「見たぜぇ」
 薄暗い待機室に戻るや、ソファにどさりと体を投げたカカシに、髭面の男が近寄ってくる。
「おめぇよ、あんな奴にちょっかい出して、何やってたわけ? あ、何もって答えはナシな」
 カカシとの間に気持ち広めの微妙な距離をとって座り、灰皿を引き寄せながら問う。
「――何も」
 ポケットに手を突っ込み、斜めに崩れた姿勢のまま、銀髪男がぼそりと呟く。
「おめぇ、本当に可愛くねぇな」
「消えろ」
 短く返した声音には、見えない棘が鋭く浮き上がっている。
「ふっ…まぁいい。好きにしな」
 カカシの言葉に動じた様子もなく、アスマは堂々とした躯をゆったりとソファに預けると、それきり何も聞いてこようとはしなくなった。
 慣れた手付きで煙草に火を付け、旨そうに燻らせている。カカシの姿など視界に映って無いかのようで、見向きもしない。
 一本を時間をかけてゆっくりと灰にすると、アスマはそのまま静かに腰を浮かせた。

「締め上げる」
 広い背中を引き留めるように男の低い声がして、振り返らないままアスマが答える。
「誰を」
「アイツを」
「アイツって…、あの受付か」
「あぁ」
「俺には普通に見えるが?」
 アスマはようやく少しだけ,カカシの方に体を向け直した。
 だが銀髪男の右目はこちらではなく、あらぬ空間の一点を見つめている。
「…オレの、報告書」
「が、どうした」
「汚くて、触れないってさ」
「? …そう、言ったのか?」
「言ったも、同然」
「ふん、だとしたら、そりゃまた随分と度胸のある中忍だな」
「急に態度変えやがって…やっぱりあの場で絞めておけばよかった」
 先程の出来事でも思い出しているのか、虚ろだった灰青色の瞳がカッと見開かれ、剥き出しの殺気が細身の体からゆらりと立ち上る。
「止めとけ。また謹慎食らいたいか?」
 ここまで戦闘能力に長けていなければ、とうの昔に闇に葬り去られていたであろう暗部上がりの要注意人物を、アスマは軽くたしなめた。
 幼い頃から忍としての素養には図抜けていたものの、時に掟を逸脱して全く手に負えなくなる男を、当時の上層部は暗部に入れることで矯正し、何とかして手懐けようとしたらしい。が、結果的には上手く行かず、入隊前によく組んでいた古巣の自分の元へと舞い戻ってきていた。いや、押し付けられたというべきか。
 始末の悪いことに、以前より格段に口数が少なくなり、内側の何かが酷くねじくれた最悪の状態になって。
 そのカカシが三月ほど前、同胞を殴り殺しかけた際の謹慎期間は今までになく長く、それには流石の男も内心多少なりとも応えてたらしい。
 彼に最も効果的な仕置きとは、何より任務を与えず戦場に出さない事なのだということを、里長はよく心得ていた。
 決して居心地は良くないのだろうが、里(ここ)で大人しくさえしていれば、すぐにまためくるめく戦闘の場を用意してもらえる。
 はたけカカシはそうやって里に、そしてこの世に、辛うじて繋ぎ止められていた。


(『急に態度が変わった』…か)
 「謹慎」の二文字を聞くや、もう何を聞いても反応しなくなってしまったカカシを残し、アスマは待機室を出た。
(それは何かい、裏を返しゃ、今まであの中忍の行動をずっと気にかけてたってことかい?)
 俯いて微苦笑する。
 と同時に、奴ともあろうものが珍しい事もあるもんだなと、時折自分にすら何の躊躇もなく牙を剥いてくる男の心境の変化に、少なからず驚いてもいた。
 だが多少変化したところで、何がどう良くなるわけでもない、という事も長いつきあいから分かっている。自分に出来ることなど何もない。
 せいぜい苛立ちが頂点に達した男に、あの実直そうな大人しい中忍が、今後半殺しの目に遭わされない事を祈るくらいだった。




(もういい加減にしろ! 何度見たって一緒だ…!)
 いつしか己の意志とは無関係に、手の平を見てしまうようになっている自身に、内心で苛立ちながら、なるべく人目につかないよう早足で歩く。
 何度「隠すな、鼻梁を跨ぐ傷と同じだ」と思おうとしたか知れない。
 けれど思い込ませようとしている端から、受け入れを拒否している、そんな感じだ。
 たったこれしきのことで、己を制御できなくなるなんて。

