イルカにとっては文字通り気の遠くなるような、永遠とも思える長い長い時間。
 しかし実際には板戸に磔になってから、ものの数十秒後。
 イルカの四肢がだらりと力なく垂れ下がり、銀色だった視界が急速に暗くなりはじめた時。
 喉と腕の拘束が、何の前触れもなく出し抜けに解かれた。
 一塊の物となりかかっていたイルカの重い体が、どさりと地面に崩れ落ちる。
 一拍後、地に打ち付けられた衝撃で気絶を許されなかった喉が、ひゅーひゅーと鳴りだした。何度も何度も大きく喘ぎながら空気を吸い、同時に体を折り曲げて激しく咳き込む。起き上がろうにも手足が大きく震えて、まるで力が入らない。
 男の身震いするような殺気は半減したものの、依然としてその存在を知らしめようとするかのように、背後で発散され続けている。
「――殺さ…ないん、ですか…」
 イルカは倒れたまま、切れ切れに言葉を絞った。
「死にたいなら、そう言え」
 自分に死にも勝る苦しみを与えた男は、更に容赦ない言葉を投げつけてくる。
 ああやっぱり、とイルカは思った。
 今朝方自分に浴びせられた、あの時の声と同じだ。怒りを内包した、冷え冷えとした響き。
 間違いない。背後に立つ男は額当てを外したカカシだ。
 イルカは自身の呼吸が整ってくるにつれ、目の前に力無くだらりと置かれた皮の手袋をはめた己の手が、ことのほか情けなく、疎ましく、忌々しいものに思えてきていた。
 今日一日、何も手に付かず、何も考えられなくなって、たった一人でひたすら悩み、惑い、おののき、切なくて苦しみ続けた事をまざまざと思い出す。
 終いにはこの手のせいで酷い肉体的苦痛を味わい、命まで落とすところだった。
 地面に落ちた時に石畳に打ち付けた側頭部と、体の奥深いところが同時にずきずきと激しく痛んで、苦いものがこみ上げてきた胸までが悪くなってくる。
 どこにもやり場のない、強い衝動がふつふつと沸き上がってきて、目眩すら覚えた。
(なんで…)
 どうして自分の手が。自分の手だけが。
 罰だというなら、理由を教えて欲しい。
 自分はこんなおぞましい手のまま、残りの生を全うせねばならないのか?
 いついかなる時もこの手に囚われ、翻弄され、苦悩し、怯え続けながら。
(…くそっ)
 目頭がひとりでに熱くなった。
 暴力的な上忍への怒りというより、己の不甲斐なさで一杯になる。そもそも自分が手を見て動揺しなければ、こんなことにはならなかったのだ。両の手が無くなったわけでも、痛むわけでもない。ただ血が付いているだけのことなのだから、自分さえもっとしっかりしていれば、今この瞬間も特に何という事のない日常を送っていたはずだ。周囲の目といっても皆同じ忍なのだから、必要以上に意識する必要もなかったのに。
 手に付いた血が取れなくなっただけで、ここまで動揺してしまうなど、忍としてはあってはならないことだった。
(情けない…)
 行き場を失った激情が、限界まで狭まっている胸の中で荒れ狂う。今すぐ、この手をどうにかしたくて堪らなかった。もう一刻も待てない。今この瞬間に、何もかも一思いに消してしまえたら、どんなにか楽だろうとふと思う。
 いや分かっている。この汚れた手から、この苦しみから逃れるには、二度と目を開けなければいいのだ。
 或いは両の手を切り落とすか。
「――ふっ…」
 鼻で嗤った顔が、泣き笑いのそれになっていく。
「確かに、死んだら消えますね。何もかも、みんな」
 イルカは強く掴まれていたことで痺れ切ってしまった右腕を支えに、のろのろと半身を起こした。
「死にたいって言ったら、本当に、殺してくれるんですか?」
 見下ろしてくる男に向かって問うた。
「ここでか」
 イルカの真っ黒な瞳と目が合うと、それまでぴりぴりとしていた男の声のトーンが僅かに変化してくる。
「――はい」
「なんで」
「…………」
 答えなかったものの、早くも意向は酌み取られていた。彼にとっては他人の意思など、例えそれが「死にたい」というものであったとしても、さしたる意味も持たないのだろう。そこにあるのは、ただ己の意思だけ。
 カカシはイルカの側に屈むと、きつく絞められたことで赤く痣の浮いた喉元に再び右手を当てた。
 左手は後頭部にあてがわれている。一気に頸椎を折るつもりらしい。
 イルカは抵抗しなかった。何かを考える気力がぽっかりと消え失せている。今はそんなだらしのない自分ごと、放り出してしまいたかった。
