「話があるんだが」

 ありきたりも極まったような言葉で呼び出して、人気のない場所で改めて見下ろした中忍は、最初に見た時同様、特に何と言うこともない、ごく平凡な男だった。
(少なくとも、オレにゃそうとしか?)
 アスマは紫煙と共に、小さく溜息を吐いた。向かいでは少し不安そうな、けれど人の良さだけはそれこそ顔一杯に出ている男が、自分の言葉を辛抱強く待っている。
(…たく、面倒臭ぇな)
 自分が呼び出した男といつまでも無言のまま向き合っている現実にも馬鹿馬鹿しくなってきて、直前までどうすべきかと迷っていた用件を単刀直入に切り出した。
「カカシのことだがな」
「ぁ、はい」
 多少は予想していたただろうに、男の頬に緊張が走ったのが見て取れる。
「もうアイツと関わり合うな」
「え?」
「アイツの居そうな所にも行くな。もし偶然会ったとしても無視しろ。二度と話をするな。絶対に目を見るな」
「な…」
「何でかって? さぁな、こっちが聞きてぇくらいだぜ。とにかくそれさえ守ってりゃ、お前の里での身の安全は保証されるんだ。――いいな?」
「――――」
 ぐっと眉を寄せ、ぱちぱちと瞬きをしながら口ごもっている中忍を見ていると、何やら自分が余計なお節介を焼いているような気分にさせられて、内心で思わず舌打ちをする。いや、実際お節介そのものなのだろうが。
(ああくそっ、面倒くせぇな)
 とにかくこの場はさっさと収めてしまうに限る。
 上忍のカカシと、中忍のイルカ。この決して相容れない二人が必要以上に関わり合いさえしなければ、すぐにも過去は風化しだし、それまでと何ら変わらぬただの上下関係へと立ち返っていくのだ。
 この中忍も、オレも、そしてカカシもそれを望んでいる。今までは、その三者の意志伝達が上手くいってなかっただけだ。

「――聞こえねぇが?」
 少し強く返事を促す。
「……はい」
 黒髪の中忍は、足元に目線を落として小さく答えた。






(『関わり、合うな』…か)
 髭面の上忍の言葉を、今日もまた思い返す。
 あの日家に帰っても、風呂から上がっても、翌朝目覚めてもまだ、彼の言葉はイルカの中でいつまでもふらふらと所在なく漂ったままだった。
 その言葉の置き場所が、心のどこにもない。そんな感じだった。
 やがて数日をかけて、イルカは(自分はアスマさんの言葉に抵抗しようとしている)と、はっきり悟った。あんなに面と向かって諭されたというのに、あの銀髪上忍のことが頭から離れていく気配がまるでないのだ。むしろ彼のことを考える時間は日増しに増えているくらいだった。自分にこんな分からず屋の頑固な部分があるなんて、思いもよらなかった。
 里のどこに居ても、アカデミーで何をしていても、気が付くと目があの銀色の影を探してしまっている。
(あの人に会いたい。会ってもう一度話がしたい)
 日増しにその思いだけが強くなってくる。同時に身の危険を顧みる回数は、どんどんゼロに近付いていく。

 そしてようやっとその人影を目の端に認めた時は、今まで感じたことのない奇妙な高揚感に、文字通り何もかもが地に着いていない状態だった。
 今後自分がどんな弁解をしようとも、一度「どうでもいい」と言った彼の評価が変わることは死ぬまでないだろう。けれど、どうしても言っておきたいことがある。聞いておきたいこともある。とにかく絶対にこのままではいけない。
「カカシさん! 待って下さい、カカシさん!」
 男の名前を何度も呼びながら駆けていく。しかし彼の耳には何も届いていないらしく、背高い後ろ姿は花びら混じりの強い東風の中、ゆっくりと遠ざかっていく。
(…?)
 おかしい、何か変だ。何らかの反応があってもいいはずなのに、本当に何も聞こえていないのだろうか?
(いや、それだけはない)
 要するに自分は無視されているのだと一声かけるごとに確信しだすと、イルカはますますムキになってその後ろ姿を追いかけた。

「待って下さい!」
 彼に追いついた時は自分でも不思議なほど興奮していて、男の脇を掠めるようにして止まった。『誰もが避けて通る要注意人物』という壁はすっかり消えていて、いつの間にか遠くに親しみのようなものさえ湧いていた程だった。
「あのっ、先日は、すみませんでした!」
 気持ち上がった息で見上げる。
「俺、どうしてもカカシさんに一言謝りたくて。この間のこと…よく考えもせずに失礼なこと言って、本当に申し訳ありませんでした」
「――――」
 上忍は顎を下げることなく、じろりと右目だけをくれる。
「ぁ…」
 彼の行く手を塞ぐようにして立っている自分に気付き、慌てて横に少し距離を取る。
「すみません。実はその……手のことで、お話しがしたかったんです」
「――――」
「そのっ、まだ手の平に…見えて、いたら…」
 何か少しでもいい。こんな自分でも、彼の力になれはしないだろうか? その一念だった。
「――…見えて、いたら?」
 上忍に低く復唱され、続きを促されたと確信したイルカは、ままよと下腹にぐっと力を込めた。