「あー、イルカ先生だ!」
「ホントだ! あのね、イルカせんせぇ〜」
(ぁ…)
 目ざとく自分を見つけた子供達が、まっすぐこちらに向かって走ってくるのを見て、イルカは凍り付いたようにその場で立ち止まった。知らず足が一歩、二歩と後ろに下がってしまう。
 今は誰とも会いたくなかった。特に彼らとは。
 教えることにまだ慣れておらず、教師らしいこともろくに出来ていない自分に懐いてくれている子供達には申し訳ないが、今は会いたくない。でもだからといって、可愛がっている子らの前で無下に背を向けるような、冷たい態度を取ることも出来なかった。
「…………」
 立ち尽くしたまま、いつもなら両手を広げて抱きとめてやったり頭を撫でたりする両の手が、自然と握り締められて後ろへと回っていく。
「…どうしたの? イルカ先生?」
 子供達は、早くもイルカの様子がいつもと違うことに気付いて不思議がっている。一点の曇りもない幾つものつぶらな瞳に見上げられて、イルカはうっと返事に詰まった。
「い…いや何でもない、何でもないんだ」
 無理に笑顔を作りながら、自分という人間は何て矛盾しているんだろうと、今更ながら暗い気持ちになる。
 こうして子供達に忍としての基礎を教えていながら、いざ自分の手がいよいよ忍らしくなった途端、急に隠したくなるなんて。
(自覚が足りない…か)
 真っ暗な階段をまた一歩降りたような気分に、知らず溜息が出る。
 今までは手を洗えば、血は当たり前のように落ちていた。でもきれいな手でいる間、自分は忍であることを忘れていたとでもいうのだろうか?
(いや……忘れたがっていた、のか?)
 己が人を傷付け、時に殺めることを生業にしている人間であることを。
(馬鹿な……忍なのに…)
 けれど、どんなに自分が大きく捻れて矛盾した人間なのだとしても、今この子らに己の手は見せられそうになかった。
 例え近い将来、彼らがその小さき手を血に染める、一人前の忍に成長していくのだとしても。
 
「悪いがその…ちょっと、急いでるから…」
 言うや返事も聞かぬまま、イルカは子供達から逃げるように背を向けた。
「え? …あぁうん、そいじゃまたな、せんせえ!」
「じゃあ明日ね! 明日遊んでね!」
 聞き分けのいい素直な答えが飛んできて、背中から胸へと突き刺さる。
(――ごめん…ごめんな…)
 俯いたまま踏み出した足が、次第に駆け足になっていく。
(…先生だなんて…言えないよな…)
 固く握り締めた左の拳を、ぎゅっと胸に当てる。
 子供達に、手を見られたくないのは確かだ。
 だが何より、今の自分は彼らと一緒に居てはいけない。
 そんな気がした。




 夜更け前。
 針のむしろに座らされたような、辛い受付の対人任務からようやく開放されたイルカは、普段はしたことのない皮の手袋をはめるや屋外へと飛び出した。
 頭の中では、自分の手に付いた染みと、それが元で酷く怒らせてしまったであろう上忍の事がずっと渦巻き続けている。
 他のことをやろうとしても到底集中できない、酷い一日だった。
(気が動転していたとは言え、俺は一体何という事をしでかしてしまったんだろう)
 小走りに駆けながら、イルカは今更ながら今朝方の非礼を深く反省していた。
(明日、あの人に会えたなたら…いや、何としても探して、お詫びしなければ。…しかし、この状況をどう説明すれば…)
 手袋の下の有様を思うたび、上手く言葉が繋げられるか不安だった。


 そんな堂々巡りに囚われながらも、足だけは迷うことなく己を自宅へと運んでいく。
 長年風雪に耐えてきた、ごく簡素な造りの長屋門の前に立って、その脇に切られた小さな通用口の板戸をコトリと横に引く。いつものように背を屈め、潜った。
 途端。
 イルカの全身に、猛烈な殺気が無数の針のように降りかかった。
「ひ…っ!」
 続いて総毛立つより早く、脇から何者かの手が伸び、屈んだ姿勢から襟首を鷲掴まれたのと、背後ですぱんと引き戸が閉まる音がしたのはほぼ同時だった。
 それらはまさに刹那の出来事で、気付いた時にはそのまま長屋門の板戸に高々と押し付けられていた。
 考え事ですっかり油断しきっていたイルカは、喉元と右腕をきつく絞め上げられ、更に自身の重みで急速に絞まっていく喉に宙に浮いた足を動かすことすらも叶わず、戸板に一方的に張り付けられた格好だ。
「…が…っ――…は…っ…」
 ひたすら空気を求めて、溺れる者の如く口を動かすものの、そこからはもう何も流れ込んでこない。
 空いている左手で、喉元を押さえつけてくる何者かの腕を掴むも、苦しさのあまりまるで力が入らなかった。
 気力だけで開いた霞む目を下方に泳がせると、すぐ間近に見える男の左目だけが暗闇に燃えるようにぽうと赤く、こちらを刺し貫かんばかりに睨み上げている。
「!!」
 その瞳と一瞬視線が合っただけで、イルカの背筋を得体の知れぬ戦慄が走った。
(こ…ろ、される…!)
 思った瞬間、口布の下の片側だけが、きゅ、と吊り上がった。
 いや、吊り上がったように見えた。
 その頃になって、視界に見覚えのある豊かな銀髪が映っていることにも気付く。それを見た己の心臓が、更に跳ね上がった。
(…カ…カシ…さ…?)
 だが、急速に遠のき始めた意識の中では、何故とかどうしてなどという言葉など、もはや浮かんでは来なかった。










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