ふとした瞬間、ある事に気付いて嗤ったからといって、酷く傷付いた肉体の何がどう変わるわけでもない。むしろその間も絶えず出血し続けていた体は、もう二度と後戻り出来なくなってきていることをしきりに伝えてきている。

(――ハ…。何もかも……遅いっての…)
 次第に朦朧としていく意識の中で、ひたすら酷い悪寒にうち震える。
 なのに横倒しになった視界の端では、名も知らぬ大木に緑色の小鳥が留まって、盛んに薄紅色の花を啄んでいる様がいやにはっきりと映っている。その小さな嘴で散らされた若葉や花びらは、時折自分の上へとはらはらと舞い落ちてくる。
 まるでからかっているように。
 或いは何処かへと、送り出しているかのように。

 カカシは、何者からも決して脅かされることのなかった「はたけカカシ」という不壊(ふえ)の存在が、今や刻一刻と体の下の枯れ草や、頬を擦りつけている土くれと同じものになりつつあることを、はっきりと悟った。


 肩を激しく上下させる獣のように荒々しかった息が、だんだんと弱く静かになってくる。つい今し方まで可笑しいほど震えていた体は、もうその力さえ失って沈黙しかけていた。
(…まて……もう少し…ま、…てよ…)
 それでも口端を片方だけ吊り上げながら、とうに言うことを聞かなくなっている氷のように冷たい手指を、懐まで引きずっていく。そして内ポケットの奥で微かに指先に触れたものを掴み、更に長い時間をかけて口元へと運んだ。

 乾ききった枯れ枝のような喉がようやっと飲み下したのは、いつだったか色街の外れで偶然会った女から奪い取った、数個の丸薬だった。
『守の瞼』だったか。
(…ふ…、いまさら神も仏もあるものか…)
 最期に口にすることになったものの名に嗤う。
 しかもこいつは、副作用も分からぬような粗末な闇薬ときている。
「この非常時にこんなものを、しかもあるだけ全部飲んだだと?!」と、後にオレの死体を隅々まで切り刻んで調べ上げるであろう医忍どもが驚き戸惑う様子が、暗い瞼の裏にありありと浮かぶ。その後懐からは造血丸や止血剤、鎮痛薬の類もぞろぞろ出てくるだろうが、手を付けた形跡は一切見つからないのだ。
(――ざまぁみろ)
 誰にともなく思った。


『自分が見たいと思ったものだけがはっきりと見え、見たくないものは自然と見えなくなる』
 それが女の言っていた薬効だ。悪くない。むしろどんな時も我を通し続けてきた男が、最期に飲むに相応しい薬だ。
 ただ一つ惜しむらくは、服用するのが少し遅すぎたらしいことだった。
(――ふっ……だめ…か…)
 最早何かを見たくとも、目を開けていられなかった。視界はうすのろな重い瞼によってぴたりと閉ざされて、夜より尚暗い世界に、平和そのものといった様子の数羽の小鳥の囀りだけが響いている。
(ならいい。さっさと終わってくれ)

 一体自分は何が見たかったのか。
 それすら分からぬまま、カカシは瞼の奥で、もう一つの瞼を閉じた。







 『死を目前にしたその瞬間、過去の記憶が走馬燈のように駆け抜けていく』などとまことしやかに言われているが、全て嘘だと思った。
 そんな下らない記憶など、欠片も過ぎらなかった。
 その代わり、芽吹いたばかりの若草がすぐ目の前で風に揺れて棚引いているのが見えて、カカシは暫くの間、定まらない焦点のままぼんやりとそれを眺め続けた。
 周囲は一点の星明かりすらなくみっしりと黒で、さらさらという耳慣れた葉擦れの音や、むんと立ち上ってくる土の匂いが、自分が背高い草葉の陰に倒れ伏しているのだということを教えている。
(夜、か…)
 それとも茫漠たる闇が永久に支配する、別の世界か。
 今となっては最早どちらであってもいいだろうに、未だに無意識のうちに状況を正確に把握しようとしている自分に自嘲する。
 と、また急に己の手の平が気になってきて、今一度確認してみたくなった。
(こんな時でも、まだあのことを気にかけているとは。全くどうかしている。手など今更どうだって構わないものを…)
 一方では確かにそう思っているはずなのに、もう一方の自分はどうあっても見てみないと気が済まないらしい。
 だが意外なことに、先程まで全く言うことを聞かなかったはずの腕は、いとも簡単にふわりと動いた。
(…あぁ、そうだったな)
 なのにその余りにも軽すぎる不自然な動きにも、特に疑問や違和感を感じなかった。どうやら自分は、『刻一刻と変化しつつある状況の変化を、無条件で受け入れるしかない存在』になりつつあるらしい。
 昼間、頭上で小鳥たちが戯れに散らしていた若葉が、体の上に沢山降り積もってしまっていた。自分はあれからどれ程の時間そこに倒れ伏していたというのだろう。葉や花びらはすっかり枯れ縮れて、まるで茶色い落ち葉の布団にでも埋もれているようだ。
 すっかり軽くなっている手を動かすと、それと共に体の上に降り積もっていたとばかり思っていた枯れ葉が、ごそりと一気に動きだす。
(あぁ……そういうことか…)
 気が付くと、いつしかオレはほんの小さな一匹の夜の虫――蛾となって、草葉の陰にひっそりと潜んでいた。見ようとしていた両の手はどこにも見当たらない。代わりにとても軽い銀鼠色の羽があり、小刻みにそれを振るわせている。
(飛べるのだな?)
 その状況にさして驚くでもなく、自分の中から唐突に沸き上がってきた考えなのに、確固たる確信を持った。羽なら生まれたときからそこに備わっていたとでもいうように、ごく自然な感覚で自らを覆っていて、何ら違和感はない。
 とその時、奥底から誰かの囁き声が聞こえたような気がして、じっと耳をすませた。

