村は何年もの間風雨に晒されていたとみえ、当初から粗末だったと思しきあばら屋は、どれも朽ち果てて傾いたり倒壊して、静かに雨に打たれている。

(まさか――逃げられ、た…?)
 アスマは相方と共に踏み込んだ村内に、何の気配もしない事を感じ取って訝しんだ。とはいうものの、この一帯のどこかを通って逃げたともどうしても思えないでいた。なのにここは、もう随分前から、時間以外は何一つ通り過ぎていないような、奇妙な静けさだけが広がっている。
 でも居ないものはいない。それもまた確かだ。
(どうにも気に食わねぇが、ここは一旦引いて…)
 びゅっ、という飛沫に風切り音の混ざった音が背後で聞こえたのは、その時だった。
「?!」
 何かを思うより早くその場から跳び退きつつ、最も早く防御可能な結界の印を切る。
 カカシもほぼ同時に逆側へと跳んでいるのが、視界の端に入った。
(どこだっ?!)
 アスマは素早く周囲を見渡し、雨音に耳をすませて注意深く気配を探る。
 相当の威力を持った何かが、我々二人に向けて放たれたのは分かった。しかし、それが一体何で、何処から飛んで来たのかが皆目分からない。
 少なくとも、見慣れたクナイなどでない事は確かだ。忍具の類なら、どんな勢いで放たれたとしても、とうに目視出来ている。
 間の悪いことに、雨霧が出始めていた。
 アスマは廃屋の陰に隠れると、移動しながら瞬時に気殺した。
 己の気殺には、絶対の自信があった。また、他人の気配を察知する能力は、それ以上にあると自負していた。
 しかし、自分の隠れていた廃屋の厚い土壁が、出し抜けに何かの衝撃によって大きくブチ抜かれた瞬間、辛うじてその直撃を避けながらも、己の鋭敏であるはずの感覚器官が一切通用しない相手なのだと悟った。
 まるで気配がしない。
 何によって攻撃されているかさえわからない。
「アスマ! 雨だ! 雨に隠れてやがる!」
 と、遠くの暗がりから、攻撃されているらしい衝撃音とカカシの叫ぶ声がした。
(雨だァ?!)
 天より振り注ぐ、雨滴の中に隠れる事の出来る忍。
(奴等、雨隠れの連中か…)
 一度も相まみえた事はないが、話には聞いたことがある。
(まずい時に、まずいヤツと当たっちまったな…)
 アスマは、これ以上自分の嫌な予感が当たらないで欲しいと、切に願った。

 雨忍の連中は、雨の降っている場所であれば、その姿はおろか、気配さえも一切消して近付くことが出来るようだった。
 あの衝撃は、降りしきる雨が寄り集まり、鉄飛礫の如くに形を変えたものだという事も、更に二度三度と避け続けているうちに分かってきた。機動力最優先のため、どうしても軽薄にならざるを得ない防護の結界など、この凄まじい威力の前では大した役にも立たないだろう。
 また、徐々に雨忍との間合いが詰まってきているらしい事も、狙いの精度が上がっていることから容易に推察できた。
 周囲の山の斜面からも音もなく煙のような薄雲が垂れ込めてきて、いよいよ視界が悪くなってきている。
 このままでは、もうそうそう何度も逃げおおせることは難しいと思えた。
 既に周辺にカカシの気配を感じることが出来なくなっている。彼が巧妙に気配を断っているだけならいいのだが、もしも遠くに引き離されてしまっているのなら、こちらが圧倒的に不利だ。
 ついさっきまでは、雨が自分達の気配をすっかり?き消してくれていたはずだ。にも拘わらず、今ではその雨によって窮地に立たされている。
(えぇい、畜生め)
 尚も激しさを増しながら曇天より降り続く雨滴を、アスマはことのほか鬱陶しいと思った。


