現場に残ったカカシの影分身があそこまで深く刺されても消えることなく、如何にもな血を流しているのは、全て彼の卓越した瞳術によるものだ。その出来映えは見事の一言だった。
 自分は大きな術を複数併用する事は出来ない。だが千の術を持つという上忍にかかれば、それらをああもあっさり、しかも完璧にやってのけられる事に感動すら覚えた。改めてこの計画は彼なしでは成り立たたず、火影が危険を冒してでも彼を起用したがっていたことに深く納得していた。
 後は、予め決めておいた待ち合わせ場所…柘植の城下から少し離れた森の中へ行き、事後策を確認し合うだけだった。

(あぁでも恐らくは…暗部の任務でも、ああいった幾多の隠蔽工作を…)
 今回は人を殺めずに済んだが、イルカは改めてこれまで彼が辿ってきた道の壮絶さを思い、密かに胸を痛めた。
(法も情けも与えられない中、ひたすら黒を白に変え、白を黒に塗り潰し続ける日々なのだとしたら…?)
 もしも、もしも自分が彼と同じ立場だったとしても、やはり時間が経つにつれ、次第に誰かと協力してやろうとは思わなくなってくるだろう。やれるものならば独りでやったほうが、どれほど気持ちが楽かしれないからだ。それでもやれと言われれば、場合によってはやりたくないとごねたり、放棄したいと考えることも当然のことと思える。
(余りに…、余りに辛すぎる…)
 今ならわかる。「自分を殺しながら生き続ける」ということが、どういうことなのか。



     * * *



(――もうそろそろ、だな…)
 打ち合わせた場所で上忍を待ちながら、イルカはつらつらと考えを巡らし続ける。任務は完遂したが、正直いつもほどはすっきりとしていなかった。
 先日の夜の一件。あのことが気持ちの隅に引っかかっていた。
(でもお互い、あの夜のことは忘れるべきなんだろうな)
 少なくとも、自分は忘れるつもりでいる。出来ることなら思い出したくないし、覚えていたところで何の益にもならない。
 作戦は当初の打ち合わせ通り滞りなく終わったが、あの行為の後は無言のまま別れてしまっている。お陰で彼の心が未だに読み切れないでいるだけに、顔を合わせるのが少し億劫だった。
 しかし彼の全面協力のお陰で、こんなにも鮮やかに共同任務が決したのだ。任務とはいえ、最低限の礼は言うべきだ。
 イルカは待ち合わせ場所に着くと、「いいか? 落ち着けよ、俺」と自身に何度も言い聞かせながら彼の到着を待った。


 一刻後。
 予定より半刻後以上も遅れてきたカカシの腹部が、どす黒いものでべっとりと汚れている様を見て、イルカは我が目を疑った。
「っ、カカシさん?!」
 一瞬、どこかで襲撃にでも遭ったのかと思ったが違った。その傷は、さっき自分が打ち合わせ通り刺し貫いた場所だ。
(そんな、ちゃんと、打ち合わせ通りに…)
「ってあなたっ、あなたまさかっ!?」
 巨木にもたれるや、そのままずるずると力なく倒れていく上忍に息を呑む。
 抱き留めると、鋭さも輝きも失った、虚ろな右目がイルカを見上げた。
「っ…これで…、お前も気が…済んだ、ろ。――恨みっこ、なしだ…」
「なっ…?」
 一瞬、何を言っているのか意味が分からなかった。が、一拍後すぐに合点がいった。
 上忍は、俺に付けたであろう心身の傷を、自らを直接傷付けさせることで精算しようとしていた。
 行為の最中、悪びれた様子も見せずに熱っぽく抱き続け、奥深くに滾るものを吐き出すや、振り向きもせずに立ち去っていったというのに。
 しかもその味方を自身の手で刺し殺してしまった事により、よりこちらの心に己の存在が深く刻みつけられるという、文字通り命を賭けた道を選んでいた。
 自身のことを二度と忘れられなくするために、以前は『忍らしからぬ』などと鼻で嗤った事もあった中忍の情の部分を、逆手に取った格好だった。
(なんて馬鹿なことを…! そんなこと…しなくたって…)
 殆ど意識を失いかけている体に懸命に応急処置を施しながら、胸が潰れそうになった。
 彼は打ち合わせの際、「出来るだけ真実味を出すため、幻術を解いて現場を離れる際には、動物の血を撒いておく」などと、もっともらしいことを言っていたのに。
 あれらは全て、彼本人のものだったのだ。真に迫っていて当然だった。
 最後の最後までこの男の考えが読みきれなかった事を、心底悔やんだ。
「畜生、冗談じゃない! そんな事で償っただなんて思うな!」
「!」
 途端、カカシの色の違う双眸が、ハッとしたように見開かれた。
(そうだイルカ。それでいい)
 上忍の驚きの表情を、敢えて怒りの面で見守りながら思う。
(カカシさん、あなたいつだったか、『俺達は相容れない』って、言ったじゃないですか)
 なのに、何て顔してるんですか?
「勝手に精算した気になってんじゃねぇ! それじゃあ逃げてるだけだろうが! 起きろ、目ぇ開けろ!」

 だが再び苦悶の表情を浮かべた上忍が激しく咳き込みだすと、心にもない演技などすぐに消し飛んだ。
(ああくそっ、神様…!)
 俺達は、出会うべきじゃ、なかったのか?

