「――あの、何か…?」

「今、いいか」
 その日、何の前触れもなく近付いてきた上忍の、髭面の中にある難しい表情を見た途端、俺はどういうわけか(もしや、あの人が…?)と直感的に思った。里を代表する最強の上忍を浮かべ、なぜ急にそんな風に思ったのか、自分でもよく分からない。
 そしてその嫌な予感は、寸分も外れてはいなかった。彼は自殺行為にも等しいとんでもない無茶をした挙げ句、心肺停止のほぼ死んだも同然の状態で、草むらに倒れていた所を発見されたという。ただ、捜索していた面子の中に優れた医療忍者がいたことで、辛うじて蘇生して搬送され、今は病室で一人昏々と眠り続けているらしい。

(でも…いつこと切れてもおかしくない状態だなんて…)
 俺は大きな鉛の固まりでも無理矢理呑み込まされような気分で、病院への道のりを急いだ。別れ際にちらりとだけ見た男の髭に覆われた横顔が、道中の不安を一層煽っていた。
 道々(そんなこと言ってるけど、病室のドアを開けたらまた凄い勢いで首を締めてくるんじゃ…?)などと、与えられた情報の否定もしてみたが、つかえたものが取れることはなかった。

 受付で何度も頼み込み、何とか病室への入室が許されたものの、あれほど烈々とした気を纏っていた男が一体の人形のようになって白いベッドに寝かされている様に、予想以上に胸を掻きむしられた。
(自殺行為って…なんで…)
 でも他でもない自分だけには心当たりがある。そのことが尚更辛く、やるせなかった。
(もしかして…)
 この最悪の状況を途中で回避出来る者がいたとしたら、それは自分だったのではないか? そんな思いが頭の中を渦巻いていて、どうしても振り払えない。
「なんで、何で話してくれなかったんですか? 力に訴えて黙らせてばかりじゃ、なんにも分からないじゃないですか!」
 自分の問いかけだけががらんとした病室に響く。
「……カカシ、さん…」
 表情に乏しい、言葉数の少ない男だった。だが今なら分かる。彼はいつも、どんな時も何事かに深く、強く囚われているがために、より一層無口になっていたのだと。
「…でも……でもこんな無口は…、いやですよ…」
 今までだって何一つ通じ合ったことなどなかったけれど。
 そのままでいいなんて、とても思えない。



 それからというもの、俺は毎日一度は「無口な」男を見舞うようになった。
(少しだけ、ほんのちょっとだけ、見せて貰いますよ?)
 見舞い初日は不安に駆られて、心の中で何度も断りながら、掛け布団の端をそっとまくり上げた。大怪我をしたと聞いていたが、左手に関しては特に損傷はないようだ。詰めていた息が思わず小さく漏れる。
 でもどうしても気になることがあって、ズボンの脇でゴシゴシと手を拭くと、体に沿うように置かれている左手にそろそろと触れた。初めて触ったカカシの細長い手指は、変に緊張してしまっている自分のそれより遥かに冷たく、たったそれだけのことに訳もなく心が痛む。
 一寸ためらったものの、恐る恐る手の平を上に返した。
(――きれい、か…)
 でもそれは、『自分の目には』きれいに見えたに過ぎない。
 またすぐに、やり場のない不安が頭をもたげてきてしまう。
 しかも自分が何度見舞いに出向こうとも、白いシーツの上に前日と全く同じ状態のまま横たわっている彼を治せる訳でもなければ、代われる訳でもなく。
 行く度に無力感と戦いながら、最終的に見舞った際の定番となっていったのは、彼の側に座り、彼の顔を見つめながら、彼との記憶の一つ一つをもう一度辿っていくという、ごくありきたりの……けれど自分にとっては何より大事なことだった。

