その夜は奇しくも朔(さく)だった。
空一杯に棚引く晩春特有の淡雲に、大半の星明かりが遮られている。土臭い大気は仄かに生温かく、殆ど動くことなく地上に溜まっている。
樹海の奥深く、光を頼りに生きる非力な者達は皆、息を殺してひっそりと寄り添いあい、ひたすら夜明けを待っていた。
「……カカ…シ……おめぇ…か?」
猿飛アスマは、目の前に佇む人らしき生き物の姿を一目見るや、小さく息を呑んだ。
いや、最初は深い森が作り出す濃い闇が邪魔をして、その固まりがゆらりと立ち上がるまで、人であるかどうかすら分からなかった。
それがのっそりと動きだしたことで、ギョッとして思わず喉から飛び出したのが、その言葉だった。
アスマの問いかけに応えるように、閉じていた男の両の瞼が見開かれると、鮮やかな赤い点が一つだけ、ぽうと暗闇に浮かぶ。
赤いのに、ぞっとするほどに冷たい輝きを放つそれ。
(やはり、お前なのか…)
出来ることなら違っていて欲しかった。
心の何処かでそう思っていたアスマの願いは潰えた。
男の名を呼びはしたものの、アスマには本当にその者がカカシなのか、未だに確信が揺らぐような光景が眼前に広がっていた。
いくら他人の術を奪う任務に必要以上に傾倒していたとはいえ、ここまで意味不明な行動を取る男ではなかったはずだ。
男はそこに、地獄を作り出していた。
カカシの周りは、立ちこめるおぞましい臭いと、複数の人間からぶちまけられたものが発する生温かな薄気味悪い温感に満ち満ちていた。
闇の濃さから細部までは見てとれないものの、そこがどんな恐ろしい状況になっているかは、鋭敏な感覚器官から容易に伺い知れる。
いや、かえって闇が濃くて幸いだった、と思ったくらいだ。
カカシは上から下まで、前も後ろもなく、夥しい量の血や何処の物ともしれぬ飛沫に濡れそぼっていた。
まだ所々湯気の上がる数体の屍の中に、男はいつもの猫背気味の立ち姿で静かに佇んでいる。
少し夜目を効かせるだけでどんな深い暗闇でも確認できていた、強く輝くカカシの銀色の髪。
それが今は、粘つく赤黒いものにぐっしょりと覆われて闇に溶け、銀色一筋の判別すら出来なくなっていた。
更に手も足も顔も支給服も、何もかもが闇にべっとりと重く沈んで、恐ろしい臭いを放っている。
闇夜に赤黒い姿が溶け込んで殆ど見えないにも拘わらず、強烈な臭いと温感が、男の存在をこれでもかと浮かび上がらせていた。
(っ…馬鹿野郎ッ、何て事しやがったんだ…)
アスマは目を剥いたまま、事の凄惨さに身動きが取れなかった。
(どういうつもりだ、カカシ…)
しかし、その思いは最後まで言葉にならなかった。
今、何をどう言ったところでこの男の耳に届くとは思えなかったし、実のところ引きつった喉からは上手い言葉が出せなかった。
曲がりなりにも我々は忍だ。
派手な痕跡を残す殺しなど、かえって後をつけられ、こちらの身が危うくなるだけの無駄な行為だ。
何より、同じ温もりを持った同じ人間をむごたらしい方法で直に惨殺する事は、後に自分や同胞達の精神的ダメージを増幅してしまう事に繋がりかねない。
例え何らかの譲れない理由があって激情に流されるまま手に掛けてしまい、その場では何も感じなかったとしても、後々になって己を静かに、深く蝕んでいく可能性がある。
実際、数々の殺しの任務をこなして上忍にまで上り詰めたまでは良かったものの、その後精神異常を来して廃人となった者は数知れない。
己や同胞の精神安定のためにも、可能な限り忍術を使うなどして、現場がおぞましい状況にならないようにする。
それが、優秀な忍の条件とも言えた。
ふた月程前までは、流石のカカシもそれをある程度のレベルまでは実行できていた。しかも、どんなに過酷な任務であろうと、その暗黙の了解は維持できていたのだ。
やろうと思えば、今回だって出来たはずだ。
(なのに、なぜ急に…こんな…)
戦の最前線に行った時ですらまず見たことのない、その地獄絵さながらの光景を、アスマは背中に嫌な汗が流れるのを感じつつ、受け入れるよりほか仕方なかった。
アスマの視線の先には、髪から赤黒いものを滴らせながら、己の粘つくどす黒い両手を静かに見つめている男の身震いするような姿だけがあった。
しかし彼が内側から発している気は、その凄まじい外見とは裏腹に、何故かとても希薄で儚げなもののように思えた。
今にも男の中に揺らめいている小さな灯火がふっと消えてしまいそうな、そんな気がした。それまでは男の中に灯などというものがあるなんて事自体、想像だにしなかったというのに、今では自分が近付いたら…いや自分が声を掛けたその瞬間にも掻き消えてしまいそうで、何やら怖かった。
奴がこんなことになるなら、まだ収まりがつかずに荒れ狂い、自分に牙を剥いてくれていた方が遥かにマシだと思った。
本当にこの男が、こんな凶行に走ったのだろうかと、二手に分かれていてその場にいなかったアスマにはまだ信じられなかった。
(…カカシ…?)