 やがて強い薬が効き始めたカカシが深い眠りに落ちていくと、医療班を呼ぶための忍鳥を呼び寄せ、明け始めた東の空に向かって放った。




「――その後、お前達はどうなったのだ?」
 忍路が、気持ち血の気の引いた白い顔で訊ねる。
「次に気が付いたら、もう病院の一室でしたよ。しかも長いことかかってようやく退院したと思ったら、彼は配置換えの希望が受理されてて教職に就いてるし、私も上からの命で長期遠方任務。実に呆気ないもんです」
「お前は本当に、それで良かったのか?」
「いいも悪いも…あの人はそれからすぐに里のくノ一と結婚して、一人息子まで出来てしまいましたからね」
「…そう、か。――それは……その者と縁がなかった、ということで、いいんだな?」
「でしょうねぇ」
 男は相変わらず飄々と話し続けているが、時折口布の下の頬の辺りが、笑っているかのように動く。
「しかしお前、幾ら何でも少し性急だったのではないか?」
「如何にも。ですから若様は、今後そのような感情的な行動は一切慎まれて下さい」
「分かった、肝に銘じておく。最後までよく話してくれたな。礼を言うぞ」
「お恥ずかしい昔話で恐縮です」

 しかし、忍路が「ところでだ。実は前々から気になっていたことがあるのだが…」と切り出すと、男が纏っていた空気がぴりっと緊張感で引き締まった。
「若様、今夜は随分と話が過ぎました。お休み下さい」
 突き放すように言ったかと思うと、すっくと立ち上がり、部屋の奥にできた暗がりに向かって歩き出す。
「まて!」
 忍路は男の後ろ姿めがけ、寝間着の裾をはだけさせながら畳を蹴った。が、すらりとした長身は、もうはや暗がりに溶けようとしている。
「待ってくれ!」
 もう一度叫ぶ。
 男が「またそんな大声を出して」と言いたげな厳しい目で、頭だけ振り返った。けれどその姿はもう半分以上が闇に解けだして、明るい色の部分だけが残っている。
(お前のその髪、目元、瞳の色…!)
 自分と酷似してはいないか?
 もしや、その口布の下も…?
 そして今まさにそう問いかけようとした途端、答えたくないと言わんばかりにいきなり踵を返したのが、何よりの証拠ではないのか?
(もしや…、もしやお前…?!)
 だが、確かに男の手を掴んだと思った右手は、またいつぞやの時と同じように空を切っていた。
 以前と異なっていたのは、その後一瞬だけ見つめ合った、彼との目の高さだけだった。
(お前は…!)
 ほぼ同じ高さの目線で向き合った刹那、男は呆気なく闇に紛れて消えていった。



「――忍路様、どうかなさいましたか?」
 襖の向こうから家臣に問われ、暫し棒立ちになっていた忍路はハッと我に返った。
「――いや、何でもない。下がれ」
 言って、片手で顔を覆った。自然と長いため息が唇を衝いて出る。
(もしかして自分は、またもや感情的になって、問うてはならぬ事を問うてしまったのか?)
 後悔の念が強い。
(もしや…、もしやもう二度と、あの男は現れないのでは…?)
 忍路は、乾いた真っ白な夜具に力なく身を落とした。




 銀髪の男は忍路の前から姿を消すと、いつも去り際にするように、その姿を闇に紛れさせたまま、そっと彼の様子を見守った。
 青年は真っ白な夜具にその身を横たえると、冷たい枕の下にそっと手を差し入れ、盛んに何かの感触を確かめるような仕草をしている。
(ったく…いつまでたっても子供なんだから…)
 男は口布の下で小さく苦笑した。
 何のために、こんな話をしたと思ってる?
(早く大人になれ)

 そして、強く生きろ。



(――そう、お前の予想通り…)
 銀色の忍が、城内の厳しい警護の目をやすやすとかいくぐりながら駆けていく。
 彼が重ねてきた歳月の分だけ、完成の度合いを高めてきた潜身術は、その姿を暗闇だけでなく、城を渡る風や、中庭にさす月の光や、虫の声とも重なり合わせ、紛れさせる。
(忍路、お前はここの城主の本当の息子ではない)

(お前は…)









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