「聞こえたか。お前のことを、好きだと言っているのだ」
「――ゃっ…しっ、しかし、私はっ…!」
「男だし忍だから、と言うのだろう? 安心しろ。オレは、お前がどのような身分でも気になどしない。性別も関係ない。お前がいいのだ。いや、オレはお前でなくては駄目なのだ」
 言いながら立ち上がった忍路が、大股で勇名に歩み寄っていく。
「な…」
 長年かけて身に染みついた仕来りから、座したまま後にいざってゆく勇名の動きは、緊張と動揺で竦んでいるのかぎこちない。しかも幾らも下がらないうちに、立派な槙の床柱に背中が突き当たる。
「殿…っ、忍路殿っ…」
 呼びかけは、彼に届いているのかいないのか。
 忍路は屈むと同時に彼の頬を両手で包んで上を向かせ、待ち侘びていたように夢中で唇を重ねていく。
「――ん…っ、…ぅ…!」
 勇名はすぐさま忍路の両手首を掴んで、抗いの姿勢を見せるものの。
 何度も角度を変えながら優しく唇を舐められ、そっと舌を吸い上げられると、両の手は徐々に力を無くしてゆき、戸惑いながらもやがてはたりと体側へと落ちていった。

 顔は火照って熱く、鼓動は早鐘と化している。
 そんな思い人の様子を、諦めなどではなく受容と前向きに受け取った忍路は、またひとしきり思いのこもった口づけをすると、きつく勇名を懐に抱き寄せたまま命じた。
「勇名、今日限りでお前との護衛の契約を打ち切る」
「?!」
 懐で再び焦って抗おうとしていた動きが、固まったように止まる。
「その上で、改めてお前に生涯ここに居てもらえるよう、明日、六代目火影に直接掛け合いに行く。お前も一緒に来い。良いな」
「な…ッ?!」
「案ずるな。今度の火影、なかなか物分かりの良い男と聞いている。勿論、優秀な忍を一人、永久に開放して貰うのだ。こちらとて何の見返りもなしに頼むつもりはない。今後、政治的、金銭的に里には最大限の援助はしていくつもりだ。あとは火影殿の気持ち次第だが、大丈夫だ。何としても説得してみせる」
「ちょッ…?! まっ、…待って下さい!」
「待てぬ。お前の頑固さ、オレもとくと学ばせてもらった。今回だけは譲らぬ」
「やっ、譲らぬも、何も…っ!」
「まだ分からぬか? こうでもしないと、お前はいつまでたってもその忠義が邪魔だてをして、こちらに踏み込んで来れないだろう? 違うか?」
「…っ、いえ、そんな! 踏み込むって、いや、あのっ…!」
「あと半月して契約が切れた時、誰か替わりの者と交替などされたくない。オレが生きている間は、お前にずっと側にいて欲しい。もし、火影殿がその代償として全財産を投げ出せというなら、喜んでそうする」
 忍路の目は怖いほど真剣で、安易な返答などとても出来そうにない。
「止めて下さい! そんな、無茶なっ…」
「まぁ落ち着け、勇名。お前らしくないぞ。それよりお前は、オレの事が嫌いか? こんな事をされて、もう二度と顔も見たくないか? どうなんだ? オレは何より、お前の意志を尊重したいのだ。もし嫌なら嫌だと、嫌いなら嫌いだと、今、ここではっきりと言ってくれ。でないとオレは、どうしてもお前を諦められない」
 忍路は落ち着いた声音で真摯に、そしてかつてなく熱っぽく語りかけてくる。
「…えっ、…いや、そんな…っ、…急に、言われても…っ…!」
 若き中忍は、いつもの凛とした気迫はどこへやら。すっかりしどろもどろになって、一度も顔を上げられぬまま、ただただ俯いた。


(そんな…。私は…、…自分は…)
 一体、どうすればいいというのか。
 勇名は、最近になって就任したばかりの、六代目火影のことを思った。
 まだ若いが、とても明るく、気概のある好人物だ。破天荒で一本気なところを見せる一方で、温かな人情味に溢れる人懐っこさもあり、周囲からの人望は非常に篤い。
 その、どこまでも澄んで瑠璃色に輝く瞳と、黄金色にきらめく髪の里長の前に、この若く堂々とした銀髪の城主が自分をかけて直訴しに行くという。
 勇名は、言葉にならない大きな不安と、自身のどこから生まれ出たのかも分からない仄かな期待とが胸中で複雑に入り混じるのを感じ、軽い目眩を覚えた。



