「昨日、アイツんとこ行ったな」
 翌朝。
 待機室のソファに、土足のまま寝ころんだカカシの頭側に、髭面の男がどさりと腰を下ろすなり言った。
 今朝アスマが受付に報告書を出しに行くと、例の中忍が支給服の襟を一杯までたくし上げていて、見下ろしたその襟の隙間から、赤紫の痣が垣間見えたのだった。
 それはどう考えても、気に入らない相手に対してすぐに自分の手で直に苦しみを与えて気分を晴らそうとする、カカシのいつものやり方に違いなかった。
 活殺自在な己を、これでもかとねじ込むように他人に見せつけることが、この男にとってどんな意味を持つのかなんて分からないし、知りたくもない。
 ただ、どんなに手痛い謹慎処分を食らっても、一向に反省の色を見せる様子のない男を、長年に渡って見るともなく見続けていると、(そんなことでもコイツにとっては何らかの意味のある、必要欠くべからざる行為なのか?)などと思えてくるから不思議だ。
 だからやっていい、ということには勿論ならないわけだが。

「ったく。謹慎は懲りたんじゃなかったのか、あァ?」
「消えろ」
 銀髪男は目を閉じたまま、にべもない返事を返してくる。
「来週はオレとの任務だぜ。謹慎で行けねぇなんて言い出すなよな」
 他の奴らとはどうもやりにくくてかなわねぇからよ、などと低くこぼしながら、懐から煙草を取り出す。
 大きな厚い手で器用に細いマッチを擦り、銜えた煙草に紅い火を灯した。

 それが紫煙となって半分ほどまで消えた頃。
 ともすれば聞き流してしまいそうな、寝言のように小さなカカシの呟き声がした。
「――手に、付いて…」
「?」
 見下ろすと、右目を薄く開いた男がどこか遠くを見つめている。
「手の平に血が付いて、取れなくなった事、あるか」
「ぁ? 手に、血だァ? ――いいや。…何でぇそりゃ。新手の幻術が何かか? にしちゃ、またえらくベタだが」
 口端から勢いよく紫煙が吹き出る。
 だが「それが、どうしたよ」と続きを促すアスマに、もうカカシは何も答えなかった。
 ソファの上で一度寝返りを打つと、そのまま目を閉じる。
 アスマは灰皿に吸い殻を押し付けながら、やれやれと言った表情で小さく肩をすくめた。




 夕方遅く、イルカは任務が終わるや、再び自宅へと駆け戻っていた。
 昨夜、自分が酷い屈辱を受けたあの長屋門の通用口は、その事を思い出したくないが為にあえて通らず、裏の勝手口から出入りしていた。
 居間に入っても手袋を取らず、明かりすら点けずに、上着を着たままで力無く畳に座り込む。そのまま文机に突っ伏して、昨夜から一睡も出来ないまま何度も何度も巡らした事を、またつらつらと思い起こし始めた。
 堂々巡りしていただけの記憶の断片を再び呼び起こして一つに繋げたところで、何の解決にもならないことなど分かりすぎるほど分かっている。けれどどうしても止められなかった。
 完全に常軌を逸脱しているあの男の存在が、片時も頭から離れていかない。その男に命を握ったと言われ、もっと生き地獄を見ろとまで言われた。あの、とてもまともな上忍とは…いや、まともな人間とさえ思えない行為の数々に、心底傷つき、掻き乱されていた。
 逃げ出せるものならそうしたい。誰かに相談? 上層部に直訴? それが出来るならこんなに苦しんでいない。長年に渡って里に莫大な収益をもたらしている里一番の上忍と、受付と教壇を行ったり来たりしている新米教師の中忍のどちらを生かすかなんて、子供でも分かるというものだ。誰もがこの件に関わり合いたくないがために、皆見て見ないふりをするだろう。
 いや、今はそんな周囲との関わりに逃避している場合ではない。何より問題なのは、他でもない自分自身だ。己のこの手だ。
 昨日の地点では見たくもないのに何度も見てしまっていた両の手だが、今はもう、どうあっても見たくなくなってきていた。その気持ちの変化が、好転の証しなどではないことだけは、悲しいくらいよく分かる。
(…もういい…、もう…沢山だ…)
 イルカは、頭の中に浮かんでいた愚考の数々を、振り払うように散らす。
 そして文机の引き出しの裏側にのろのろと手を伸ばして、緊急時用として常備してあったクナイを握った。それを取り外すと、突っ伏した格好のまま机の上にことりと置く。
(楽に死なせてやるなんて言っておきながら…有り難く思えだと…? 馬鹿にするな、畜生っ…!)
 握り締めた拳で机を叩く。
(俺の命は、俺のものだ。他人の言いなりになど…ならない)
 クナイを逆手に握った。
 と突然、既視感のようなものが瞼の裏を過ぎった気がして、小刻みに震える刃先をじっと見つめる。
(………)
 そうだ、こんなことが以前にもあった。
 きつく蓋をして、暗い淵の奥底に沈めておいたはずの古びた時間が、余りの記憶の一致に刺激されて、明るみに引きずり出されていた。



