(――ふん、死ねないか)
 眼下の男が密かに藻掻き苦しむ様を、古びた天井裏の暗がりからずっと伺っていたカカシは、僅かに口端を上げた。
 久しぶりに手に入れた面白い玩具が、臨界点を超えて勝手な事をしないよう、見張りに来ていた。
 昨夜、単なる好奇心から無理矢理に見た男の両手は、特に何の変哲もないただの白い手だった。しかしカカシには、目の前の男が単に助かりたいがために、咄嗟の思いつきでやっている演技とも思えなかった。
(なかなか面白い奴かもしれない)とふと思う。望み通り、そのまますぐに殺してしまうのは惜しいような気がした。
 アスマは鼻で嗤っていたが、もしかしたらあの男の目には、本当に己の手がどす黒い血に染まって見えているのではないだろうか。でなければ、食事や睡眠さえもろくに取らず、ここまで追い詰められるわけがない。
 ある時は驚くほど凛とした目で殺せと言い切り、今はその時をも遥かに上回る辛酸苦渋を舐めさせられているにもかかわらず、死にきれないでいる。
 かといって、この稼業ではさして珍しくもないことだが――何かの弾みで気が触れたという訳でもなさそうだった。いや任務が原因で頭のおかしくなった奴などごまんと見てきたが、ひょっとしたらこいつは今、その危うい境界線上にいるのかもしれない。
 果たしてこの男は強いのか、弱いのか。或いは単に無知で馬鹿なだけなのか。
 それとも深く病んでいるのか。
 いずれにせよ面白そうな奴だとは思った。
 やがて眼下の男が酷く憔悴して、暫しの浅い眠りに落ちるまで、カカシは身じろぎもせずにその様子を食い入るように見つめ続けた。




 イルカがうすら寒さから目を覚ますと、既に夜は明けかかっていた。
 春とはいえ、まだ寒い夜もある。何も掛けていなかった体が不快に震え、暖をとらねばと片隅で思うものの、己の革手袋が目の端に映ると、途端に体は億劫がってなかなか動こうとしない。
 机に伏したまま目だけ動かすと、さきほどクナイで傷付けてしまった腕の傷跡が目に入った。痛みはだいぶ引いているが、傷口はまだ生々しい口を開けていて、乾いた血を一筋貼り付けている。
 それを見るや、自分のやった事が急に情けなくなり、後悔の念が一気に沸き上がってきた。
(何をやってるんだ、俺は…)
 幾ら心身共に追い詰められていたとはいえ、馬鹿にも程がある。これでは子供の頃の自分の方がまだ賢いではないか。
 すると、あの男の声がまた脳裏に響いてくる。
『――まぁでも今後、お前が少しでも薄汚くなったと感じたら、泣こうが喚こうがその場で始末してやるからそのつもりでいろ――』
(…っ)
 思わず手袋をはめたままの拳に、ぐっと力が入った。
(少しでも薄汚くなったら殺してやるって、何だよ…。俺は…俺はもう、とっくに……)
 そこまで思った時。
(…?)
 突然、イルカの中で何かとても大事なことが明るみになりそうな気がして、小さく息を呑んだ。知らず上体が起き上がる。
(あの人…?)
 ばっと立ち上がって脇の鞄を掴む。もどかしげに靴を履き、そのまま外に駆けていって勢いよく長屋門の通用口を潜った。
 急に脳裏に浮かんだその一点だけが、今の自分を支配している。門戸を見て一昨日の出来事を思い出し、苦悩する事も忘れていた。
 突然ある事が気になりはじめ、イルカは夢中で朝焼けの中アカデミーへと急いだ。


 夕刻過ぎ。受付。
 朝から待って待って、あれほど会いたくないと思っていた男をじりじりしながら待ち続けて、ようやく窓の外にその銀髪の後ろ姿をちら、と見かけた時。
 イルカはまだ任務中だということも忘れ、弾かれたように席から立ち上がった。
 外は雨が近いのか、春にしては空気が湿っていて、闇に飛び出したイルカをやわりと包む。
 遠くには薄手の黒い外套を袖を通さずに羽織っている、少し猫背気味の痩せた後ろ姿が見える。
 間違いない。あの男だ。あんな特徴的な髪色、あの人しかいない。
 思って、再び数歩踏み出した。
 その時。
 出し抜けに建物の影から伸びた手に、喉元を掴まれた。
「ひッ…!」
 そのまま何の抵抗も出来ずに、一瞬で固い石造りの建物に高々と押し付けられる。まさかと今の今まで確かに居たはずの男の姿を遠くに探すも、最早そこには影も形もない。
「何度も同じ手にかかるな、間抜けが」
 苛々した男の声が真下から響いてきた。同時に黒い外套の下から勢い良く殺気が立ち上ってきて、否応なく背筋がぶるりと震える。
 視界一杯に広がる銀色の髪。その向こうからは、射るような青灰色の冷眼。
「…ぐっ…ぁ…」
 男の細い五指が、みしみしと喉元深く食い込んでくる。抵抗しようと少しでも手足を動かすと、その分だけ息苦しさが増していく。
「人を見る時はせいぜい注意しろ。お前の視線は無神経すぎる」
「…な…っ…――…ぐ…ぅぅ…」
 急激に息が詰まりゆく感覚に、否応なく一昨日の夜の記憶が甦ってきた。全身から気持ちの悪い冷や汗が一気に吹き出してくる。
「怖いか?」
 言い当てた男の片目が、すっと細められた。
 イルカは喉を絞め付けてくる腕を震える両手で力一杯掴んだものの、そこから先は前回同様、圧倒的すぎる力量の差を思い知っただけだった。それでも何とかして声を絞ろうと試みるが、声帯を押さえつけられていて何も音にならない。
 数十秒後、彼の意識が遠のきかけた時。
「がはっ…」
 またもやぎりぎりのタイミングで、カカシの腕から出し抜けに力が抜かれた。
 どさり、と一切の支えなく地面に崩れ落ちたイルカの体を、男は黙って見下ろす。
(一昨日痛め付けたばかりなのに、まだ性懲りもなくやってくるとは…)
 何度もどん底に突き落とされたはずなのに、恐怖に打ち震えながらも逃げ隠れしようとしない、強いのか弱いのかはたまた単に馬鹿なだけなのか図りかねる、不思議な男。
 何度も苦しそうに咳き込みながらも、何か言いたげな様子のその男の言葉を、カカシは珍しく辛抱強く待った。

