「―――っ…」
 何も話さない、いや話せない沈黙の時間が、これほどまで重苦しいものだったとは。
 忍路はその年にして初めて身に染みて感じていた。
 この男にだけは、どうあっても嫌われたくなかった。絶対に見放されたくない。その彼の静かすぎる言葉を耳にした途端、急に怯えのようなものが胸一杯に広がりだした。
 心の中では、(迷うな! 「やましい事など何も無い!」と言って走れ!)と、盛んに弱気になりそうになる己を鼓舞している自分がいる。だがいま改めて思い返してみると、自分はあの時、大人達を上手く説得しきれずに、言葉を失ったままカッとなって激情に身を任せていた。
 髪を切り落とす直前、確かに(こんなことしたらあの男は…)と、ほんの一瞬躊躇はしたが、それもすぐさま昂ぶりに押し流され、掻き消えていた。
「そんな刹那の思いなど、何も感じなかったことにしてしまえばいい」と、もう一人の強気な自分が囁いている。
 けれどこの男の前では、何故か微塵も嘘がつけなかった。

「……ごめんなさい」
「何がです?」
「その…っ、何て言っていいか…分からなくて……思わずカッとして……」
「それで、その頭になったと?」
 明らかに咎めだてる気配を含んだ男の指摘に、強張っていた体はますます小さく竦んでいく。ついさっきまで、あんなに喜びに胸躍らせていたのが嘘のようだ。
「――――」
 二の句が継げない。出来ることと言えば、ただ黙り込むことしかなく。
 男もまた何も喋ろうとしないため、忍路にとって世界は針の蓆(むしろ)同然だった。



     * * *



(さて、どうしたものか…)
 遠方の任務でちょっと目を離していた隙だった。そんな時に限って突拍子もない事をしでかす少年に、どう対処したものかと男は思案する。
 純粋で汚れのない心を持った少年は、その幼さ故に図らずも大人達には最も理解し難い、最難関の茨の道を選び取ってしまっていた。そしてそれを子供特有の頑なさでもって、今も尚、真っ直ぐに貫き通そうとしている。
 以前、『大人になったことを最大限利用すればいい』と声高らかに言ったことなど、もうすっかり忘れてしまっている。ただでさえこの少年は、とても不安定な薄氷の上に立たされているというのに。
 その足下の危うさを知らぬがために、自らの足で薄氷を踏み抜こうとしている事に全く気付いていない。
 その危うさを、遠回しにでも教えてやるべきなのか。それとも何か別の方法があるのか。
 まだ答えは出ていない。
 男は、長い髪を切り落としたことでいよいよ自分に似てきた少年に向かって、一歩静かに踏み出した。


「――また随分と…無茶をしましたね」
 近付いて、溜息混じりに短くなった豊かな銀髪をそっと片手で撫でてやる。と、少年は、それまでやせ我慢をして内に押し込めていた諸々が、一気に溢れだしたらしい。
「ごめんなさい! もうしないから許して! もう来ないって言わないで!」と、泣いて縋りついてきた。
 最初に会った頃、この少年はもっとずっと大人びていた。
 プライドが高く、利発で、厳しく躾けられている事が一目で分かるような、落ち着きのある寡黙な子だった。
 それが今はどうだろう。短期間で起こった様々な出来事が、すっかり彼を変えてしまっている。
 それまで本が友達で、孤独を肌身で実感したことなどなかった少年が、いきなりその辛さを知ってしまった……いや、知らされてしまった、というところか。
 なのに図らずも、ますます城内の者達から孤立するような行動を取ってしまっている。
 少年の急激な変化に、(本当にこれで良かったのか?)という後悔にも似た不安がよぎる。彼がこの先何を思い、何を選び取っていくかなど、もはや自分には皆目分からない。
 だが置かれた状況からするに、恐らくは先の見えにくい、不安定な日々が多くを占める暮らしになるであろう事は想像に難くない。
 そんな時、すぐに苛々したりカッとなって後先考えない行動に出てばかりいては、開けるものも端から閉ざされてしまうだろう。
 彼には『暗闇というのは見通しがきかないだけで、行く手が閉ざされている訳ではない。実はまだ見えてないだけで、進むべき道は必ずある』ということを、何とか遠回しにでも教えてやりたかった。
(果たしてそんな事を、このオレが出来るかどうかだが…)
 正直、甚だ怪しい気もする。ちょっとした出来心で接触を試みた事が、彼にここまで大きな影響を与えるなどとも思っていなかった。
(まっ、お陰で少しは人間らしくなってきたか…)
 少年が辿った感情の殆ど全ては、自身にも少なからず覚えがある。
 彼のとった行動を頭から否定する事など、当時の自分には到底出来はしなかった。





