イルカとあのような形で出会う一年ほど前。
 二十歳の年だった。
 はたけカカシは、かつてない奇妙な依頼を言い渡された。
「人里離れた古い家屋にて女を待ち、その者と一夜を過ごせ」という命。
 要するに、そこにいる女を抱いてこい、という事らしいのだが、どうにも釈然としない。
「成人の祝いなら間に合っている」と、余りの滑稽さに鼻で嗤ったが、決して戯れなどではないという。
 だとすれば、一見馬鹿馬鹿しい話の背後にも、窺い知れない深い闇が潜んでいるのであろう事は容易に察しが付く。
 とはいえ、当時の自分には、快楽の果てに人が生まれようが生まれまいが、そんなことは全くどうでもいいことだった。
 既に女を買うことなら知りすぎるほど知っていたし、そもそも命令は絶対だ。その後どうなろうと知った事ではない。
 それでも(今まで実に様々な任務を命じられてきたが、ついにこんな事まで命じられるようになったか)と、何やら末期的なものを感じはした。
 が、歪んだ常識と真っ直ぐな非常識の狭間に生きていた身では、そう感じるのがせいぜいだった。

 三日後。月の細い晩だった。
 甲高い呻りを上げる北風が、雨戸という雨戸を激しく叩き続ける中、一点の灯りも暖もない粗末な廃屋の一室で、三人の女と次々に交わった。
 みな同じ髪の色、同じ瞳の色で、似たような顔つきをしていた。最後まで口を噤み、一言も喋らなかったその女達がどういう素性の者かもわからなかったが、そんなものに興味はない。
 敷かれてあった布団に裸の女が無言のまま横たわると、やがて己の中に一匹の雄の獣が現れた。
 監視役なのだろう。背後から注がれる視線にも最初から気が付いていた。
 だが、途中で理性が戻ることはついになかった。
 いや、今から思えば、ただの雄の獣になりきることで、その後に起こり得るであろう事象から目を逸らそうとしていたのかもしれない。


 その夜、人格を消して一匹の獣になることを要求された男は、後に当然のようにその記憶全てを消す事も要求された。
 勿論そうした方が、依頼主や上層部はもとより、自分自身にとっても都合が良かったはずだ。だから遠くに里の街明かりが見えだした頃になって、白い獅子の面を被った男がいきなり目の前に飛び降りてきても、さして驚きもしなかった。
(やっぱり来たか)と、なんの感慨もなくそう思っただけだった。
 しかし、あろう事かその時仲間の暗部の者が施した封印術は徐々に解けていき、あの夜の記憶は一年ほどで全て戻ってきてしまった。
 当時もう既に自在に使いこなせるようになっていた写輪眼が邪魔をしたのだろうか? それとももっと他の理由か。確かめる術は、今となってはもうどこにもない。
 表沙汰に出来ない任務は暗部の中でも突出して多く、それまでも部分的に記憶を消されたことは幾度となくあった。だが術が解けて記憶が完全に戻ってきたのは、その時が初めてだった。
 当時の状況が克明に思い出せるようになってくると、オレは女達や監視役の顔を手がかりに、その後の動向を追いかけてみたくなった。
 別に分かったからと言って、何がどうなるわけでもない。ただ、自分の任務が最後まで完遂されたのかが気になった。それまで失敗したことなど一度もなかったからだ。
 当時のおかしな依頼内容にも、時が経ったせいか妙に興味が沸いていた。
 ただ、『記憶が戻ったことを周囲にひた隠してまで、執拗に極秘の内容を探り続けた、その動機は?』と問われたとしても、上手く答えらないのだが…。
 オレは、本当は、何が知りたかったのだろう?


 行方を突き止めた三人の女のうち、一人には何の変化も訪れてはいなかった。
 だが、他の二人の女は、当然のように子をなしていた。
 一人は元気な男の子だった。
 しかもその子は御代と名付けられ、火ノ国の最大派閥を誇る有力大名の嫡男として育てられていると知り、ようやく一連の出来事に合点がいっていた。
 いつまでも子を授かれず、勢力争いの果てに城主が側近らと出した結論が、『髪色や顔かたちが似た者に、密かに子を作らせる』というものであり、究極の秘匿性が問われるそのデリケートな依頼に、大金と引き替えに選ばれたのが、他でもない自分だったのだ。
 しかし、もう一人の女の行方を探り当ててみると、死産だったことがわかった。恐らくは世継ぎに不向きな女の子だったのだろう。間もなくして、その女自身も不慮の死を遂げていた。
 だが、その一連の事実を全て知ったところで、別段何の感慨も沸かなかった。強いて言うなら(一連の計画は、滞りなく遂行されたのだな)と、思ったに過ぎない。
 自分は道具だったし、相手の女子供もまた、道具だった。
 オレは、上層部や依頼人の大名らが望んでいた通り、それら一切の記憶を、深く暗い湖の淵に向かってもう一度自ら放り投げた。



