自分では意識していない…いや、極力意識しないようにしていたつもりだったが、やはり現実にはあの未明の一件を目の当たりにしたことで、少なからず参っていたのだろう。
 アスマは遠くに黒髪の中忍の姿を認めるや、本人の都合も聞かないまま、建物の陰へ行くよう短く命じた。

「あの、何か…」
「なにも」
 遠慮がちに見上げてくるイルカに、まるで少し前のカカシのようなつっけんどんな返事をする。
 だがすぐに(くそっ、これじゃあ毒の連鎖みたいじゃねぇか)と思い直し、どうにか平静を取り戻すと、唐突な上忍の言葉の意味をはかりかねて戸惑っているイルカに向き直った。
「おめぇ、あれからカカシに一度でも会ったか?」
 すると男は呆れるほど素直に「はい、何度か」という返事と共こくりと頷く。しかも自ら会いに行った事もあったという。
 その子細に、アスマは顔半分を大きな分厚い手で覆うと、深い溜息を吐いた。


「アイツの――カカシの中じゃあよ、この木ノ葉の里なんてぇもんは、もうとっくの昔に滅びてんだ。そこに暮らす者達も含めて、何もかもな」
 『勿論奴自身もな』という言葉だけは、どうにか理性が口にすることを押し止めたが、イルカは何かに思い当たったようににわかに頬を固くして、一歩詰め寄ってきた。
「どういう…意味ですか、それ」
「どうもしねえよ。…っておめぇも薄々は気付いてんじゃねぇのか? 奴の親父は『不世出の傑作だ』なんだと散々に褒めそやされてたにもかかわらず、最後には上に詰め腹を切らされた挙げ句に自刃してる。一応『病んだ上での』って前置きは付いてるがな」
「仰ってる、意味が分かりません」
 中忍は意外にも狼狽することなく、くっきりとした目元のままで慎重に言葉を向けてくる。奴の父親の事をどこまで知っているのかは分からないが、こんなに芯のある男だったかと、かえって自分自身にいつの間にか生じかけていた「ぶれ」を意識させられた上忍は密かに省みる。
「アイツ自身だって、自分が何に抗ってるかなんてはっきりたぁ分かっちゃいねぇ。…ああいや、ひょっとしたら分かってるからこそ、誤魔化そうとしてるのかもしれねぇがな。だから常に不安定で、ちょっとしたことですぐに無意味な暴力に走る。奴は任務の最中、異常なまでに他人の術を奪うことに傾倒するんだがな。恐らくはそんな行為だって、そういった納得のいかねぇ一切合切から己の目を逸らし続けるための、必死の逃避行動だ」
「…………」

「ったく、大馬鹿野郎が」
 何かしら思うところのあるらしい上忍が吐き捨てるのを見るや否や。
「じゃあ、じゃあ、もしあの人が!」
 イルカは思わず拳を握り締めて叫んだ。
「カカシさんが、もし一度でも『辛い、苦しい』って言ったら、誰かが何とかしてくれたんでしょうか? 全てを解決出来ないまでも、何とかしようとして、少しでも誰かが心を砕いてくれたんでしょうか?」
 両者の間の空間が、ぴんと張り詰める。

「――…いいや、しねぇな」
 僅かに落胆の色が見える中忍の、真っ黒な目を斜めに見下ろす男が続ける。
「甘ったれたこと言ってんじゃねぇ。おめぇだってこの世にたった一人しかいねぇ親が死んだのを、有り難迷惑でしかない『英雄』の一言でもって耐えてんだろうが。他にも似たような境遇の奴はごまんといる。野郎だけ特別扱いなんてこと、例えオレが火影でもやらねぇよ」
「…………」
 その後に訪れた沈黙はとても長く、苛立った様子のアスマが破るまで重く続いた。


「――もし本当に、神とかいう奴がアイツを作ったというんならよ」
 上忍が火を付けたばかりの煙草を口にし、長く紫煙を吐きだす。
「そいつぁとんでもねぇ野郎だぜ」
「ぇ?」
「カカシの中の人殺しの技術と、見目を良く作ることにだけ夢中になりやがって。それ以外のことは何一つ出来ないようにして、この世に突き落としたんだからな」
「やっ…、止めて下さい、そんな言い方!」
 イルカは思わず下腹に力を込めた。
 確かにカカシは目に余る振る舞いをする、手のつけようのない男だ。けれど図らずもすぐ間近で対峙することになった自分には、彼の体の向こう側に、ほんの微かだけれど読み取ることの出来る何かがあるように思えてならなかった。
(今はその文字を、あの人が暴力や無言の壁で遮って見せなくしているだけだ)
 しかしこの現実主義の雄々しい上忍に、その酷く壊れやすく模糊としたものの輪郭を説明したとしても、納得はして貰えない気がした。
「カミサマ説はお気に召さねぇか?」
 アスマは口端で煙草を噛んだまま、鳶色の瞳だけをこちらにくれる。
「はい」
「オレもだ」
「…………」


「――まぁ…何もかもが神とやらの仕業だと思ってた方が、奴にとっちゃ楽なのかもしんねぇけどな」
 髭面の男はそんな言葉を残すと、イルカの前からあっさりと姿を消した。
「――――…」
 ただその時吸っていた煙草の残り香だけは、その夜イルカが苦労して寝付くまで、いつまでも自身のそばを漂い続けた。