 やがて何の返事もしない彼を前に、一人で話すことも抵抗無くなってくる。

「――カカシさん、これだけは言えますよ。……親を殺され、友を殺され、なのに見ず知らずとはいえ人を殺すことを求められて、何も感じない人なんて絶対にいません」

「――――」

「俺達忍は、その苦しみに耐えきれなかった時に心が割れることで、何とかこの世に踏みとどまっていられるんだと思います。もし心が割れなかったら、その大きな矛盾は矛先を変えて、自分自身の体を割りにいきますから」
 まだ未だにうっすらと傷跡の残る腕を、服の上からそっと押さえる。
「でもね、心が二つに割れて『人を殺すこともやむなし』とする心と『駄目だ、なぜ殺さなくちゃいけないんだ』っていう心がぶつかり続けるのも、それはそれでとても苦しくて耐え難いことなんですよね。幾ら自分自身を守るためとはいえ」

「――――」

「それに心が幾つに別れたとしても、結局自分という人間は一人しかいない。二人や三人にはなってくれないんです。――きっと、そんなぶつかり合いの辛さにいよいよ心が耐えられなくなった時、手に……見えてくるんだと、俺はそう思います」

「俺、何となく分かる気がします。カカシさんは、今まで心が壊れてしまわないように、ずっとずっと細心の注意を払ってきてたんですよね?」
 父親を亡くした不幸な経緯から、心が壊れる事の恐ろしさを身をもって知っていたから。
「でもどうしてですか? なんで今になって急に…?」
 これまで特に病むこともなく、膨大な数の修羅を潜って来れていたのに、何が切っ掛けでつまずいたというのだろう。
「いつか話せる時が来たら、聞かせて下さいませんか?」
 動かない銀色の睫毛を見つめた。




「…俺ね、カカシさん」
 
 もう何回目の見舞いか判然としなくなってきた、ある日の午後。
「俺ね、手に付いていた血って、自分が今まで手にかけた人達の血なんだと、ずっと思ってました」
 病人の前なのに、こんな話題よくないぞと思いつつも、急に堪らなくなってきて吐き出した。
「でも…、違うのかも」
 自分の膝の上に置かれた両の拳が白く震えるほど拳を強く握った。
「あなたを見てたら、……ふと、そんな風に思えてきて…」

「――――」

「疲れましたよね。…もう、…起きたくないですか…?」

 その日はそれ以上話しかけることが出来ず、席を立った。




 毎日彼の元に行くようになって気付いたことだが、自分以外で彼を見舞う者は、たまにふらりと訪れるアスマを除けば誰一人としていないようだった。
 勿論そんな理由で見舞いに行くことに迷いが生じることはなかったが、本人不在の合間にも次第にはっきりと浮かび上がってくる彼の輪郭には、思っていた以上に陰の部分が多いようだった。
 あぁそうだ。一人だけ病室で会うには会ったけれど、あれは見舞いに来たとはとても言い難かったと思う。

 その美しい上忍のくノ一は、かれこれ一週間以上も昏々と眠り続けるカカシを見下ろした途端「あーこれじゃあとてもダメね。二度と使いものにならないわ。もうちょっといけるかと思ってたけど案外情けなかったわね」と事もなげに言った。
「どういう意味ですか。そんな嫌な言い方しないで下さい!」
 幾ら知り合いだからって、開口一番そんな言い草はないだろう。その時は確かにムッとして言い返したけれど、特に凄んだつもりもない。でも彼女は自分のことを突如として遠慮のない冷えた目でもって一瞥するや、赤い唇を片側だけ吊り上げた。
「――あら、もしかしないでも、アンタも御同輩ってやつね? ふふふ…こりゃ傑作だわ。いつの間にか自殺志願の弟が出来ちゃってるとはね」
「…?! どういう、意味ですか?」
 全く意味不明なのに、とても嫌な感じで引っかかってくるその言い草に、自然と眉が寄る。
「どうもこうも。アンタもシメて貰ってたんなら分かるでしょ。でももうこの男にそんな力はないわ。さっさと見限って次探した方がいいわよ」
「なっ…」
「トボケでも無駄。あなた私とおんなじ匂いがしてるもの。でもまさかこの人が、あんたみたいなムッサい男まで相手にしてたとはね。いつから宗旨替えしたのか知らないけど、なんかこっちが馬鹿馬鹿しくなっちゃったわ」
 そこまで一気にまくし立てるや、上忍のくノ一は高く上がった踵でもって白い床を蹴りながら、あっという間に部屋を後にした。











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