     * * *



「――さぁて、アイツは何て言いますかねぇ」
 
 銀髪の男が里の中心部から遠く離れた山中の草庵に戻ってくると、すぐに熱い茶が淹れられ、小さな卓袱台に置かれた。
「アイツだなんて…ちゃんと六代目って呼んであげましょうよ」
 心持ち眉を寄せた、黒い瞳の男がたしなめる。

(この人も…随分変わったな…)
 口布を顎まで下ろして茶を啜っている男の横顔に、ほんの僅かだけ意識を注ぐ。
 あの二〇年前の一件以来、彼は共同任務の重要性に目覚め、一匹狼的スタンスは急速に影を潜めていった。
 また、自分を受容してくれる者がいるのだという安心感を得たためか、苛立ったり、すぐにカッとなって単独行動に出たりする事も無くなっていった。
 元々はとても素直な男だったのだ。頑なだった心も一旦開かれれば、その都度葛藤をしながらも、様々なものを柔軟に受け入れ、自身を変えていけるだけの勇気のある人だった事が幸いした。
 そうなれば、彼に元から備わっていた類い希なる才能が一足飛びに花開いて、時と共に円熟味を増していく。
 遠く過ぎ去ったあの日、彼の能力を敵として肌身で体感した事も、今となっては僥倖と思える。
 人が前を向いて日々成長していく軌跡を、少し離れた所から静かに見守ることは、アカデミー教師という道を選んだ自分にとっては密やかかつ無上の喜びだ。
 だが二人いた家族のうち、一人は忍になったものの、もう一人は病に倒れて天へと旅立っていった。
 そうして再び独り身になったことを契機に、縁あってこの人と一緒に暮らしてはいるが、今も彼を見守っていたいという気持ちに変わりはない。

「そうはいいますけど、オレにとっちゃいつまでたっても教え子ですからねぇ。大体アイツだっていい年して、いまだに『カカシ先生ぇ〜、イルカ先生ぇ〜』じゃないですか」
「アハッ、まぁそうなんですけどね。いい加減先生は止めろと言ってはいるんですが、どうしても直せないらしくて」
「だーかーら、いいんですって。アイツはアイツで」
 男は得意の半眼のまま片手をぷらぷらと振り、至極いい加減そうなポーズを見せる。
 だがもうこの男とは、かれこれ二〇年来のつきあいなのだ。
 彼や、アカデミー時代から散々手を焼かされてきた金髪の六代目が何を言えばどう返すかなど、自分には手に取るように分かるつもりだ。
「きっと…何だかんだ言っても、最後には笑顔で許してしまうような気がしますよ。六代目」
「でしょうね」
 当然、とでも言いたげな返事が、即座に返ってくる。

