「――今のって…、どういう意味ですか? カカシさん」

 くノ一の気配が感じ取れなくなった頃。
 今し方まで座っていた簡素な椅子に、再び腰を下ろしたイルカが問いかけた。だが薄い病衣に包まれただけの、口布も額当てもしていない上忍は、今の騒々しい気配にも眉一つ動かす様子はない。
「きれいな人でしたね。――もしかして…恋人?」
 居ても全然不思議じゃない。でもあんな冷淡な物言いをする人が…恋人…?
「でも思い切り振られちゃいましたよ? カカシさん、ちょっと格好悪いです…って、あはは、怒りました?」
 しかし男はひたすら真上を向いたまま、自分のからかいを無視し続けている。
「ねえ、あんな風に一方的に言われて、頭に来ませんか? きますよね? そうですよ、口惜しかったらまた前みたいに思い切り怒ればいい」
 話しているうち、何だかこっちまでだんだん腹が立ってくる。
(二人の間に何があったのか知らないけど、何で俺がそこまで言われなくちゃいけないんだ! ムサいなんて本人が一番よく知ってる。余計なお世話だ!)
「出来ないんですか、意気地無し!」
 床に伏してる人に対して言いすぎだぞ、と頭の隅では思いながらももう止まらない。
「それでも上忍ですか? 里を背負って立つ忍ですか?」

「……なんだと?」

(ひ…っ?!)
 出し抜けに目の前の男の唇が動いたかと思うと、掠れているけれど耳に馴染んだ声が返って、イルカは息を呑んだ。
「カカシさん?! カカシさんっ! カカシさんッ!」
 何度も何度も男の名前を呼びながら、枕元の呼び出しブザーを壊さんばかりの勢いで夢中で押し続けた。


   * * *



 どこか珍しいものでも見るような感じでぞろぞろと詰めかけてきていた忍医達が、やがて潮が引くように居なくなると、再び白い四角い部屋に静けさが戻ってきた。
 寄ってたかって体中をいじくり回され、ようやく放り出されるようにして解放された銀髪の男が、部屋の隅に立ち尽くしているイルカの方を見ないまま、至極不機嫌そうな声を上げる。
「いつまでそんな所に突っ立ってる」
 その一言ではっと我に返ったらしい中忍が、傍目にもそれと分かるほど何度も内側で逡巡しだした。――かと思うと、酷く言いにくそうな面持ちを隠すことなく、真っ直ぐに訊ねてくる。
「その……まだ手の平に、見えてますか?」

「あぁ」
 カカシは視線をゆっくりと下に落とすなり、短く答えた。


(ひょっとして死の淵を垣間見たことで、何かしらの変化があったりはしないだろうか?)
 心密かに期待していたイルカの思いは、潰えた。

「別に、構わない」
「ぇ?」
 男の思わぬ言葉を耳にしたイルカは、痩せて憔悴してはいるものの、依然としてよく整った上忍の顔を見つめた。
「是が非でも消さないといけないものでもなし」
「ゃっ…」
「むしろオレには、死ぬまであったほうがいい」
「…………」

「一生かけて、向き合っていく定めならね」
 カカシはそう言って、自身の左手の平を、節の浮いた右手指でそろそろと撫でた。その仕草は忌々しくて消したいというよりは、どこか愛おしいものでも撫でているかのように見えた。

(カカシ、さん…)
 自分の耳には、その白く長い手指からはさらさらという乾いた音しかしなかったが、彼にはどう聞こえているのだろう。
 深く、静かに思った。


「要らない」
 イルカがベッドの脇に置かれていた黒い皮手袋を手に取ると、カカシは首を横に振って、部屋の隅のごみ箱を顎で示した。
「今更隠すつもりもない。例え他人からは何も見えてないと分かっててもね」
「いいえ、捨てません。使い続けて下さい」
 イルカはすぐにきっぱりと言い切った。
「これからも今まで通りのカカシさんで居て下さい」
「ふっ、お前をいきなり絞め上げるようなか?」
 上忍は弱々しく鼻で嗤った。
「ええ。何一つ変わらないでいて下さい」
 中忍はくっきりとした目元で真っ直ぐに上忍を見た。
(あなたはこれまで通り、あなた自身で自分を守っていくんです)
 その銀色に光る髪の一筋、その白い手指の爪の先に至るまで。
「怯えて隠したり、意地を張って無理に見せたり…そんな風にただ外見を変えてみたところで何も変わりはしません。だって手の平の血は、常に俺達の心の中にあるんですから。だったらカカシさんは、今まで通りのカカシさんでいるべきです」


「――遅いな」
 あるか無きかの沈黙の後、カカシが呟いた。
「ぇ?」
「もう遅い。何一つ元になど戻らない。お前も同じものを見たのなら分かってるはずだ。――もう何も、今まで通りになどいかないとな」
 そう、自分はもう二度と、以前のような『完璧な』忍には戻れないだろう。
 暗がりで生きる己の未来など、何一つ見えるはずもないけれど、なぜかそれだけははっきりと分かった。

「……そうですね」
 僅かに俯いたイルカの眉がくっと寄り、困ったような表情になる。膝の上に乗せられた両の拳を白くなるほど握り締め、何かしらの言葉を懸命に探しているらしい唇が、何度も噛み締められる。

(愚かな…)
 カカシは内側に溜息を落とした。
 同じ体験をしているからというだけで、自分以外の者のためにそこまで思い煩うなど。
 この先、手に付いた血に煩わされたために命を落とすことになったなら、本人の実力がそこまでだったというだけのことなのに。
 けれどそう思っても、不思議と以前のように苛立つことはなかった。それどころかじんわりとした温もりのようなものを感じて、内心で軽い戸惑いを覚える。

(――自分以外の、誰かのために…)

 もう一度内側で繰り返すと、生まれて初めてその言葉を聞いたかのような、新鮮な響きを感じる。
(この血は……『それだけは、何があっても決して忘れるな』ということか…)
 カカシは、己の両手を見下ろした。

「お前」
「は、はい?」
「さっきはオレに、随分なことを言ってたみたいだが」
 ごく軽い殺気を込めてみる。
「ぁ…あはっ、聞こえてました? すみません」
 深刻な顔をして俯いていた中忍の表情が一転、ぱっと明るくなった。
「ふん、わざと聞こえるように言ったくせに」
 カカシは、気持ち大袈裟に口端を吊り上げてみせた。

 自分以外の、誰かのために。




「さっきの言葉、忘れるな。必ず何倍にもして返してやる」
 一礼して病室を出て行こうとするしゃんとした後ろ姿に投げつけると。
「その意気ですよ。でもこれからは俺も、一方的にやられたりはしませんから、そのおつもりで」
 相変わらず生真面目な中忍は、馬鹿正直に言葉の表面だけ受け取って返してくる。
「いいだろう。明日また来い。すぐにも撤回させてやる」
「ははっ、嫌ですよ。次にお会いするのはアカデミーで報告書を受け取る時です」
 男は明るく笑いながら、ふわりと流した。けれど急にそれまでの軽やかな空気を翻して、真顔になる。

「早く、良くなって下さいね」


「――あぁ」



 病室のドアが静かに閉まると、カカシは枕元に置かれたままになっていた手甲の付いた革手袋を、片方そっと手に取った。
 そしてそれをまだ少しおぼつかない手付きで左手にはめると、まるで懐かしいものでも見るような目で、ゆっくりと眺める。

(『オレ達の、心の中に』……か…)

 カカシはその手を傷のある方の瞼にそっと宛がうと、ほんの僅か、きれいな形の唇を持ち上げた。






                    「手についた血」  了



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