 中忍に昇格した年の春。
 自分は任務において、初めて人を殺めた。いや、それまでも妖狐の一件があったことから、敵味方問わず骸なら何体も見ていたし、傷付き倒れていく場面も少なからず目にはしていた。
 けれど武器を持った自分が直接手を下したことにより、もの言わぬ肉塊となったそれは、明らかに今までの骸とは何かが決定的に違って見えていた。
 そしてその「食い違っていた」事実が、己の胸を二重に深く刺し貫いていた。


 その日は、当時師であり班の指揮役でもあった、無口だけれど優秀な上忍に命じられ、自分が一人で現場に残ってトラップを仕掛けることになった。
 師匠直伝の巧妙かつ強力な爆薬の先制は、そこを通りかかった敵忍一人を倒すだけでなく、同時に周囲に潜んでいるはずの複数の敵をも一気に仕留めるための、重要な陽動になる手はずだった。
「大丈夫だ。お前ならきっと上手くやれる。任せたぞ」
 知将で知られていた背高い上忍は、そう言って自分の肩を叩くと仲間と共に散開していった。去り際に見た彼の薄い色の瞳はとても落ち着いた色をしていて、俺はいつにも増して大きく「はい!」と頷いたのを覚えている。そうだ、心配することなど何もない。起爆札の短い炸裂音が響いた時には、すでに事は全て終わっており、後には大きな達成感と安堵感だけが残っているのだから。

 しかし、半端に炸裂した白煙の中から、血にまみれた敵忍が恐ろしい咆哮と共に飛び出してきた刹那、俺はようやく己の甘さに気付くことになる。
 決してやってはいけない間違いを犯していた。
 一人で起爆札を仕掛けていた俺は、その時心の何処かで――自分でも意識しないほどのほんの僅かではあるものの、きっと――迷っていたのだ。
(この威力では、人なんて簡単に死んでしまうぞ? 本当にいいのか?)
 恐らくそんな風に、思っていたのだ。
 けれどその無意識中の意識は確実に指先へと伝わり、自分でも知らぬまに、未完成な罠を作り上げていた。
 そしてそのしっぺ返しは、瞬く間に訪れた。
 己の未熟さに気付いたときには、既に恐ろしい形相の敵忍が、生臭い血臭と共にすぐ眼前まで迫ってきていた。
 何かを喉一杯に叫んだ気がするが、まるで覚えていない。その瞬間は、酷い手傷を負ったことで猛り狂った一匹の獣から逃れたい、ただそれだけだった。
 何かの印を組んでいる余裕などなかった。いや、何一つ思い浮かばなかったと言った方が正しい。丸裸になったその時の自分が、単なる生存本能からとった唯一の行動は、たまたま手に当たった腰の短刀を掴み、何事かを喚きながら闇雲に振るい続けることだけだった。


 気が付くと、目の前に男が一人倒れ伏していた。
 一目見て息がないことは明らかだったが、自分がこの忍のどこをどう狙ったのかは、まるで型で抜いたかのように記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。もちろん全てはもの言わぬ男の体が物語っていただろうが、確認する気力など欠片も残ってはいなかった。
 喉は今にも血が吹き出そうなほど嗄れ果てていた。全身は硬く強張り、右の手指は震える左手でもって一本一本こじ開けてやらないと動かないほどにまでぎっちりと短刀を握り締め続けていた。
 限界まで張り詰めていた線がぶつぶつと途切れたことで、何度か意識も飛んだらしい。ふと気付くと地面にへたりこんでいたり、気付くとまた立ち上がったりしていた。
 当時はまだ泣き虫なところがあり、親がいない寂しさなどから時折隠れてはめそめそしていたはずなのに、その時は涙が出ることもなかった。泣くというのは、心に多少なりとも余裕があった場合にのみ出来ることなのだ、ということを初めて知った。
 またその間、(相手は里を陥れようとしていたのだ。敵だったのだ。仕方なかったのだ)と何度も繰り返しうわごとのように己に言い聞かせていたのを覚えている。
 とはいえ、自分の未熟さから、片腕を失って既に決着などついていたに等しい人間を、最も酷い方法で殺めてしまったのもまた確かな現実だった。
 ただ、忍としての自覚が無さすぎた自分がそうはっきり認識出来たのは、仲間達がいつまで経っても合図である爆発音が聞き取れないことから、自身の身を案じて探しに来てくれた数時間も後のことだった。