 夕刻。
「―――…」
 カカシは、浅い眠りからぽつりと目を覚ました。まだ体力は殆ど回復しておらず、節々は鉛でも詰まっているかのように重い。だが、頭だけは不快に冴えて、再び眠ることを許さないでいる。
 ここが何処かと確認するよりも前に、己の両手の平をゆるゆると毛布から出して見た。
(…………)
 しかしそこには、最早そうであるのが当たり前であるかのように、赤黒いものがべっとりと染みついていた。
 何度風呂に入り、左目で見つめ、浅い眠りから目覚めようとも、手の染みは依然として赤黒くそこを覆い尽くしている。
 顔に近づけてみる。が、匂いはしない。
 しかし、それはこうして里で多少なりとも落ち着いている時にのみ、辛うじてそう感じられていた。
 現場でいよいよこれから打って出る…という時など、両手からあの生臭さを伴った鉄臭が勢い良く立ちのぼってきて、敵方に悟られるのではないかと内心酷く焦り、間違っているはずのない風向きを何度も確認する有様だった。
 それともこの臭いも、手の血と同じく他人には分からないものなのだろうか? 本当に自分一人しか感じてないのだろうか?
 だが、周囲の者や医者に確かめてみるなどという選択肢は、以前にあの中忍に訊ねて以降、一度も浮かぶことはなかった。


「…なぁ、オイ。お前も……見えてるんだな? その…、手に…」
 少し離れた所の椅子に腰掛けて紫煙を燻らせていたアスマが、待ちかねたように声を掛けた。問いかけた言葉は半端で遠回しなものになっていたが、他でもないカカシならその意味を解しているはずだ。
 イルカから聞いた話によれば、自ら「見えている」と言ったというから間違いないのだろうが、勿論「何のことだ?」などと言わせたまま終わるつもりもない。
 しかしカカシは何も答えないまま、ソファからのっそりと起き上がった。
 毛布が滑らかな肌からすべり落ち、一糸纏わぬ体が露わになるが、男が意に介する様子は全くない。
 アスマはその完成された肢体を、椅子に座したまま見るともなく見た。
 閉じている左目を除けば、額から爪の先まで滑らかな淡い色合いの肌にぴったりと包まれた、手足の長い、均整の取れた体だ。
 肩口や腕には幾つか古傷があるものの、背後はシミ一つなく、実にきれいなものだ。
 それは男がどんな事があっても後ろを取られない、群を抜いて優秀な忍であることを示している。
 だが、そんな忍としてはほぼ完成していると思われていた男が見せた、あの未明の凶行。いや、敵忍の排除任務を命令通り完遂しただけだと言い張るのなら、奇行とでも言えばいいのか。
 あれは奴お得意の、いつもの単なる気紛れなどでは決してなかった。それだけは断言出来る。
 でも、だとすれば、これからも自分の側であんな方法を取り続けるつもりなのだろうか。

「なんか、試してぇことでもあったのか?」
 頭から「この馬鹿野郎が」と一喝するつもりでいた衝動は削がれて、まるで子供相手のような角の取れた問いになる。

(――あったんだろうよ?)

 一言も答えるつもりのない横顔に呟いた。



「…ん、なんだ?」
 長いこと恐ろしく気配の希薄になっていた男から、珍しくはっきりとした意志を感じ取ったアスマが、そちらを注視する。
 と、昼間自分が持ってきて目の付くところに置いてあった、新しい支給服に袖を通し終えた男と目が合った。
「…水」
 血の気の失せた薄い唇から久し振りに男の声がして、アスマはいいぜ、と席を立った。


 だが流しで水を汲み、(奴も案外、思ってたほどはヤバくねぇのかもな)などと思いながら戻ってきたその室内に、銀髪男の姿は影も形も無かった。
「――オイ……嘘だろ…」
 アスマは硝子のコップを手にしたまま、その場に立ち尽くした。
 脇のテーブルには、つい今し方まで自分が目を通していた書類が、席を立ったときのまま残っている。それは、先程アカデミーで渡されたものだ。
 内容は『以前行方不明だった抜け忍二名の潜伏先が見つかった』というものだ。
 その「S」と朱書きされた依頼書には、前回と同じくオレとカカシの名が記されている。けれどオレは「誰か他のヤツと組ませてくれ」と変更を申し出るつもりで持ち帰っていた。勿論今のカカシでは到底無理と判断したからだ。但し「奴の様子がおかしいから」と公にするのも何となく憚られたため、暫くは内密にしておこうと思っていた。
 その矢先も矢先。
(まさか…読んだのか、これ…?)
 抜け忍の潜伏先一帯の地図や、連中の特徴などが細かく記された数枚に渡る書類だ。水を汲んで戻ってくる程度の時間で読める訳がない。
(いや、読めるな。――しかも全部)
 奴を誰だと思ってやがる。
「馬鹿なコピー忍者、だったっけか」


 アスマは書類を懐にねじ込むと、今朝ほど持ち帰ってきたばかりの、まだ何の手入れもしていない忍具を一式鷲掴んだ。
 そして次の瞬間、ドアを閉じ壊さんばかりの勢いで、夜の闇へと飛び出した。











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