喜んでいた紫奴が、ようやくその容姿の変化に気付いて、頓狂な声を掛ける。
「――あぁ…? …うん、でもいいんだ。これで」
 手近に鏡がなかったことから、忍路は再び短刀を抜いて、その横顔を刃に映し見ながら言った。
 その見目形は、欲目からだろうか? 見れば見るほどあの銀髪男に似ているように思えた。
(ははっ、いいぞ)
 新しい名前と共に、また一歩あの男に近づけた気がして、だんだんと愉快な気分になってくる。
 ふと気が付けば、ついさっきまで身を…いや心まで切りつけるような激しい言い争いをしていたことさえ、もうどうでも良くなっている。
「うはっ、その髪いいじゃん。長いよりイイかも〜?」
 紫奴が屈託無く笑っている。自分が目の高さに刀をかざしていても、彼は全く怖がる様子もなく、すぐ近くまで寄ってくる。
 くすぐったいほど嬉しかった。人から信頼されるということはこんなにも嬉しいものだったかと、生まれて初めて思った。
 そして途中で投げ出すことなく、勇気を振り絞って良かったと心から思った。
「そうか、長いよりいいか」
 忍路は、銀色の刃を美しい鞘へ静かに戻した。



     * * *



 その夜遅く。
 忍路は白い夜具に身を横たえたものの、先程までの一連の出来事を思い出すたび、鼓動が高鳴ってなかなか寝付けないでいた。
 隣の布団では、紫奴が軽い寝息をたててよく寝入っている。
 しかしまだ軽い興奮状態にあるらしい自分は、どんなに長く目を閉じていても眠くならなかった。
 そんな時、忍路はいつものように枕の下に手を入れる。あの短刀を握って目を閉じていると、不思議と心が穏やかになれるのだ。
(……おや?)
 だが幾らまさぐっても、枕の下にいつもの刀の感触がない。
(? 変だな、さっき確かに…)
 忍路は慌てて上半身を起こした。すぐに短刀の形を求めて、明かりの落ちた枕の周辺を注意深く見回す。目の端に、黒い人影のようなものが映った気がしたのはその時だった。
(?!)
 ハッとして息を呑み、恐る恐る顔を上げると、御簾の向こうにあの背高い男が立っていた。
「お前…っ!」
 忍路の少し下がり気味の目が、一杯に見開かれた。
 まさか、こんなに早く銀髪の男にまた会えるとは思ってもいなかった。驚きはすぐさま堪らない喜びに取って替わる。
(紫奴は、ちゃんと最後まで看病したぞ)
(諦めずに勇気を出してお願いしに行って、そして見事に許可を貰ったんだ。どうだ、凄いだろう!)
 男に聞いて欲しいことが、山ほどあった。またあの温かな懐に抱かれ、遙かな城下を見下ろしながら、「よく頑張った」と誉めて貰いたかった。
 忍路は布団を勢い良くはねのけると、そのまま胸に飛び込むつもりで御簾を払う。
 目の前にいる男に向かって、夢中で二、三歩踏み出した、途端。
 びりっとした、酷く不快な空気を肌に感じて、思わず足を止めていた。
(っ、今の、なんだ…?!)
 立ち止まったまま、訳も分からず男の顔を見上げる。決して気のせいなどではない。まるで全身に静電気でも走ったような感覚だった。片方だけ見えている灰青色の瞳と、真正面から視線がぶつかる。
 その目を見た途端、どういう訳か「いけない!」と思った。『男に、叱られる』。そう直感した。
 それほどまでに、男が発している空気は固く、冷めている気がした。
(ぁ…)
 すっかり浮かれて熱くなっていた体が、一気に冷めて強ばっていく。心臓だけが不安に駆られ、激しく鼓動している。
 結果、男と一間ほどの距離を置いて突っ立ったまま、動けなくなった。
「――おや、どうなさいました? ここまで来れない、何かやましい事でもあるんですかねぇ?」
 男の問いかけが、怖いほどずっしりと胸に響いた。









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