 彼が何度目かの衝撃音をすぐ背後で聞き、即座に跳んだ時。
 右肩に激しい痛みが走り、堪らず前のめりに倒れた。あまりにも至近距離からの攻撃に、全てを避けきれなかった。残りの衝撃波は、向かいの廃屋の板戸に当たってそれを粉々に打ち砕く。
(次で、終わりか…)
 目の奥に、ちらと掠めた刹那。
 一際濃くなっていた霧の中から、出し抜けに二本のクナイが飛び出し、あらぬ方向に向かって疾った。
(?!)
 同時に細い呻き声が、倒れたアスマのすぐ目の前から聞こえてくる。
(なっ…?!)
 しかし、どんなに目を凝らして辺りを見回せど、人影などどこにも見当たらない。
 と、今まで雨が降っていただけのただの灰色の空間が、一部分だけ切り取られ、そのままずるっと横にずれたような、何とも不可思議な光景が映った。
 続いてそれが更に前のめりに倒れてくると、いつしかそれは雨の降りしきる濃灰色の空間から一転、一人の忍の姿へと変化していく。
 ばしゃりと水たまりに倒れ伏し、最早微動だにしない男の首筋と脇腹に、クナイが深々と突き刺さっているのが見えた。
(…霧隠れの、術…)
 雨霧に乗じて霧隠れの術で忍び寄ったカカシが、アスマを攻撃した雨忍の居場所を突き止め、倒していた。
(カカシのヤツ、オレを囮に使いやがったな…)
 内心舌打ちしつつも、その鮮やかな手口にアスマは舌を巻いた。



 もう一人居るはずの雨忍の攻撃が、ピタリと止んでいた。
 下手に動くと自分の居場所が知れ、霧に襲われると悟られていた。
(持久戦になるな…)
 アスマはマントの内側を自身の血で汚しながら、廃屋の軒下へと倒れ込んだ。カカシのお陰で命拾いをしたのは確かだが、奴のお陰で囮役しか出来なくなっていた。
(――たく…)
 ぜいぜいと荒い呼吸をするたび、白い息が雨の中へと漂い出ては消えていく。
 それを見ていると無性に煙草が吸いたくなったが、今は懐からそれを取り出して火を付けるという行為すら、難儀しそうだった。
(カカシ……オレはもう、そんなには待てねぇぞ…)
 ざあざあと強く、時に弱くなりながら降り続く雨と、濛々と立ちこめながら絶えずその形を変えていく、まるで生き物のような濃霧を見つめた。


 じりじりするような時間が流れていく。
「…………」
 アスマがふと見知った気配に振り返ると、いつのまにか背後に銀髪の男が佇んでいた。
 防水マントの端から、ぽたぽたと水滴が滴っている。
 色違いの両の瞳は、相変わらず不敵に爛々としていた。
「おうよ、どうした。一時休戦か?」
 鳶色の瞳が、男を見上げながら訊ねる。
「ふん…もう奴の術なんてとっくに見切ってる。どっからでも来やがれ」
 言うと、カカシはアスマのまだ動く方の腕を取った。
「立てるか?」
「――あぁ…でももうそんなには保たねぇ」
 カカシがそのまま引き起こそうと、腕に力を入れた時。
 彼の被っていたマントのフードが、銀色の頭ごと吹き飛んだ。
(かかりやがった!)
 アスマは大きく脇に飛び退く。
 頭を飛ばされたカカシは、どさりと音を立てて倒れると、一塊の白煙となって消えた。
 それは、アスマの影分身が変化をしていたものだ。
 自分の作った影カカシ相手に、アスマは一人芝居をしていた。
 殆ど間髪入れずに、白い霧の中からカカシのクナイが飛ぶ。
 と、黒い背後の森と雨だけのはずの空間が、まるで人型に切り取って横にずらしたように不自然に動いた。
(やった、か…)
 しかし、人型は時折闇と雨に同化して掻き消え、また再びわずかに潜みが解けては、不自然にずれた空間を作り出し続けている。
 どうやら雨忍は致命傷を免れたらしく、何とか持ちこたえていた。
 と、突如、模糊として白いだけだった濃霧の一ヶ所が、眼底を焼き尽くすような眩しい光を放ち始めた。
 真っ白に輝く爆発的な量の光が、霧の薄い部分から周囲に向かって八方に突き抜けている。
 ビリビリと冷えた大気を震わせる、その独特の振動音。
 アスマにとっても馴染み深い、その大技の気配。
(カカシ…?!)
 だが、そこに居るはずの術者の姿が見えない。
 霧から飛び出した白い光の塊は、無数の雨粒をぎらぎらと目映く照らしながら、一直線にずれた空間に向かって疾る。
 ずしゃっという鈍い音が、雨音の中に響いた。
 直後一体の人影がいびつになった空間からよろめき出てきたかと思うと、ばしゃり、と倒れ伏す。
 その男の体に、頭部は無かった。


