かさり、と微かに木の葉が擦れる。
 夕刻より強くなってきていた西風が揺らしたのではない、ごく微かだけれど不自然な響き。
 それが合図だった。
 刹那、ぎりぎりまで研ぎ澄ましたイルカの五感が一斉に反応し、無言のまま鋭く放った大型のクナイが、闇夜に音もなく吸い込まれていく。
 ほぼ同時に、暗の向こうで短い悲鳴。
 続いて細く長い呻きが聞こえ。
 どさり、という、重いものが枯れ葉の積もる地面に落ちた音。

 その直後から。
 深い闇と、大地より薫る大気と、ざわざわという葉擦れの音が、異質だったその空間を元の通りに埋めていく。
 あたかも今、この場所では何事も起こらなかったかのように。



    
手についた血




 うみのイルカがふっと目を開けたのは、まだ夜も明けぬうちだった。
(……?)
 いつにない早い時間の覚醒に、暗がりの中で二度三度と瞬きをする。
 昨夜は久し振りに危険度の高い任務だった。が、取り立てて何らかの気負いがあった訳ではない。他国から流れてきていた手配の者を一人で追い詰め、散開していた同胞達が戻ってくる頃には既に死体の後始末も終えていた。
 ただその後、帰宅していつものようにシャワーを浴びてから床に就いたものの、どういう訳か暫くの間上手く寝付けないでいたのを覚えている。
 それから何度と無く寝返りを打ち続け、いつ頃寝付いたのか分からないが、眠り自体も極端に浅くなってしまったらしい。
(久しぶりの殺しの任務で、少し高ぶってる…か?)
 でも中忍に昇格してから、もうかなりの年月が経っている。この手の任務が初めてという訳でも勿論ない。自分では任務の内容をことさら意識していたつもりも無かったのだが。
(そう言えば…)
 そんな自分に、全く心当たりが無いこともなかった。実はこの春から、受付任務の他に、週に何度かアカデミーの子供達に授業らしきものを行うようになっていた。まだ就任したばかりで試行錯誤を繰り返していて、とてもちゃんとした授業とは言えないが、この新たな任務には今までにない大きなやり甲斐を感じている。…とはいうものの、国と里の将来を担う者達を育成していく役目なのだ。責任の重さと難しさを痛感することも日増しに多くなっていた。
 ひょっとしたら自分でも気付かないうちに、そちらの方でストレスを感じてしまっているとか?
(参ったな…)
 明日の受付任務は早番だというのに、この後すぐに寝付けるだろうか。
 ふうと小さく溜息をつき、暗い寝室で仰向けになったまま無意識に頭に手をやろうとした、その時。
(?)
 己の手の平に一瞬何かが見えた気がして、一度視界から行き過ぎた右手を目の前に戻す。
 瞬間、目を見張った。
 夜目にもはっきりと分かる、右手の平の大半を覆い尽くすほどにまで赤黒く、べったりと付着したそれ。最近は内勤中心だったため目にすることも少なくなっていたが、この独特の色合いは間違いようがない。
(血…)
 イルカは己の手を見つめたままの格好で、床からがばりと跳ね起きた。


 昨夜はそろそろ手配書にも載ろうかという札付きのお尋ね者を、急所へと放ったクナイの一投で倒していた。
 その後頭を落とし、男が首にかけていた個体識別用の認識票を持ち帰って、任務終了だった。
 もちろん途中で川に降り、せせらぎで手に付いた血はきれいに洗い流していた。
 首を落とす際も、細心の注意を払って静脈から逆手でクナイを入れたため、返り血も全く浴びていないはずだった。
(いつの間にか、怪我を負わされていたのか?)
 手を返しながらしげしげと眺めるが、どこにも傷らしきものは見当たらない。布団に座ったまま体を軽く動かしてみるも、どこも痛くない。
 そもそも戦い自体も早々の先手が功を奏して、反撃らしい反撃もないままものの数分で決着が着いたために、怪我をしているはずもなかった。
(じゃあ、どこの血なんだ…)
 イルカはすっかり乾いているその血痕に触れようと、左手を布団から出した。
(――ぇっ)
 その左手の平にも、いつの間にか同じように赤黒い染みがべっとりと広がっていた。

