樹海深くまで吹き込んでいた北風が、先程から西風へと変わりだしている。
 アスマは、待ち合わせ地点で合流したことで静かに始まったカカシとの任務も、どことなくいつもと違う空気を孕んでいるように感じていた。
 今回のような『密入国してくる抜け忍を狩る』などという任務は、それこそカカシの本領発揮というやつである。
 内心は手っ取り早く済ませてさっさと帰りたいアスマの事など一切お構いなく、カカシは敵の一人一人に対し、執拗に戦いを挑んでは散々に翻弄する。
 そして最終的に相手の持ち技の最高レベルのものを発動させてコピーした後、確実に始末していく。
 勿論、アスマはそういうカカシのやり方を充分心得ていて、決して水を差すような事はしない。
 徹底してサポート役に回ることで、死体の後始末にはまるで興味を示さないカカシをフォローし、背後から任務の完遂を支えていた。
 カカシは一旦任務に没頭しだすと、その凄まじいまでの集中力からまずミスを犯さない。よって彼独特の嗜好と、何百とある戦闘パターンがある程度まで読めるようになれば、アスマ自身も他の上忍達と組むよりは、カカシと組んだほうが任務自体も遥かにやりやすかった。
 また、カカシ自身も口に出してこそ言わないが、自分のやり方を熟知していて辛抱強く後方支援に徹するアスマとの任務が、最も自分が戦いに没入できる都合のいい男だという事は認めていた。
 いつもは、そうだった。
 しかし、アスマは今日に限って、何とはなしにカカシの様子がおかしいような気がしていた。
 向かいでは、黒い防水マントを羽織った銀髪男が、大木の横枝にうずくまって「その時」が来るのを待っている。
 こんな時、いつものカカシなら、これから始まる待ちに待った瞬間の到来にすっかり戦闘態勢が整い、遥か何手も先まで読みながら、そのめくるめく世界に、髪の先まで埋没しているはずだった。
 だが、今日はその男がいつになく集中出来ていないような気がした。気殺は完璧なものの、時に一瞬だが視線が脇に泳いだり、マントの下の手指が無意識に意味もなく動いていたりと、僅かだが集中力が散漫になっていることを伺わせている。ひょっとすると、まだ当の本人すら気付いていないかもしれない。
(まぁそれならそれで、敢えて指摘して刺激する必要もないか)とアスマは思ったが。
(もしかして…、昨日の事が気になってる…?)
 そこに思い至ると、何やら急に小さな胸騒ぎのようなものを感じた。
 おおよそ戦うこと以外では、決して他人に興味を示さないはずの男が、唯一接触を試みたらしい中忍。
 確かイルカといったか。
 カカシがあの中忍の何に興味を持ったかは知る由もないが、もしもこの男の変化が彼との接触によりもたらされたものなら、今後のカカシの行動に気を配る必要があるのではないか?
 あの中忍とカカシは、たとえ同じ里の忍であっても、決して相容れることの出来ない、全く別種の生き物だ。
(まさかとは思うが、これ以上の接触があの中忍だけでなく、ひいてはコイツ自身の命をも危険に晒すことに…なったりしねぇだろうな…)
 アスマは朧気に思った。



 陽は厚くたれ込めた雲に遮られ、その姿を見ないままに朝を迎えようとしていた。
 空気はいよいよ匂いながらじっとりと重く、雨がすぐそこまで迫って来ていることを教えている。
 他国の抜け忍らが数名、火の国の一角の廃村となった場所を拠点に活動をしているらしい、という情報が舞い込んで来たのは数日前のことだ。
 二人が呼ばれ、早々に一味の拘束、もしくは排除を命じられたものの、詳細は不明なままだった。連中の出里はおろか、その正確な数さえも把握出来ていないと言う。
(まぁ何人居るかなんざ、最後に手元の認識チェーンの数を数えりゃいいだけの話だが)
 二人はこの手の、ともすれば恐ろしく面倒な事にもなりかねない厄介な任務が最もよく回ってきがちだったが、今更相手の詳細が不明などと聞かされても、何の不安も沸かなかった。
 カカシなど、待ちに待った久し振りに高揚感の味わえそうな任務にほくそ笑んでいたくらいだ。
 少なくとも、昨日の夕方までは。