 真っ白な光塊は、生まれた時と同じように出し抜けに消え、その空間を暗と雨音が元の通りに埋めてゆく。
 やがて雨と霧のカーテンの中から、いきなりカカシがぬっと姿を現した。
「――オレがお前を、あんな風に気遣うワケがないだろうが」
 クサイ芝居にかかりやがってと毒づきながら、カカシは一撃で飛ばした雨忍の首にかかっていた真っ赤なチェーンを拾い上げた。
 そのままほらよ、と軒下に座り込んだアスマに無造作に投げてよこす。
「お前、今霧から出ても姿が見えなかったぞ」
 クサイ芝居と言われ、苦笑しながらチェーンを受け取ったアスマが、懐の煙草をまさぐりながら言う。
「最後に、こいつの手元が見えたからな」
 雨忍の術をコピーした、とカカシは言った。
 例えどんな状況にあっても、どこまでも貪欲にひたすら術を奪い続ける男だ、と今更ながらアスマは思う。最早それは理性などではなく、本能のなせる業としか思えなかった。
 ようやく取り出すことの出来た煙草には自身の血がじっとりと染みていたが、構わず火を付けて大きく吸い込んだ。味は当然酷いものだったが、その一服にはそれを補って余りあるものがある。
「そんな暇があるなら、さっさと造血丸飲め。戻るぞ」
 カカシが脇で急かしてくる。
「ふっ、囮代だ。有り難くとっとけ」
 取り合わずに大きく吸い込んだ。確かに傷の痛みと疲労感はかなりのものだったが、誰が何と言おうと、例え地獄の閻魔を前にしたとしても、このひとときだけは譲れそうにない。
 鉄臭い味に閉口しながらも、一本の不味い煙草を不味いと思えるこの束の間を、アスマは静かに噛み締めた。



 雨音に包まれたまま、森は薄灰色の朝を迎えた。
 暫くは梃子でも動きそうにない様子の髭面の男に、カカシも一度は舌打ちをしたものの、渋々軒下に入るや指無しの手袋を取り、壊れた屋根の樋から溢れ落ちる雨水で、血に濡れた手を洗いはじめた。
(……?)
 しかし、どういう訳か両の手の鮮血が全く落ちていかない。
(…?)
 再び強く手を擦り合わせる。
 だが白い手の平一杯に真っ赤に広がったその色や形には、何の変化も起こらない。
 更にもう一度擦り合わせる。
「―――…!」
 カカシの双眸が、次第に大きく見開かれ始めた。
 そして最後に、確認するようにもう一度、ゆっくりと手の平を擦り合わせ、広げる。
(――…手に付いて…取れない…血…?!)
 立ち尽くしたまま、両手を食い入るように凝視した。
「どうかしたか?」
 背後で煙を吐いていた男が問う。
「――ふっ…いいや…クク…どうもしない…」
「あァ?」
 アスマが驚いてその後ろ姿を凝視する中、カカシはそぼ降る雨の中へふらりと踏みだした。すぐに防水マントの縁という縁から、赤い雨水が滴りだす。
「…ふふふッ…何でも、ない…ククク…!」
 カカシの脳裏一杯に、長い睫毛に縁取られた黒々とした瞳で、真っ直ぐにこちらを見上げてくるあの男の顔が映る。
「…オレにも……クックッ…こりゃ、傑作だ! …アハハハ…!」
 男が体をよじって大笑いするたび、真っ白な息が夜明けの廃村にたなびいては消えていく。
「…そうか、このオレが……アッハハハハ…!!」
 遠くの廃屋や大きな森の輪郭が、霧の向こうに朧に浮かび上がってくる中、カカシは両手を見つめ、よろめきながらひたすら笑い続ける。
 マントのフードは肩に落ち、彼の髪を、額を、唇を、左目の傷を、そして白い頬を、幾筋も透明な滴りが伝い落ちる。
 高い笑い声は雨音と重なり、背後の深い森へと吸い込まれてゆく。

「…………」
 冷たい春の雨に濡れそぼりながら、両の手の平を見ては狂ったように笑い続ける男を、アスマは紫煙をくゆらせながらただ見つめた。











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