「……っ」
 イルカは掛け布団をはねのけ、上着も羽織らずに洗面所へと大股で急いだ。温まっていた足の裏の熱を、冷えた木張りの廊下が瞬く間に奪っていく。
 洗面所の灯りを点けるや否や、勢い込んで真っ先に鏡を見た。
 だが、そこには髪を下ろした何の変哲もない己の白い顔が、ただ虚ろに映っているだけだった。念のために髪の中にも手を入れてみるが、出血はおろか痛みも全くない。
(無傷、か…)
 何とも言えない奇妙な感覚に襲われる。
 恐らくは念入りに洗ったはずの忍具のどこかにまだ血液が残っていて、うっかりそれにでも触ってしまったのだろう。だがそれにしても随分と初歩的なミスをしたものだ。
(情けないな…)
 受付と兼務のアカデミー教師に配属になり、ランク付きの任務から遠ざかっていたのは確かだが、それでもまだ幾らも経っていない。
(なのに現場での緊張感や勘が、こんなにも呆気なく弛んでしまってるなんて…)
 中忍として恥ずかしいのは勿論のこと、教師としても頂けない。もっと気を引き締めて臨まなくては。
 とりあえず洗おうと、勢いよく水を出し、両手を擦り合わせ始めた。
(――あれ…?)
 しかし妙な事に、何度強く擦ってもそれは薄くなっていく気配がない。
(血では、ないのか…?)
 脇の石鹸を取り、もう一度時間をかけて丹念に洗う。
 だが、白い泡を流した後に現れたのは、赤黒い染みをまとった己の両手の平だった。
 しかも染みは薄くなるどころか、冷えて白くなった手肌との対比で、ますます濃くなったように見えた。
 脇のタオルを掴んでゴシゴシと強く手を拭き、そっと鼻を近づける。と、独特の鉄臭さを伴った『あの匂い』が鼻を衝いた。
(なっ…)
 イルカの胸に、突如言い知れぬ不安が湧き上がりはじめた。
 反射的に蛇口を思い切り捻る。水の勢いが強すぎて周囲に飛沫が飛び散るが構ってられない。
 イルカは冷水ですっかり手が痺れ、その刺すような鋭い痛みでようやく我に返るまで、夢中で両の手を擦り合わせた。