 彼が同胞に対してでも何ら躊躇することなく手を下す男で、むしろ良かったと思った。お陰で己には向いていなかったのであろう、忍という生き方を選んでしまった現実から解放され、ようやく楽になれるのだ。そう思うと心が軽くなった気さえした。
「一瞬で終わる」
 言った男の手は首にかかったままだが、刺々しい殺気は影を潜めている。
 イルカは黙って目を閉じた。
 そのとき、限界まで潤んでいた目尻から、不覚にも透明なものが一粒こぼれた。そのまま今まさに力を込めようとしていたカカシの右腕にぽつりと落ちる。
「――――」
 その落ちていく軌跡を目だけで追っていた男が、再び口を開いた。
「楽に死なせてやるから代わりに答えろ。お前、なんで今朝ちゃんと手を出さなかった?」
「…ぇ」
 思わず小さく息を呑んだ。
「殺るのはそれからだ」
「……っ」
 とうにぼろ雑巾と化していた体に、絞ったようにぎゅうっと力が入った。黒革の手袋をはめた両手が、膝の上で震えるほどに強く握り締められる。
「――っ……手…が、よご、れて…」
 消え入りそうな声でそこまで言ったが、後は言葉が続かなかった。もう嫌だ、もう勘弁して欲しい。お願いだからそれ以上聞かないでくれとひたすら祈り続ける中、重い沈黙が続く。
 その空気を、カカシが一気に引き裂いた。
「手、見せろ」
 言うが早いか、イルカの喉元にあった指無し手袋をはめた右手が、手首を勢いよく掴み上げる。
「! 嫌だ! 止めてっ、下さいっ!」
 急に怖くなって叫んだ。
 今の今まで何もかも諦めていたはずだ。なのに、何故か上忍にあのおぞましい手を見られると思った瞬間、手首が折れるかと思うほど激しい抵抗をしてしまっていた。
 しかし、手袋は呆気なくその手から剥ぎ取られ、握り締めていた指をこじ開けられて、ついに観念した。
「――――」
 上忍は押し黙ったまま、手の平を穴の開くほどまじまじと見つめている。
 イルカは観念して俯き、詰めていた息と腕の力を抜いた。
「さっ…昨夜、任務で一人処分して…今朝にはもう、こうなってたんです。どうやっても消えなくて…。こんな事、初めてで…辛くて…」
「――――」
「今朝は、本当に申し訳ありませんでした。気が動転してて…。誰にも、見られたくなかったんです。多分この血は、あらゆる意味で忍失格っていう証拠なんですよ…」
 上忍に腕を掴まれたまま、弱々しく吐き出した。洗いざらい言わされて、もう内側には何一つ残ってない。けれど何もかも全て吐ききったはずなのに、少しも楽にはならなかった。むしろまた一段、暗い階段を降りたような気がした。
「ふ…、忍失格か。それも悪くないな」
 カカシが手を離して立ち上がる。
「ぇ…?」
 その顔を呆然と見上げた。
「一生その屈辱を抱えて惨めに生きな。お綺麗な中忍さんよ」
「?」
「お前の命、オレが貰った。また死にたくなったら来い。消してやってもいいかどうかは、その時オレが決める」
「なッ…?!」
「それまでは、たっぷりと生き地獄を味わえ。勝手な事はするな。お前の命は今からオレのものだ。お前の生死はオレが決める。オレだけが決められる。一度全てを投げ出そうとしたお前にその権利はない。分かったな」
 その声音には勝ち誇ったような、どこか楽しげな響きさえ感じられた。既にどん底だったイルカを更にもう一段深い所まで蹴落としても、いやだからこそなのか、男は実に満足そうだった。
「…な…っ…なんて、人だ…っ!」
 激しい羞恥や怒りやらで、頭の中がぐちゃぐちゃになりながらイルカは叫んだ。
「そうだ、そうやって苦しみ藻掻け。続いてこそ苦しみだ。――まぁでも今後、お前が少しでも薄汚くなったと感じたら、泣こうが喚こうがすぐにその場で始末してやるからそのつもりでいろ」
 色違いの冷眼を愉快そうに細めているものの、声様には本気なのだと思わせるに充分な響きがある。
 直後カカシは、その場から掻き消すように居なくなった。

 後には、とても受け入れる事など出来ない現実を目の前に突きつけられたイルカが、一人とり残された。

「――なん…で…」
 半ば放心状態で見下ろした両の手の平には、いよいよ濃くなった血痕が赤黒く光っていた。











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