     * * *



 医療班が到着するまでの間、イルカの腕の中で、オレはそんな無駄話をした。
 忍路には「すぐに深く眠り込んで、次に起きたのは病室だった」などと話して聞かせたが、勿論作り話だ。話せばすぐにその男の子が自分であることに気付くため、あえてしなかった。

 出血は止まりきらず、無駄に薬慣れした体では手持ちの鎮痛剤もろくに効かない。
 体は、瘧(おこり)にかかったように酷く震えた。ぴしりと冷え切った大気も容赦なく体から熱を奪っていく。四肢はもう死人のそれのように冷たく、とうに感覚はない。
 ぎゅっと眉を寄せた酷く心配そうな面持ちのイルカが、しきりに覗き込んでくる。背後の闇より黒い瞳が、額当ての下で不安げに揺れている。
 今眠ったら、もう二度と目覚めない気がした。
 でも、それも悪くない。
 だから、痛みと吐き気で朦朧とする頭で、そんな事を思いつくままに片端から喋った。
 話している間、何度もイルカに「もういいです。お願いですから喋らないで下さい」と静止された気がする。
 しかし一度も止める事なく、何かに突き動かされるようにひたすら話し続けた。イルカは気でもふれたと思っただろう。
 何故その話だったのかも分からない。他にも任務は星の数ほどあったのだし、自分でもすっかり忘れていたはずなのに。
 恐らくイルカと出会わなければ、一生口に上る事もなかったそれ。
 命を育みながら、一方では次々と握り潰していた。
 そんな己という存在が露と消え去る前に、誰かに赦して欲しかったのかもしれない。
 そうしてあの男なら、赦してくれると。
 そう、思ったのかもしれない。



     * * *



(――赦して、くれる…か)
 遙かに遠く、そして近くに渺々という風鳴りを聞きながら、今夜も銀髪の男は深い森の中を駆け続ける。
 体が目指す場所……未来へと向かう時。心は逆に、遠く過ぎ去ったはずの過去へと容易に還って行く。
 あの頃の自分は、自身の中にある深く暗い湖面の淵など覗こうともしなかった。
 する気がなかった。いや、未熟すぎて出来なかったと言うべきか。
 それが今では、こうして気負うことなくいつでも出来るようになっている。
(そうだな)
 時が過ぎるというのも、まんざら悪いことばかりでもない。






「――勇名」
「はい」
 雇い主の呼びかけに、高く括った黒髪が揺れながら応える。
 今宵も二人、向かい合って座していた。
「お前は『忍』という文字の、由来を知っているか?」
「忍の…? ――いいえ」
 いきなりの問いかけに、木ノ葉の忍は素直に首を振る。毎夜長い時間をかけて、木ノ葉の忍と交流した話に耳を傾続け、今し方ついに全てを聞き終えたところだったが、大いに心を動かされたその物語の余韻に浸る間もない質問に、心の中ではてと首を傾げる。
「今でこそ『堪え忍ぶ』意味だがな。古来『忍』の文字には、『酷(むご)いことを平気でする』という意味があったのだ」
「!」
「おい勇名、そんな辛そうな顔をするな。話はまだ終わってないぞ」
 俯いて唇を噛む青年に、城主が声をかける。
「―――…」
「その、酷い心という意味の忍だがな。お前やあの男達の話を聞けば聞くほど、どうしても否定の文字を頭に付けたくなるのだ。――分かるか、『不忍』だ」
「しのばず…」
「酷いことなど出来ない、つまり相手を思いやるという意味だ。他の誰でもない、お前達忍にこそその心があると、オレは常々思っている」
「忍路様…」
 正座をしていた両膝の上で、勇名の拳がきつく握りしめられていく。



(やっと…、やっと見つけた…!)
 あの銀髪の男が話していた、『黒目黒髪の忍』の子供。
 忍路ははやる心を抑えながら、向かいで深く俯いている勇名を見つめる。びっしりと長く生え揃った睫毛が、ふるふると小刻みに震えている。
 男から聞いた感じでは、年はそう離れていないはずだった。忍になっている可能性も高い。話を聞いてからというもの、何としても会ってみたくなっていた。
 心から慕っていたあの銀髪の男が惚れていたという、黒髪の忍が育てた子供に。
 そして、その者と何でもいいから話がしたい。心を通わせてみたい。
 もちろん側には常に絶対の信頼を置いている紫奴がいる。だが彼だけでは駄目なのだ。紫奴もとても大切に思っているのは確かだが、彼だけではどうしても自分の中の何かを埋めきれない。
「――いや、埋めきれていないと気付かせてくれたのは、他でもない、お前だ」
「…えッ…?」
 もうその頃になると、注がれる強い眼差しと語りかけられる言葉の端々から、いかな純朴な青年も忍路の言わんとする事を薄々察してにわかに焦り出す。
「お前が好きだ、勇名」
「!」









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