 手痛いしっぺ返しは、その時だけにとどまらなかった。
 里に帰還する際、指揮官の配慮により途中の沢で全身に散った返り血をきれいに洗い落とす機会が与えられたが、俺はかなりの時間を費やしたにもかかわらず、落ちたという気が全くしないまま帰路を辿った。
 周囲がすっかり暗くなった頃に帰宅したが、自宅のドアを後ろ手に締めた瞬間、真っ先に着ていたベストを脱ぎ捨て、その下の支給服も火でもついているかのように引きむしった。高く括っていた髪も力任せに引っ張って解き、飛び込んだ風呂場で長いことシャワーを浴び続けた。
 最終的に水に打たれること自体に疲れ果てて浴室からよろめき出てきたものの、洗濯し終わっていた支給服を触りたくなかった。それらはどれも任務前におろした新しいものばかりだったがどうしても干す気になれず、何時間も放置した挙げ句に、結局そのまま黒いごみ袋を被せて処分した。
 その夜は床に入っても全く寝付けなかった。途中何度も起き上がってはコップの水を一気に呑んで用を足しに行く。そしてその度にしつこいほどに手を洗うということを繰り返した。
 けれど思い返せば、あの時己の手は白く見えていた。
 しかし着ていたもの一切を処分し、手を洗うことは止められなかった。
 他人の血が気持ち悪いとか汚いとか、そんな感覚も確かにあるにはあったと思う。けれどもそういう観念は、一度念入りに洗いさえすれば、すぐに排水溝の丸い暗がりへと消えていった。
 今思うに、当時の自分は、ただひたすらあの出来事を丸ごと消し去りたかったのだと思う。あの場面を思い起こさせる一切のものを処分し、何度も手を洗うという代償行為を繰り返すことで、俺は何とかして自分から、あの忌まわしい記憶を遠ざけようとしていた。
 どうしても赦(ゆる)せなかったのだ。
 心から尊敬し、慕っていた上忍師の期待に全く応えられず、その尻拭いさえも何一つまともに出来なかった自分を。忍として、人として余りに不甲斐ないうみのイルカの存在を。

 だが任務は、そんな身勝手な中忍の傷が癒えるのを待ってくれるはずもなかった。そこから先はもう必死だった。傷の上に傷をつくる日々がいつ果てるともなく続く。まるで俺に「諦めろ」とでも言っているかのように。
 或いは麻痺でもさせようとしているかのように。
 そんな中、一人、また一人と傷付け、図らずも手に掛けていくうち、固く尖っていたものは次第に折れて剥がれて小さくなっていく。
 やがてそれらが黒いひと固まりとなって、自分の中の奥深くにゆっくりと埋没していくと、『これでいいのだ。俺はそうなるべきだったのだ』と誰に言われるともなく思うようになった。
 周囲の者達は皆、とうの昔に凄惨な現場を克服して大きな成果を上げている。自分だけがいつまでも同じ所にとどまっていてはいけない。
 そこにきて、俺はようやく泥沼の底を渾身の力でもって蹴ることが出来ていた。
 いや、蹴った気になっていた、というべきか。
 現実には、泥沼はあれからもずっと、自分の周りを満たしていたのだろうから。

(必死になって上ばかり見上げていたせいで……見えなかった…?)
 雲模様が浮き上がる程までよく研ぎ上げられたクナイの刃を、腕の中程にあてがう。
(…ぁ)
 すると一旦記憶の堰が切れたことで、更に奥にあった古い記憶までが、脳裏の明るいところに一気に押し流されてきた。

(あぁ…そう、だったな…)
 まるで昨日のことのようにあの日々が甦る。
 もう十年も前のことだ。両親が自分だけを残して亡くなったことで、当時まだ持ち慣れなかった手に余るほどの大きなクナイを、何度も自分の喉に向けていた時期があった。そこを突けば死ねることは、知識としては知っていた。
 二人が亡くなった直後より、居なくなって数ヶ月経ってからの方が遥かに苦しく、耐え難かったのを覚えている。
 一人になってからというもの、誰と何を見、何をどう聞いて行動しようとも、最後には必ず姿の見えない両親の元へと全てが舞い戻ってしまっていた。
 あの頃何回発作的にクナイを握ったか分からないが、結局は何も出来ないまま、最も辛い時期を何とかやり過ごした。そう、正面から乗り越えたわけでは決してない。
 周囲の同年代の子供達より幾分幼いところもあった俺は、単純に大きな刃物や刺したときの痛みが怖かったのだと思う。
 それに…気のせいだろうか? 自身にクナイを向けていると、それまでどうしようもなく昂ぶっていた気持ちが、落ち着くような気がしていた。



(――でも…、今なら…)
 それ以上のことが出来ないはずがない。重い記憶に後押しされるようにして、クナイを持つ手にぐっと力を入れると、鋭い痛みと共に赤いものが一筋肌を伝いだした。
「……っ…」
 しかし激情に流されていたためとは言え、一度は他人に預けることさえいとわなかったはずのこの命も、いざ自分でとなると、それ以上はどうしても手が動かなかった。そもそも腕の中ほどなど幾ら傷付けたとしても、死に至ることはないと、人の急所を知り尽くした今ではよく心得ていた。それに傷跡が服の下に完全に隠れる場所を選んで切っている地点で、既に自分は本気で死のうとしていないことも薄々分かっていた。
(…敵は……切れるくせに…)
 がくりと頭を垂れた。特に少し前から受け持つようになったクラスの子供達の顔が脳裏にちらつきだすと、固まりかけた意志がぼろぼろと四散していってしまう。

 やがて腕から響いてくる痛みと、そこから細く流れている赤いものを見つめているうち、限界まで張り詰めていたものが僅かずつ弛んでいくのが分かる。
(――――…)
 イルカはクナイを脇に置くと、開いた傷もそのままに、机にゆっくりと伏した。











         TOP    裏書庫    <<   >>