「――お聞き、したいことが…あります…」
 喉をぜいぜいいわせながら、ようやっとイルカが半身を起こした。
 上忍は沈黙を続けることで、中忍の発言を促す。
「…私の、手……どう、見えますか…」
 カカシの目の前に、小刻みに震える両の手の平が差し出された。
「――――」
「あなたは…カカシさんは、一昨日の夜、俺に『薄汚れたと思ったら』すぐに殺してやると、仰いました」
「―――…」
「もしかしてあなたは、この手に何も見えてないのではないですか?」
 長く揃った睫毛に縁取られた、真剣そのものの真っ黒な瞳が、じっとカカシを見上げている。
「――なぜ、それをわざわざオレに聞きに来る?」
 そんなに絞められたいかと言外に匂わせながら、カカシは訳もなく湧き上がってきた新たな苛立ちを隠すことなくぶつける。
「あなたは、とても乱暴です…俺も本当はとても怖い。出来る事なら近付きたくはない。――でも、あなたは正直です。…あの日受付で、どうしても手が出せなくてずっと失礼な態度をとり続けていた俺を、唯一あなただけは…叱って下さった」
「…………」
「教えて下さい。本当は、本当はどうなんですか? 俺の手?」
「うるさい!」
 カカシは自分がどこか責められているような気がして、思わず鋭く叫んだ。男が自分の与えた苦しみを糧にして、逆にどこか強くなったように見えるのが忌々しかった。
 こいつはオレの元から逃げ出すべく、懸命に糸口を見出そうとしている。今朝方まではすっかり絶望して打ちひしがれていたのに、まだ何かに縋って諦めていない。自分には見えない何かを支えにして、必死で立ち上がろうとしている。
(玩具のくせに…)
 自分の語気の鋭さにびくっと体を竦めたイルカを見ると、内側の何かがあらぬ方向に捻くれて、そこから嫌な言葉がじわりと絞り出される。
「言ったはずだ、お前の命はオレのものだとな。自分の生き死にさえ決めきれないような奴に、忍など務まるはずがない」
「なっ…」
 カカシはイルカの如何にも何か言いたげな顔を見ると訳もなくカッとなり、またもや痣だらけの喉元を掴んで今度は地面に縫いつけた。
「…がっ……は…っ…」
 手の下にある男の喉が空気を求めてひくついているが、それを許す気になどなれない。自分で今し方「玩具でいろ」と命じておいて、その言葉通りにただやられている男を見ると、一層苛立ちが募っていく。
(なぜだ? なぜもっと抵抗しない?)
 理性の飛びかかった男が、いよいよその怒りを右手に込めようとした時。
「いい加減にしとけ!」
 背後からずっしりと重みのある、聞き覚えのある声が掛かった。
 同時に、イルカの喉元を絞め付けていた手が、ふっと弛む。
「…いい加減に、しとけ。カカシ」
 もう一度諭すように、宥めるように、そしてどこかあやすように、その声は響いた。
 立ち上っていた冷えた殺気が少しづつ引いてゆくと、やがてカカシはゆっくりと立ち上がった。
「…………」
 カカシは背後の者の顔も見ずに、その場から瞬時に消え失せた。


 男の気配がすっかり消え去ると、アスマは苦しそうに咳き込むイルカにゆっくりと近付いた。
「大丈夫か?」
「…は……はい…」
 のろのろと起き上がろうとする男を、片腕を取って立たせてやる。
「…あり、がとう…ございま…す…」
 涸れきった喉を、切れ切れに絞る姿が痛々しい。
 アスマは上忍である自分を見て、次の言葉を探しあぐねて戸惑っているらしい中忍に、静かに言った。
「アンタの手はきれいだ。汚れちゃいない」
「えっ…」
「少なくとも、オレにはそう見えるがな」
「……あっ…ありがとう…ございま…す…!」
 それきり肩を震わせながら俯いてしまった男に、アスマは黙って背を向けた。











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