 数時間のち。
 イルカはいつもの受付の席に、半ばぼんやりと座っていた。
 一日はまだ動き始めたばかりで人の姿はまばらだが、未明に起こった不可解な出来事のせいで、頭の中は一杯になっていた。
 机の下にひた隠した両手の平を、もう一度穴の空くほどまじまじと見下ろす。
 その行為は、今日何十回目になるだろうか。
 しかし何度確認しようとも、己の手には温かい生き物の静脈から流れ出たとおぼしき赤黒い血痕が、ぎらりと乾いた状態で色濃く染みついている。
(…………)
 それを見る度、己の胸を暗く冷たく重い何かがじわじわと塞いでいくような気がした。
 イルカは大きく息を吸ってそっと目を閉じた。さっきから手の染みを見たくもないのに見てしまっている。なのに次の瞬間にはすぐに見ていられなくなって目を逸らす、という行動を繰り返していた。
 視界を閉ざすと、自然と眉間に皺が寄っていく。
 あの後、冷え切ってキリキリと痛む手を抱えて洗面所から寝室へと戻ったイルカは、昨夜着ていた支給服や使っていた忍具、それに寝ていた寝具や室内までも片端からくまなく調べ回った。
 どこかにほんの僅かでも血痕があれば、そこから納得のいく結論を導き出せるはずなのだ。
 いや、無理にでも引き出すつもりだった。
 しかし、どんなにそれらをまさぐろうとも、赤黒い染みは自分の手の平にしか見当たらなかった。
(布団や服には一切付かず、手の平だけにこれほどべったりと付着して、しかも全く落ちない……血…?)
 果たしてそんなことがあり得るだろうか?
(待てよ…? ひょっとしてこれは昨夜の敵の陽動の一種で、幻術の名残か何かではないだろうか?)
(いや、きっとそうに違いない! そうでなければこの状況は説明がつか…)
「居眠り中悪いんだけど」
 いきなり背後で男の声がした。
 閉じていた瞼と落ち着きかけていた心臓が、同時にびくんと跳ね上がる。
 イルカは咄嗟に机の下の両手をきつく握り締め、それを腹に押し当てて隠した。その格好のままばっと振り返ると、一体いつから立っていたというのだろう、すぐ背後から見下ろしている灰青色の右目とぱちりと合う。
(…かっ…カカシ上忍…! まさか、見られた…?)
 銀髪男の有無を言わさぬ言い草に思わずたじろぎながら、何とか声を押し出す。
「――すっ、すみません。任務、お疲れさまでした」
 続いて鼻先に無遠慮に差し出されている報告書を、いつものように受け取ろうと出かかった右手が、不自然にぴくりと止まった。
「―――…」
 結局イルカは暫し逡巡した挙げ句、まだ幾らかでも血痕の範囲が狭い左手をおずおずと出し直し、手の甲を上にしたまま、報告書の端をつまむようにして受け取った。
 カカシは無言のまま、その様子を見下ろしている。
 上忍とは以前から面識はあるものの、会話らしい会話を交わしたことは一度もなかった。擦れ違ったときにこちらからしている目礼がせいぜいだ。
 元々上忍と中忍との間には、目には見えない大きな階級差が横たわっている。同胞だからと馴れ馴れしく話の出来るような存在では無い。
 その上、この男は居並ぶ強面の上忍達の中でもことのほか冷たく鋭い気を常に纏っていて、同階級の者からでさえいつも数歩引かれているように見えた。仲間内のいざこざが絶えないという噂を耳にしたこともある。例えそうでなくとも、額当てを斜めに引き下ろし、顔の半分以上を黒い口布で覆った面貌は、無言のまま周囲をみしりと圧していて、他人を遠ざけ接触を拒んでいるとしか思えない。
 そんな上忍に対し、幾ら顔を見知っているからと言って、こちらから気安く話しかけることなど出来るはずもなかった。
 今のイルカにとって、カカシは一刻も早くこの場から立ち去って欲しい存在でしかない。
 しかし、受付に正面からではなく、わざわざ背後から一切の気配を断って近付いてきた男は、用が済んだにもかかわらず、その場に黙って立っている。
 それでもいつもなら気にせず、すぐにペンを取って記入を始めている所だが、手の平を人前に晒せない以上、イルカは黙して俯く事しかできないでいた。
(早く、早く立ち去ってくれ…!)
 心の中で必死に祈りながら。

 しかし、斜め後ろで再び男の口が開かれた。
「オレの報告書、そんなに触るのが嫌か」
 その響きには、背筋のぞっとするような冷たいものが混じっていて、彼の不快感があからさまに出ている気がした。
「ちっ、違います、違いますっ! 誤解です!」
 イルカは何とかその場を取りなそうと、両手を握りしめたまま振り返り、椅子を鳴らしながら腰を浮かせた。
 周囲に居た者達が、急な大声に何事かと一斉に振り返る。
「――…違うん…です…」
 急に自分に集中しだした視線に刺され、イルカは消え入るような小声になって、力無く椅子に腰を落とした。
 だが「なぜ違うのか」という理由は、今はとても言えそうになかった。
 微動だにせず尚も見下ろしてくる上忍とは、どうしても視線を合わせられないまま、気まずい空気だけが流れていく。
 その重い沈黙に居たたまれなくなって、思わずイルカがその場から逃れようとした、その時。
 男はすっと踵を返し、ポケットに両手を突っ込んだまま、部屋を出ていった。
「…………」
 イルカはその後ろ姿を、酷い後悔で胸が締め付けられながら、ただ見送るしかなかった。












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