日没遅く。
 人気の無くなった受付に、イルカは一人、ぽつんと座っていた。
 右側にある窓ガラスに、一つだけ点いた裸電球の下でぼんやりとしている己の姿が、くっきりと映り込んでいる。そのガラスのすぐ向こう側には、灯りに誘われてきた夜の羽虫が一匹、先程から忙しなく羽を震わせ飛び回っている。
 窓の外は残照も見ないまま夜の闇に塗り潰されており、その中を未明から飽くことなく細い雨が降り続いていた。
 イルカの今日の任務は、もうとうの昔に終了していた。けれど、いつまでも席を立てずにいた。
 周囲に一切の人気が無くなっても、そこに腰掛けたままずっと手の平を見つめ続けている。
 今朝起きてみると、手の平の血痕がすっかり消え去っていた。今まで何をどうやっても落ちる気配のなかったあの赤黒い血が、目覚めた時には嘘のように呆気なく消えて無くなっていた。
(まさか…夢、なんてこと…?)
 余りのことに、自分自身を疑うことしか思いつかない。
 それともやはりこれは幻という名の術だったのか? 或いは何か全く別の事由か?
 全て消えるのに丸三日間かかったが、いずれにせよ手は元通りになった。
 しかし確かにほっとはしたものの、心の底から嬉しいという気分ではない。手放しで嬉しいと言うには、この一週間あまりにも色々な事がありすぎた。
 手は心の底から乞い願った通り、元通りになったが、記憶が元のあの日に戻ることは決してない。
 複雑だった。あの銀髪の上忍に言われた言葉の数々も、まだ心のどこかに刺さったまま抜けきらないでいる。
 思えば彼の提出する報告書は、いつも他の誰よりも簡素だった。けれどその背後にどんな凄惨な現場があったかなど、他でもない自分には容易に推察出来ていた。
 報告書には、その人となりが必ずどこかに出るものだ。人によってはまたとない自己アピールの場とばかりに子細に書き連ね、中には必要以上に飾り立てている者もいるというのに、彼はそういった事をする気配のない、数少ない人だった。
 無駄な枝葉の一切無い記述はどこまでも簡潔で、自分はそんな彼の姿勢に、いつしか深い尊敬の念を抱くようになっていた。
 時折彼の命令無視や暴力沙汰などの芳しくない噂を耳にしても、(何かの間違いだ。俺は彼を信じる)などと思っていた。
 そんな折り、力ずくでねじ込まれた言葉だ。簡単に忘れられる訳がない。
(あの人の本心て…どこに、あるんだろう…)
 自分は彼の報告書に目を通すうち、いつの間にか彼の本心から一番近い所に居るような気になっていたらしい。
 けれど現実には、それは自分から最も遠く、決して見えも届きもしないところにあるのだと思い知らされていた。



「まだうだうだしてるのか」
 突然、背後の薄暗がりから聞き覚えのある冷えた声が飛んできて、イルカはびくりと体を竦めた。
 反射的に手を引っ込めて背後を振り返ると、黒いマントに身を包んだ背高い男が、いつの間にか戸口に立っている。
 マントの縁という縁から水滴がぽたぽたと忙しなく滴り、フードの奥の暗がりからは、燐火のように輝く灰青色の右目が瞬きもせずにこちらを見つめている。
(カ…カシさん…!)
 今の今までその男の事を冷静に考えられていたにも拘わらず、いざ当人が現れると、その圧倒的な存在感に体が強張ってつい身構えてしまう。
 自身の鼓動が急速に大きく速くなり、聞かれぬように抑え込もうとするがどうにもならない。
 男は、そんな受付のことなど眼中にないかのように目の前までやってくると、マントの内側から数枚の紙を無造作に取り出して、無言のまま鼻先へと突きつけてきた。
「ぇ、…あ、はい!」
 焦りつつ、いつものように両手で用紙を受け取る。と、指先の無い手袋をはめた男の手は、マントの下へと思いのほか素早く消えていった。
 イルカの手に渡ったのは、今回の任務の報告書だった。やはりその文面は、一見しただけで簡潔な記述だと分かる。
「おっ、お疲れさまでした」
 言ってチラ、とカカシを見上げたものの『お前の視線は無神経すぎる』という、いつぞやの言葉が思い出され、慌てて視線を逸らす。高鳴る動悸を抑えつけながら、男が立ち去るのをひたすら待った。