(確かにあの二人の容姿を見たら、流石の六代目もちょっと断りきれないだろうな)
 ひと目見るなり盛んに不思議がるであろう状況を想像するだに自然と眉根が寄り、やれやれと苦笑しながら思わず小さく肩をすくめてしまう。
 六代目には何とも申し訳ない気がしたが、昔からちゃっかりしていた彼の事だ。きっと忍路からそれなりの資金援助を得る約束をし、勇名の抜けた穴をしっかりカバーしていくだろう。もちろん後日呼び出されて「こんなことがあったが」と興奮気味に聞かれることになるだろうが、「そうですか。偶然とは面白いものですね」と笑って了承するだけだ。
「しっかし、アンタも人が悪いねぇ。あれほど忍路がアンタの子を探してたってのに、わざと手を回して派遣しないようにしてたでしょ?」
「ッ!? あッ、当たり前ですよっ! 何であんな『黒目黒髪』なんていう外見を指定してくるような滅茶苦茶な依頼に、わざわざ自分の子供で応えなきゃなんないんですか!」
「うわーずるいねぇ、公私混同だ。昔のアンタはそんなんじゃなかったのになぁ」
「しっ、心外です! 誰だって自分の子供は…っ、可愛いんです! あなただって…、あなただって、契約終了後は決して依頼主の詮索をしないっていう重要規約を破って、あんなに何度も通ってたじゃないですか!」
「ええ、まーね。でも、アンタだって会いに行きましたよね? 忍路のとこ。しかもご丁寧に、オレに変化までして」
「――っッ…! そっ…それは…っ!」
「いやー、あん時はびっくりしましたよ〜。いつの間にか話が勝手に進んじゃってんだもん。まっ、上手く化けて話してくれたと見えて、アイツもすっかり信じ込んでたから、イイっちゃイイですけど〜?」
「――――…」
「でっ、その時アイツの事、ちょっとは認めてくれたから、最後の最後で息子を派遣してくれたとか?」
 畳みかけるように訊かれると、黒髪の男はすっかりムキになって言い返してくる。
「そっ…そんなんじゃ…っ!」
「意地っ張り。アンタ、そういうとこ昔っから全然変わんないよね。しかも息子もおんなじ」
 銀髪の男は、喉の奥でさも可笑しそうにくっくと笑う。
「違います!」
「なーにが違うもんですか。そっくりそのまま、おんなじですよ」
「違いますっ!」
「違いませ〜〜ん〜」
「…あの子は…勇名は……、――息子なんかじゃ、ありません」
「――ハァ?」
「あの子は…勇名は……娘です…」
「?!」
 上忍の眠そうだった両の目元が、驚きに大きく見開かれた。形の良い薄い唇に縁取られた口までが、だらしなくぽかんと開かれている。
「むっ、ムスメぇ?! ――なッ、もしかして…変化か?! ちょっ、アンタ、自分の娘にそんなもん教え込んで、男に仕立て上げてたのか?!」
「ッ、――いけま、せんか」
「いけっ……ぃゃっ、まぁ…、いけなか…ないですがねぇ〜?」
 男は、豊かな銀髪をがしがしと思い切り掻いた。

 まさか長年に渡り、火影を始めとした里中の者を術で欺き続けていたとは。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
 だが、当時の彼の立場になって考えてみれば、そうしたくなる気持ちも分からなくもない、とも思う。
 勇名が産まれたあの頃は政情が不安定で、今にも隣国と戦が勃発しそうな緊張状態にあった。忍との間に生まれた子供は即ち貴重な戦力で、忍として育てねばならない。だが往々にしてくノ一が辿ることになる、望まない性交渉を介した辛い任務の数々を、娘の親となった彼はどうしても避けたかったのだろう。
 ならば最初から男として育てようと思ったとしても、何ら不思議ではない。
 しかも教師であり、変化の術にことのほか優れた技量を持っていた男に育てられた幼い少女は、誰にもそうとは気付かれぬまま、卓越した術を身に付けていき――。

「…ったく…参りましたねぇアンタら親子には。まさかこのオレまでずっと騙し通してたとは」
 溜息しか出ませんよ、と男は苦笑った。
「――人のこと…、言えませんよ」
「? 何でよ?」
 すると漆黒の瞳を伏せ目がちにした男は、『あなたにあんな形で子供がいるって聞かされた時、私が何も感じなかったとでも?』と、小さく呟いた。
「――――」
 二人の間を、暫しの沈黙が流れていく。


「――じゃ、オレ達…」
 ややあって、銀髪の男がぼそりと口を開いた。
「え?」
「…それじゃあオレ達さ、もしかしたらそのうち、『おじいちゃん』とかいうものになっちゃうかもしんないワケ?」
 途端、黒髪の男がぷーっと吹き出した。
「あはははっ! いいじゃないですか! その時は喜んであげましょうよ!」
「はぁ〜〜? 何だかなぁ〜〜」
 銀髪男は片手で顔を覆い、やれやれといった調子で大袈裟に溜息をついている。
 けれど年を追う毎に深みを増してきている上忍の表情は、不満そうな言葉とは裏腹に、とても温かなものだった。


(もう、お忍びで会いに行く必要も無くなったーね)
 勇名という生涯のパートナーを見出した若き城主は、いつしか押しも押されもせぬ立派な男になっていた。

(こっちはこっちで、残りの生を全うしたいし〜?)

 最近、笑い皺が出来るようになってきた向かいの男の、相変わらず黒々とした瞳を見ながら、銀髪の男は彼が淹れた茶を美味そうに啜った。






                      「不忍の系譜」 了



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