袖を通していない外套が朔風によって煽られ、バタバタとうるさく暴れている。
 天を仰いで片割れ月を探すも、まだ障壁の向こうから出てくる気配はない。それはアスマとの任務が始まるまで、随分と時間があるということだ。 
(まだか…)
 猥雑な空気が充満した路地の片隅で、カカシは内心舌打ちをした。
 時折路地の奥から漂ってくる臭いは、饐えていたり不自然に甘ったるく澱んでいたりして、その先一帯がまともな場所でないことをしきりに教えている。が、構いはしない。
 騒がしかった飲食街を斜めに抜けると、一帯が一般人にもそれと分かるほど白粉臭くなりだし、強い風に乗って遠く近く女達の嬌声が聞こえてくる。

(奴め…)
 先程のことを思い起こしながら、カカシは何処かへと歩を進める。
 今まで自分が里で何をしようが全く関知してこなかったアスマが、今日に限って急に邪魔に入ってきた。なぜだ? そういう下らない干渉はお互いしないという不文律が、図らずも長くなった付き合いの中で出来上がっていたではないか。
(…鬱陶しい)
 ほんの僅かなあるか無きかの光にまで反応し、どこからかやってきては煩く飛び回る夜の羽虫のようだ。
 
 と、背後に人の立つ気配があり、頭だけ振り返る。
 遠慮のない視線に刺されてびくりとその場で立ち止まったのは、一目で一般人と分かる小柄な女だった。
「やっ…やぁだ怖い目ぇ〜。――ふふふ、そんなに心配しなくたって大丈夫よォ。ね、今晩どう? アタシこの辺で一人でやってるからさ、ピンハネない分安いよ。絶対ぼったりしないから〜。三半…ううん、三でどう?」
 安物の香水の匂いを立ち上らせながら、警戒心の欠片もないといった様子で近寄ってくる。そのまま外套の襟元まで伸びてきた腕を、カカシは向きを変えて歩き出すことで払った。
 性欲なら、房術専門のくノ一が時折家を訪ねてくることで事足りていた。


 下の名前すら知らないその上忍のくノ一は、本来の場所でない部分で己の欲を満たしたくなった時だけオレの家のドアを叩くことにしているらしかった。
 目、鼻、口、耳、臍に肛門。男の体にある九つの穴に加え、もう一つ余分にあることから九ノ一と呼ばれだした女達だが、別にこちらとしては九番目だろうが十番目だろうが構いはしない。
 女は籠絡絡みの任務などで心身が満たされなくなると、思い出したようにふらりとやって来る。ドアを開けると冷えた目礼一つで入ってきて、ためらう様子もなく自分から服を脱ぎだす相手に、しかも上半身は決して脱ごうとしない相手に、こちらが前戯で盛り上げてやる必要も無い。
 ただ、溜まったものを相手の体を借りることで一気に吐き出すのが目的なのだ。行為の間はこれといった会話もなく、従ってそこに下らない駆け引きや束縛が生じることもない。
 それでも一旦繋がりさえすれば、己に分厚くまとわりついていた何かが瞬くまに真っ白く蒸発しだし、いつも荒々しい息と呻き声を上げるだけの、ただの獣と化していた。
 一度そうやって全てを吐き出しさえすれば、お互い相手には用はない。女はいつも何事もなかったように長い金髪を整え、虫も殺さぬような取り澄ました顔をして出ていく。
 もし仮に、こちらがほんの一瞬でも前戯めいたことを仕掛けようものなら、例えそれが全くおざなりなものだったとしても、女は腹を立てて牙を剥くだろう。そして二度とやって来なくなるに違いない。
 前戯などというのは、互いの余計な部分まで刺激する無用の行為だ。
 人である前に、忍であることを忘れさせてしまいかねない。

 いや、厳密に言えばその者との間には束縛…というか決まり事が、一つだけあるにはあった。

「…は…はや、く…ッ!」
 体の下で肢体を三つに折り曲げられた窮屈な格好のくノ一が、それまでとは比べ物にならないほどの酷く切羽詰まった声を上げる。と、どこかのスイッチでも新たに押されたかのように、うっそりと銀色の頭が上がる。
「…早く、締め、…て! つよ、く…つ、よく…!」
 何度も乞われたからと言うより、単に合図があったからという感じの慣れた手付きで、カカシは下半身の動きはそのままに、鍛えることの難しい細く白い首に片手をかける。

 彼女は面白い性癖を持っていて、イク直前になると決まってオレに強く首を絞めることを要求してくる。そうすることで、達した瞬間により強い絶頂感が得られるのだという。
 ただ、それを何の躊躇も無く限界ギリギリまでやれるのは里では自分だけらしく、暗部を出て里付きの忍に戻った時から始まった月に一、二度の関係は、今も尚続いている。