やや警戒しながら近寄ると、その眼差しは嘘のように落ち着いていて、意外にもしっかりとしたものだった。
己のやった事の重大さに、まるで気付いていないのではないかと思わせるほど、その目に動揺の色は欠片もなかった。まるでうたた寝から目覚めばかりのような顔をして、静かにこちらを見ている。
ふと見ると、少し離れた所に男の指無しの手袋が脱ぎ捨てられているのが目に入った。
(お前…)
アスマはそれを見るや『男はこの殺戮を意図的にやったのだ』と、どこか遠いところで理解し、途方に暮れた。
夜明けが刻一刻と近づいてきている。
この惨状を、これ以上はっきりと目の当たりにする気には到底なれない。幾ら慣れているとは言え、何日も不味い飯を食うことになるなど御免だ。
アスマは肉塊に埋もれた認識チェーンを急ぎ拾い集めると、一言も喋ろうとしないカカシに指無しの手袋を投げつけるや、ぼそりと一言「戻るぞ」とだけ呟いた。
ここひと月というもの、カカシは誰が何をどう話しかけようとも、一切言葉を発しなくなってしまっていた。唯一意志疎通らしきものが細々と行われていたアスマとでさえ、一言も口をきかない日々が続いていた。
それまでは気紛れを起こして、外に向いていた事もあった彼の心が、今や無音のまま内へ内へと果てしない闇に向かって落ち込み続けているような気がして、アスマも気にはなっていた。
だが奴は、昔から人の話を素直に聞くタイプでもなければ、悩みを打ち明けてくるような男でもない。
どうしようもなかった。
そもそもそういう行為を全く必要としない男だったからこそ、今まで心を病むこともなく、長く頂点を極めることの出来た『手の掛からない、非常に便利な』忍だったのだ。
だが最近では彼の体の上に、目に見えない薄い黒布が一枚、また一枚とゆっくり舞い降りているような気がしてならなかった。
会うたび徐々に、でも確実に、彼の行動や魂そのものまでが、黒い薄布の下に暗く覆い隠されつつある。
カカシという男の輪郭が、次第に見えなくなりだしていた。
以前のカカシは、相手の行動が気に食わないとなると即座に極端な暴力に訴え、任務となれば自身の気に入ったように相手を翻弄しては始末していた。お陰で捕縛が最優先の任務では、やり過ぎてしまわないよう途中で制止するのが難儀だったが、一旦捕まえてしまえばその場で新たな情報を得るための自白をさせることも誰より早かった。
どうすれば相手が一番辛いのか。
奴はそれをあたかも獣のような嗅覚で嗅ぎ取り、実行することが出来た。
カカシは他人のことなど全く眼中にないようでいて、その実誰よりも鋭く人を見ている。
大人しく里という鞘に収まることを拒否し続け、時に剥き出しのまま周囲を斬りつけ回っていた刃の部分にも、一枚一枚、その黒い薄布は落ちかかっているようだった。
ぎらぎらとして唯一人間的と言えなくもなかったそんな部分ですら、徐々に薄布に覆われて切れ味を無くしているように見える。
アスマはカカシと接するたび、言いしれぬ不安を募らせていた。
そんな折だ。思い出すだに胸の悪くなるような、未明の任務――あの凄惨な出来事が起こった。
あれは今までカカシが任務中、どこかゲーム感覚でやっていた『術を奪い、気に入ったように始末する』などという生易しいものではなかった。
カカシは一切の忍術を使わず、どんどん切れなくなっていくクナイをわざわざ何本も交換してまで、その全ての行為を素手で全うしていた。自身が血の海に浸かる事をはなから望み、意図して動脈や内臓ばかりを狙ってひたすら斬り付けていた。
奴は何故、そうまでして己を血にまみれさせたかったのだろう。
確かにどんな形であれ、任務自体は完遂している。
報告書の文面には、単に『クナイを使って四人を絶命させた』としか残らない。
表向きにはまた一件、カカシの功績が記録された形だ。
しかしアスマは、『カカシは忍として生きていくのに必要なものを、今まさに失いかけている』と思った。
あの後、途中の水場で半ば強引に顔や手を洗わせたが、他の箇所は最早手のつけようがなかった。しかも手と顔だけがぽっかりときれいになって暗闇に突っ立っている姿はかえって異様で、黙って他人の言いなりになっていることも薄気味悪さを増していた。
アスマは激しい血臭から面倒な事になるのを恐れ、門番のいる大門を通らずに、ごく一部の上忍と暗部だけが解錠印を知っている、障壁の一角に作られた人気のない潜り戸から里へと入った。
そこでいよいよ周囲が明るくなりだして時間切れとなったため、急遽より近い自分の自宅へと押し込んだ格好だった。
突き飛ばすようにして真っ先に行かせた風呂場から幾らもしないうちに出てくると、男は髪さえ拭かずに素裸のままソファにどさりと倒れるや、ぴくりとも動かなくなった。
それ自体は単なるいつもの余力の枯渇なのだが、大の男にしては異様に静かで呆気ない幕切れを目にするたび、そこに当人の死が重なって見えているような気がして、毎度の事ながら眉が寄る。
暫くは微動だにしないであろう男の髪の先からは、まだ仄かに薄赤いものが床に滴っている。
(――たくよ…)
その上に毛布を一枚だけ放り投げると、アスマは報告書を出すべく自宅を後にした。
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