「俺、感じるんです。自分が見ず知らずの誰かを手に掛けて、命を奪ったその瞬間、ふと」
「――――」
「その人の命が、俺の命とどこかでほんの微かだけれど繋がったような、そんな気がするんです。ひっそりと、でも二度と解けないくらいしっかりと。相手の体はもうそこで冷たくなりだしてるのに、現実には繋がるどころか別たれてしまったはずなのに、一刻も早く忘れなきゃいけないって分かっているのに、なぜかもう全くの他人とは感じられなくなってしまってるんです」
「――――」
「おかしいですか? そうかもしれません。本当は誰とも、どこも繋がってないに決まってます。敵は敵、俺は俺。たまたま、ほんの偶然出会って戦っただけ。それ以上でも、それ以下でもない。……そう、思うのに…、思うのに、俺…っ…」
 けれど、そこから先が急に上手く続かなくなって、ぐっと俯く。
(…自分は、一体…)
 肝心なところを前にした途端、今思い出してはいけない様々な思いまでが、一塊の興奮に形を変えて転がり回り、胸の中を掻き乱している。
(落ち着け…)
 そう思うと、情けなさから余計に考えがまとまらなくなる。
 伝えたいことはもっと他に山ほどあったはずだ。冷静に順序立てて話をしなくてはと、何度も繰り返し言い聞かせてもいた。なのに彼を前にした途端、感情ばかりが溢れて先走ってしまっていた。他でもないこの男に限っては、それが逆効果でしかないことは、分かりすぎるくらい分かっていたのに。
 こんな話、他の誰にも出来るわけがない。でも、どうしても彼にだけは話したかった。なのに、言いたかった事の半分も伝えられずに、途切れてしまうなんて。

「――なら、オレが」
 突然耳の奥を震わせた声音に、あっと思う間さえなかった。
 目の前の銀髪男が動きだしたと思ったときには、もうその利き手はイルカの首元にがっちりとかけられていた。黒い皮手袋から伸びている細長い五本の指は、まるで鋼で出来た鞭のようにしなり、イルカの気道を一気に狭める。
「――ならオレが、お前を殺せば」
「……ッ…」
「その瞬間、オレとお前は――…繋がると?」
「…ぐ……っ…」
 イルカは息を吸うことも吐くことも許されず、カカシの右手に両手をかけたまま、両の目を二度大きく瞬きさせることで辛うじて返事をした。そんなあやふやな意思表示で、彼に何が伝わったかは分からない。けれどそれが今の自分に出来る精一杯だった。
「ふっ……いいか、これだけは覚えておけ。下らない感傷に浸って、勝手に他人を自分の中に取り込むな。同情心や罪悪感で常に己をガードしてないと居られないなら、今すぐ忍を辞めろ。己の弱さを他人に売るな。そんな奴に殺された方がいい迷惑だ」
「……っ……ぅ…」
「誰に何を言われて来たのか知らないが、目障りだ。二度とオレの視界に入ってくるな」
『違う、違う! これは俺自身の判断だ。他の誰も関係ない!』
 そう言いたくても言わせて貰えないまま、締められた首を僅かに横に振る。いや、振るべく懸命の努力をする。
 直後、尋常でない勢いで周囲の砂塵が一気に舞い上がりだした。
(っ…!)
 痛いほどに顔を叩きだした砂粒に両腕で顔を覆い、息が苦しいのも忘れて思わず目と口を固く閉じる。


 数秒後。つむじ風が過ぎ去った気配に薄く目を開けると、案の定上忍の姿はそこに無かった。
(――カカシさん…)
 もっともな言葉の数々に、容赦の欠片もなく正面から打ち据えられた胸が痛い。
(俺…)
 イルカは喉を押さえていた手を力なく下ろし、肩を落とした。



(――にしても……気のせい、……か…? )
 だが今し方の上忍に、これまで感じたことのない違和感があったことにふと思い当たると、内側に消しようのない疑問となって急速に広がりだした。
(まるで殺気が…なかった…?)
 確かに声は鋭く、言葉も容赦なかったが、ただそれだけだった。もちろん呼吸は苦しかったが、どういうわけか今までのような「殺される」という切羽詰まった恐怖を感じなかった。

(…カカシ、さん…?)
 ならば安堵してもいいはずだ。
 けれどイルカは、言葉に出来ない漠然とした不安に、長いことその場から動けなかった。











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