「――どけ」
 自分の前に回り込み、尚も薄着の体を無遠慮に押し付けてくる女に短く命じる。
「そんなつれないこと言わないでよォ。温まっていこ? ほら、こんなに指先が凍えてるじゃないか」
 言いながら外套の下の片腕を勝手に探ってくる。熱を帯びた小さな手指が、指無しの皮手袋越しに絡んでくる気配を感じ、カカシは反射的にそれを払った。
「えぇーここまで来といてそれはないんじゃない〜? 触らなきゃ何も出来ないじゃない。それともアンタって見るだけの人? だったら五百まけとくけど」
 女は尚もあっけらかんと食い下がってくる。とはいえ、見上げてくる黒目はそれなりに真剣だ。
「ねぇお願い、アタシ今すごく生活苦しいの。だから何でもする。本当に何でも言うこと聞くから、ね? 一時間だけでいいの、買って」
 一度は振り払われた腕を再びたぐり寄せるや、絶対離さないと言わんばかりにしっかりと両手で抱え込んでくる。
「――――」
 言われてみれば、確かに自分がなぜここを通り道に選んだのか分からなかった。別の道でも何ら支障はなかったはずなのに。
 時間を持て余して漠然と歩いていた自分が、無意識のうちに選んでいた場所の滑稽さに嗤えた。
 その上立ち去ろうと思えばすぐにも出来るのに、見ず知らずの、しかも如何にも十人並みと言った容姿の商売女の側でいつまでも突っ立っているなど。
 どれほど興味のない顔をしてみせようと、所詮外套の下はその辺をうろつく犬畜生と何ら変わりないということらしい。
「じゃあ決まり! ね、ね、いいでしょ。早く早く、こっちよ」
 客の無言は拒否ではなく了承だ、と勝手に都合良く解釈した女は、悪びれる様子もなく人の腕を抱えたまま裏路地へと真っ直ぐ歩いていく。
(…………)
 男は己の外套の袖に落ちかかった真っ直ぐな黒髪を、見るともなく見下ろした。



 結局、自分は何が望みだったのか。
 一組だけ布団の敷かれた狭くて薄汚い畳部屋に入るなり、何者かが暗闇の中で口布に手を掛けて来ようとしている気配に気付いて、ぐいと顔を逸らす。
 と同時に、それまで自分がどこかぼんやりとしていたことにも気付く。
 向かいの女は手を引っ込めてくすりと笑いながら「そのままの格好でするの? 無口な照れ屋さん」と言った。
(…………)
 するとまたぞろ、腹の底から苛々が頭をもたげてくるのが分かる。女の黒くて長い髪の隙間から立ち上ってくる安物の香水の匂いがやたらと鼻について、それも気に食わない。
 それにしても、自分はなぜこんな見ず知らずの一般人に対してまで神経を尖らせているのか。
 片隅で朧に思いながら、風呂に向かって短く顎で払うような仕草をする。
「えぇーーさっき入ったばっかりなのにー」
 不満げな声が浴室へと消えていくと、カカシは今まさに女に脱がされようとしていた外套の襟を引き上げた。



 隣室でサラサラと水音がしだすと、遠くもなく近くもない人の気配に、僅かずつではあるものの逆立っていたものが凪いでくる。
「…………」
 立ったまま壁に凭れて目を閉じた。
 一度大きく息を吐き出すと、なぜか脳裏にあの間抜けな中忍が首を絞められて咳き込んでいる姿が浮かんでくる。
(こんな時まで――消えろ)
 玩具の存在までも鬱陶しく思った。
 どう大目に見ても、忍には向いていない男だ。表情がありすぎて、目礼でさえ単なる目礼でなくなっている。奴とはつい最近まで一言も会話を交わしたことはなかったが、目が口以上にあからさまに色んな事を語っているのは、初めて見かけた時からすぐに分かった。
 そこまで忍べないのでは、騙し合いが基本中の基本であるこの世界で長く通用するはずがない。この世界では、馬鹿正直は短所にはなっても長所にはなり得ないのだ。遠からず消え去る運命だろう。
(オレの知ったことじゃないが)
 そう思っていた矢先、男は受付とアカデミー教師の兼任になった。どうやら上も、奴の効果的な使い方に多少なりとも気付いたらしい。
(ガキ相手か…)
 その分障壁の外に出て行く機会は大幅に減る。
(運だけはいいな)
 しかしそれからというもの、受付や廊下でたまに顔を合わすたび、男の目はますます色んなことを言うようになってきた。いや、言うというよりは、訴えると言った方が正しいくらいだ。目元はそれまで以上に無駄にくっきりとして、相変わらず一言も会話をしないにもかかわらず、馬鹿正直な中身が常に丸見えだった。