(――当時は、ね)

 眼下で二人の青年が向かい合い、静かに会話する声に耳を傾けながら、銀髪の男はゆっくりと右の瞼を開いた。
 天井裏に縦横に走る、手斧跡も美しい堂々たる欅柱にもたれ、先程から腕を組んで俯いている。
 足下からは、不思議と耳触りの良い、二人の青年の話し声が漏れ聞こえてくる。


「――勇名、今まで何度も怒鳴ったりして悪かった。あの時も、覆面の男にもっと冷静になるからと泣いて謝って、もうすっかり懲りたはずなのに、どうしてもまだその悪癖が直せないのだ。人はそう易々とは変われないらしい。結局何度でも同じ事を繰り返してしまうのだ。……オレは本当に…愚かな男だな」
「いえ、そんな…!」
「こんな事をいつまでも繰り返しているようでは、あの男にも会えるわけがない」
 銀髪の青年は、少し寂しそうに黒髪の青年から視線を逸らす。と、向かいで控え目な姿勢で城主の話を聞いていた忍の頭が、ぐっと上がった。
「忍路様、一度で人が変われる者など、果たして居りますでしょうか。そのような者を、私は未だに見たことがございません。もし居たとしても、すぐにほころびが出ましょう。父も申しておりました。『何度も繰り返し失敗して学び得た術ほど、最後まで忘れないものだ』と」
(ふっ…)
 途端、屋根裏にいた男の口布の下で、薄い唇が片方だけ小さく吊り上がった。
「そうだな…。そうやっていつしか学べればよいが……結局一生直らぬ、ではな」
「そうでしょうか? 私は、そのままの忍路様でも良いと思いますが」
「なぜだ? 一番迷惑を被っているのは他でもない、お前だぞ」
「あ、いえ…っ、そのっ、――無理に…直さずとも…」
「…そう、か?」
「……は…」


 己のすぐ頭上――天窓の外を――勇名の放った影分身が行き過ぎるのを、完璧な気殺と潜身術でもってやり過ごすと、銀髪の男は再び足下の会話に耳を傾けるべく、柱にもたれた。気持ち小首を傾げるようにして俯くと、下の様子が手に取るように伝わってくる。
(この二人、面白い)
 意識せず、つい口端が上がってしまう。
 ここに長くいればいるほど、優秀な勇名の影分身に勘付かれて面倒なことになる可能性があったが、その危険を犯してでも、この場からは立ち去り難いものがあった。
 最初の頃は「柄にもない」と、何度やめようと思ったかしれない。だが結局は、こうして今に至っている。
(こういうの、罪滅ぼしっていうのかねぇ…)
 男は、明かり取りの天窓に切り取られた、重い墨色をした夜空を見上げた。
(――あぁ、そうそう。それであの夜、あいつに「あの話」を聞かせてやったんだったな…)

 二十年前のあの夜も、月も星もない、塗り潰したようなこんな夜空だった。




     * * *




(――クソッ)