(――五月蠅いな…)
 昨夕、あの中忍を締め上げ損ねてからというもの、カカシは己の中のもやもやとした出所不明のものに幾度となく煩わされていた。それは何度無視しようとも、ふと気付くとどこからともなく薄ぼんやりと湧き上がってきていて、冷静な思考を邪魔しようとする。
 アスマが『手の血なんてどこにも見えない』と奴にバラしたであろう事も面白くない。
 あの男の死命はオレが握っているのだ。オレだけが、奴の百行を左右出来るのだ。
(勝手な真似を…)
 帰ったらもう一度奴に、あの中忍に教えてやる必要がある。そうすればこの鬱陶しい模糊としたものも、きれいさっぱり無くなるはずだ。
(分かったなら、失せろ)
 心の中で俯き、深いところで目を閉じた。






 樹海の片隅にある、うち捨てられてから随分と歳月を経てきたと思われる小さな廃村。
 その村内を一望出来る大木の樹上に、二人の上忍は片膝を折った格好で潜んでいた。
 廃村とその周辺で、あるか無きかの疾走痕を調べた限りでは、抜け忍の数は全部で四人。ただ痕跡の古さからするに、半数の二名は少し前にこの一帯から離れてしまっていると推察出来た。そちらの連中に関しては流石に行き先までは分からないため、後日の情報待ちとなるだろう。
 だが残る二人に関しては、まだこの付近をうろついていることが見て取れた。一人は大柄で大胆、もう一人は小柄かつ慎重な忍だ。
 そのごく微かな痕跡を見つけてからというもの、再び獲物が村に戻ってくるのを、アスマとカカシはもうかれこれ二刻近くもじっと待ち続けている。
(――…?)
 そんな中、完璧だったはずのカカシの気殺が急に薄くなった気配があり、すぐさま側にいたアスマが、目だけで男を見やった。
 間髪入れず、うずくまっているカカシがぎらと睨み上げてくる。その右目は明らかに『オレに構うな』と言っている。
「お前よォ、さっきから何考えてる?」
 その警告を無視して、アスマが低く声を掛けると。
「黙れ、お前から始末するぞ」
 低く鋭い言葉の刃が、間髪入れずに突きつけられた。
(……やれやれ)
 これ以上この男を刺激しても、何ひとつ良い方向には進まないと判断したアスマは、そのまま黙って男から視線を外す。
「…………」
 怒りの矛先を無くした男は、渋々ながら殺気を収めると、再び自分独りの世界へと戻っていった。



 半刻後。
 無言で「その時」を待つ二人の空間に、ついに雨が落ちてきはじめた。
 鼠色の天から、はじめは弱く小さく、しかし徐々に大きな雨粒となって、ついには村や周辺に広がる木立を包み込みながら、容赦なく降り注ぎ始める。
 最初は大木の葉陰になったことで濡れることを免れていた二人の防水マントにも次第に雨粒が当たりだし、いつしかその上を次々と大粒の水滴が叩いては滑り落ちていく。
 やがて巨大な森全体を、轟々という雨音が包み込みだすと、ただでさえ気配の希薄だった二人の存在は、完全に廃村と同化していった。





(――来た)
 マントのフードを目深に被り、幹にもたれて目を閉じていたアスマがその鳶色の瞳を開くと、既に脇の男は全身の筋肉をきりきりと撓(たわ)めて、いつでも飛び出せる臨戦体制に入っていた。
 暗がりの奥にちらりと垣間見えた紅い左目は冴え冴えとして、微塵の揺らぎもない。
(杞憂だったか…)
 アスマはフードの陰で、たっぷりとした髭に覆われた片頬を僅かに持ち上げた。

 疾走痕から推察していた通り、近付いてくる気配は二つ。
 この雨の中にしては上手く気殺しているようだが、生憎とこちらの感覚器官の方が遥かに鋭敏だ。
(――カカシ、今だっ)
 絶妙の間合いを気配だけで計ると、一切の言葉を交わさぬまま、二人は敵忍を挟み打ちにすべく、同時に樹上から飛び出した。
 はずだった。
(……? なんだァ…?)
 アスマは雨の中で立ち尽くした。
 間違いなく連中の前後に飛び降りたはずが、幾ら周辺を見渡しても、人影らしきものはそこに見当たらなかった。つい今し方まで感じていたはずの気配も、まるで嘘のようにきれいに消え去っている。にわかには信じられないことだが、先手を打ったつもりが、いち早く気付かれていたのだろうか?
(とすると、この先の廃村に逃げ込んだ…か)
 二人はチラとだけ目線を合わせると、無言のまま村の奥へと歩を進めた。












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