 『クラスに問題児がいる』
 『夕べは徹夜で採点をしたけど満足だ』
 『教えるという行為は予想以上に難しい』
 『子供と過ごすのは、何より楽しい』
 
 その瞳だけの訴えは無言のくせに…いや無言だからこそ鬱陶しく、日を追う毎にだんだんと鼻につくようになってきた。
 話をしたこともないのに、擦れ違ったり遠くにいると見とめただけで勝手に他人の中で広い位置を占めてくる目障りな男。そんな奴に多少でも煩わされている自分にも腹が立ち始めていた。
 そんな時だ。あの男がオレの差し出した報告書を、汚れ物のように扱ったのは。
 でもどういう訳か、オレはその場ではキレなかった。いつもなら気に食わない奴は間髪入れずその場でブチのめすのが流儀のはずだったのに、なぜか胸の辺りがもやもやとするだけでその場では手が出なかった。
 だが待機室で髭と話をしているうちに、だんだんと押さえが効かなくなってきた。それはそうだろう、もう既に奴を目障りな鬱陶しい存在だと感じていたのだから、全ては時間の問題だったのだ。終いには怒りは尖った刃に形を変えて、腹の皮を突き破って出てくるかと思うほどになった。
 オレは何の躊躇も憐憫の欠片もなく、その憤怒を丸ごと奴に転化した。奴と会話をしたのはその日が初めてだったなどという事実は、渦巻き荒れ狂う嵐によってどこかに吹き飛ばされていた。
 いきなり首を絞め上げられたことで酷く慌て、驚き、恐れ苦しんでいる奴の姿を見て、オレは至極満足だった。
 初めて奴が、オレのことをちゃんと見たと思った。もっと早くこうすれば良かったと思ったくらいだ。
 死にたいとか何とか言い出した時も(好きにすればいい)と思った。ガキのお守りや上忍にシメられた程度で行き詰まる奴など、その程度の男でしかない。
 もし奴の望む通りに奴を殺してやったのだとしても、オレは間違いなくまた懲罰房行きになるのだろう。
 でもこの頭の内側にいつまでもしつこくこびりついている、鬱陶しい奴の影がきれいさっぱり消えるなら構やしない。
 大体独房と自室に大した差などないと思えた。懲罰とは名ばかりで、結局は他の奴には手に負えないような特殊な依頼が来るまでの、ほんの僅かな間の拘束に過ぎないのだ。オレが死罪や長期の投獄に問われることなど有り得ない。
『同じ死ぬなら、一つでも多くの高収益任務をこなしてから死んでくれ』
 つまりはそういうことだった。

 オレは男に乞われるまま、後頭部に手を掛けた。何の抵抗もしない者の首の骨を折るなど、それが大の男であれ雑作もないことだ。
 いつもはきっちりと高くまとめられているいやにまっ黒い髪が幾筋もほつれて、視界の端で揺れている。
 しかしぎゅっと眉を寄せ、下唇を今にも食い破らんばかりにきつく噛み締めて、またもや何を考えているか一目で分かるようなあからさまな横顔を見ていると、何とも例えようのないもやついた苛立ちが、腹の底から沸々と湧き上がってくるのが分かる。
(あぁダメだ、オレはやっぱりコイツが嫌いなのだ)
 はっきりと思った。
 ただ男はそうして死を目前にしても、腰だけは引けずにしゃんとしていた。意外にも最後の最後で腹が据わったらしい。
(ふぅん)
 オレは心の中で背を丸めた。

 とその時。
 男の目尻から頬を滑っていくものがあって、動くものに対してほぼ無意識に反応するようになっている色違いの目がそれを追いかけた。そいつはガキの流すそれみたいに大粒で、奴の顎からオレの服の袖へとぽつりと滴って細かに散った。
(――――)
 もちろんそんなものを見たからといって、何かが動くはずもない。むしろ逆だ。
 ただこの表(おもて)面しかないような、忍にしては余りに底のなさすぎる男が、なぜ急に自分に対して態度を変えたのか、ふと理由が知りたくなった。
 全くどうでもいい事ではあるけれど、本当に気紛れに。
 ただ、何となく。

 そして手を見せろと言った途端、あの男が急に暴れだしたことで、不思議な面白味のようなものを覚えていた。猛獣が獲物を捕えた時、すぐに食べないで生きたまま暫くその辺に放置し、傷付き怯えて動けない様を眺めていることがあるが、どこかそんな行為に似ていなくもなかった。
(手に付いて、取れない、血…?)
 奴は「一人始末した後で見え始めた」と言っていた。
 けれど物心ついた時から今日まで、無数の屍と戦いを見てきている自分でも、そんな話は聞いたことがない。
 まぁそもそも、そんな私的な会話を他人と交わすこと自体が、皆無といっていいのだが。

(今度会ったら「お前の手の平の血なら、最初から見えていたぞ」とでも言ってやろうか)
 あの、馬鹿正直を絵に描いたような男のことだ。どんな反応をするかなど、今でも大方の想像がつこうというものだが、少しは楽しませてくれるかもしれない。
 口布の下で唇を曲げた。












         TOP    裏書庫    <<   >>