 はたけカカシは、里から持参した任務概要の記された契約書状を、乱暴に握り潰した。
 雇い主は、火ノ国の有力大名。依頼内容は護衛。
 だがその内容が気に食わないかった。里で最初に概要を聞いてからと言うもの、もうずっと納得出来ずに意識の端でわだかまっていた。
 それでも今し方、雇い主である城主には接見して、通り一遍の挨拶をし、こうして戻ってきたばかりなのだが、内容に納得して一息つくどころか、かえって不快さが増していた。
(なんなんだ…)
 これまで数え切れないほどの要人を見てきたが、あのような人物が暗殺に怯えて警護を付ける必要などないというのが正直な印象だ。
 着任の挨拶の際に間近で見た、依頼主の柘植という人物は、金だけはある、口の達者な小物という印象だった。
 なぜこんな男が有力大名の一角に頭角を現してきたのか、不思議なくらいだが、あのような人物が最大派閥を牛耳るほどにまでなれる、今の政財界の体たらくぶりにも末期的なものを感じた。
 お陰でこの任務をオレに回してきた、三代目火影と上層部の采配にも、内心得心がいかないでいる。
 例え暗部上がりの上忍であろうと、一旦己に割り振られて決定した任務は、拒否権は元より、一切の抗議すら出来ない。こうして着任してしまったら尚のことだ。
 だが(自分の能力を最大限有効に発揮できる、危険度の高い任務がもっと他にあるはずだ)という思いは、なかなか消えていかない。報酬など要らない。逆にくれてやっても構わないから、もっと緊張感のある任務に就いていたかった。
 危険な任務に没頭していさえすれば、一時的であれ、煩わしい一切のことを忘れていられる。ここまでリスクを顧みない「使える」者を、たかだか小物大名の護衛如きに貼り付けてしまうなど、誤采配もいいところだ。
 恐らくは有力大名の依頼に逆らえず、『里一番の上忍を』とかいう金にあかせた依頼を、二つ返事で受けてしまったのだろうが、それほどまでに今の隠れ里は「平和貧乏」に喘いでおり、金に目が眩んだ上層部の連中もまともな判断が下せなくなっている、ということなのだろう。
(平和…ねぇ)
 隣国との国境付近や政情不穏な現場など、実際に任務に出ている者は、そう遠くない未来に再び大きな戦が起こるかもしれないという予兆めいたものを感じているというのに。
 結局、優秀な手駒が本当に必要になった時、一人も手元にいなくて困るのは里の上層部だ。

 燭台もなければ、暖も夜具も、畳みの一枚すらない掘っ建て小屋の窓際で、埃っぽい床板にのろのろと腰を下ろす。立てた片膝を抱え、そこに顔を伏せて、空いた片手で銀色の頭髪をぐしゃりと乱暴に鷲掴んだ。

 先刻、案内の者に、警護にあたる本丸からは随分と離れた三の丸の外れへと連れて来られた。そして「滞在中はこちらの部屋をお使い下さい」と言われた場所を見て、(なるほど)と思った。
 そこは到底部屋などと呼べるものではない、厩舎の北側にしつらえられた、単なる粗末な物置小屋だった。
 案内の者が逃げるようにして姿を消すと、その真っ暗で静まり返った中へ足を踏み入れ、音もなく引き戸を閉めた。
 武具や資材が所狭しと置かれた埃まみれの小屋の中は、北風が吹き抜けている外よりも冷え込んでいる気がした。
 かりそめの平和が続いていることで、財政難に陥っている隠れ里の立場は圧倒的に弱くなっている。そのため、「どんな待遇でも文句は言わないだろう」、或いは「言わせないぞ」というスタンスなのだろうが、その考えにはどこか薄ら寒いものを感じずにはいられない。
「カカシ。お前には護衛という大任に相応しい部屋を用意しておいた。今夜はゆっくりと寛いでくれ」などと言っていた、城主柘植の言葉が脳裏をよぎる。
(そういう事かい)
 勿論そんな大仰な労いの言葉を真に受けていたわけではないが、要するに有力大名の彼にとって忍とは、刀剣などと全く同じ「単なる道具」にしか過ぎないのだろう。道具なのだから、一切のもてなしは不要というわけだ。
 ちなみに、高名な名工の名が刻まれた銘刀の類は、彼ら大名にとって道具ではない。財産だ。









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