 しかし、フードの奥から、どっちが無神経かわからぬ無遠慮な視線がいつまでも注がれ続けると、さすがのイルカも根負けしてしまい、チラリとカカシの顔を見上げてしまう。
「手、どうなった」
 目が合うと、意外にも棘のない穏やかな声で、男が問うてきた。
「はっ、はい。実は今朝、元通りに…」
 言いながら、手の平を見せようとおずおずと机の上に出そうとした。が、それを遮るようにしてカカシが言葉を吐く。
「…手の血――オレも、見えてる」
(えっ…)
 だがすぐに(カカシは自分を担いでいるのだ。また弄んで楽しんでいる)と合点がいったイルカは、キッと上忍を睨んだ。力で抑え込まれるのならまだ諦めもつくが、こんな悪ふざけも極まったような屈辱には耐えられない。
「…ばっ、馬鹿にしないで下さい。あなたに限って、そんなことがあるわけないじゃないですか! 中忍の俺を弄んで、そんなに面白いですかっ?」

 ガシャァァァ――ッ

 突如、イルカすぐ脇の大きな窓ガラスが、粉々に砕けて飛び散った。
「なッ?」
 突然の事に何が起こったのか皆目わからず、イルカは咄嗟に両手を顔の前に翳しながら、席から腰を浮かす。
 同時に生温かい湿った外気が、渦を巻きながらどっと室内に流れ込んできた。机の上にあった書類が一斉にめくれ上がり、バサバサと音を立てて浮き上がる。
 向かいのカカシは微動だにしていなかったが、先日嫌と言うほど感じた、あの背筋の寒くなるような冷たいものが、全身から勢い良く立ち上りはじめていた。
 その殺気の一部はイルカにも容赦なくぶつかってきて、半ばパニックになる。
(なっ、なにっ…?)
 明らかな身の危険を感じ、その場から逃れようとした時。
 カカシがその肩を掴み、椅子に叩き付けるようにして強引に座らせてきた。
 そしてバン、と大きな音をさせて机に両手をつくと、強引に座らせた自分とほぼ同じ高さの目線でぐいと目の奥を睨みつけてくる。
 上忍は視線を外さないまま、右の手袋をすぱっと脱ぐや、イルカの顔の真正面にゆっくりと翳して見せた。
(…え…)
 しかし、目の前に無言のまま突きつけられたそれは、特に何の変哲もない、強いて言うなら男にしてはややほっそりめの、白い手指にしか見えなかった。
「おっ…俺には、…見えま、…せん…」
 焦りの中に不意に不安が交じってきたような感覚の中、次第に語尾が小さくなっていく。
 上忍は「ふっ、……だろうな」とだけ言うと、クックッと喉の奥で笑い始めた。
 イルカはその姿を、固まったまま呆然と見つめた。


「――おい」
 イルカの目の前で両手を突いたままひとしきり笑った後、上忍がぼそりと言った。
「はっ、はいっ」
「お前の自由、貰ったと言ったが……もうどうでもいい。好きにしろ」
「えっ…?」
 イルカが小さく息を呑み、一度瞬きした時には、男の姿はもうそこには無かった。
 大きく割れた窓から、雨混じりの突風がどっと吹き込んだ。


 イルカは、カカシが立ち去った後も、暫らくその場から動けなかった。まるで体が椅子に縫い留められたようだった。
『もう、どうでもいい』
 去り際のカカシの一言が、自分でも意外なほどに心の壁にこびりついていた。これでようやく、手の血からもあの男からも解放されたというのに、なぜか片少しもホッとできなかった。心も一向に晴れていかず、灰色に曇っている。

 それでも外の風に晒されたせいか、少しづつ冷静さが戻りだすと、イルカは腰を屈め、足元に砕けて散らばったガラスの破片を一片、また一片と拾い集め始めた。
 あの男は自身の手が血に染まって見える、と言っていた。隠すどころが俺に見せつけようとしていた。本当だろうか? 本当に彼の手にも血が見えているのだろうか?
 何度も同胞である自分の首を絞め、生死を握ったとまで言っていた男だ。確かに遊ばれている可能性はとても高い。
 なのに『からかわれてるんじゃないか?』という思いは、いつしか小さく萎んで消えていた。

 拾い上げる硝子の破片は、どんなに小さな欠片も皆、悲しいほど透明だった。
 割れたガラスを拾い上げる、カシャリ、カシャリという音だけが、室内に虚ろに響く。
 その破片は割れやすくて脆いくせに、どこもかしこも酷く鋭利で、不用意に触ったイルカの手を何度も傷付けた。
 その度にイルカは手だけでなく、別のところもきり、と痛くなる。

 砕け散った破片を一枚一枚そっと拾い集めながら、透明な欠片の一つ一つに映し出される己の顔を、イルカは長いこと見つめ続けた。











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