(――そうか、時間がないか)
 なにをそんなに急ぐ必要があるのかと思いつつも、オレは地を蹴ると同時に両の羽を力一杯広げた。



 視界は湿った地面を離れ、次第に高みへと昇り始めた。
 いや周囲は月も星もなく、上下の区別さえも付かないような消炭色の暗がりだ。本当は高く舞い上がった気がしているだけなのかもしれないが、それでも羽ばたくことを止める気にはなれない。
 ただひらすら、腕を…いや灰色の羽を上から下へと揺り動かす。
 だがそうまでして、自分は一体どこに向かおうとしているというのか? 分かっているようでいて、まるで分からなかった。気付けばあれほど鋭かった聴覚も、そして嗅覚までもがすっかり失われてしまっている。そんな八方塞がりの状態では、どんなに方向感覚が優れていようとも、この暗闇で目的地になど辿り着けるわけがない。
 それなのに両の薄い羽を動かすことを止められなかった。先の見えない暗がりを突き進むことなど全く怖くない。それよりも今は何の目的もないまま、ただ一箇所にじっとしている事の方が余程耐え難く、恐ろしいことのように思えた。
 カカシは、動きを止めたら最後、その考えに取り殺されるとでも信じているかのように、頑なに前だけを見つめながら風を切った。


(くそっ…)
 真っ暗な視界がぐらりと不安定に揺れ、ゆるく風を切っていたオレは内心で舌打ちをした。特にこれといった目的など無いまま飛んでいるはずなのに、急に焦りとも不安ともつかないものを感じ始める。
(このまま飛び続けるための余力は、もう幾らもない…)
 『時間がない』という声はそういう意味だったか、と何の説明もないのに自然と合点がいく。
 力尽きて真っ逆さまに落ちることなど怖くない。だからいきなり力が途絶えて地面に激突しようとも、そこで何もかもがきれいさっぱり途絶えて終わってくれるなら、一向に構わない。
 選択肢など最初から――物心ついたときからもう既に無かったのだ。そもそも当時から敵と戦う以外、自分に出来ることなど何もなかったし、他にやりたいことも思いつかなかった。今更あれこれ迷うこともない。
(飛び続けるのだ、その瞬間まで)
 闇雲に思った。

 ちっぽけな蛾は、片時も羽を休めないまま、何処かへと飛び続けた。




(あ…)
 遥か遠くにぽうっと淡い光が一点だけ見えだした時は、あまり暗いところばかり延々と見続けていたがために、にわかには信じられないくらいだった。その一点に向かって、カカシは何度も“心の目を”凝らす。
 そして。
(自分は今まで、あれを探して飛んでいたのか)
 そう確信した。
 ごく小さくて、ややもすると見落としてしまいそうな瞬きだけれど、常に柔らかくて温かな輝きを放っている。
 その間にもにわかに勢いを取り戻してきた小さな二枚の羽は、のっぺりとした重い暗闇を、後ろへ後ろへと押しやっていく。すると最初は星の瞬きのようだった光が、それに応えるように僅かずつ明るさを増しだした。
(…もう少し…、もう少しだ…)
 気が付くと、激しく息を荒げながら夢中で羽を動かしていた。
(あの光にもっと近付きたい。もっと側に行きたい)
 その一念で、ふらふらと左右によろめきながらもひたすら羽ばたき続ける。
 あの光のお陰で、オレは飛んでいるのか止まっているのか、どちらが天か地かも分からぬようなこんな真っ暗闇の中でも自分の位置を知り、進むべき方向を決めることが出来たのだ。
(あの光を見失ってはいけない。もっと近くに行けるはずだ)
 残された時間のことも忘れて強く思った。


 ようやく光源の近くまでやって来ると、最初こそ弱くてちっぽけだと思っていたそれは、思いのほか強いきらめきを放っていた。
(…っ)
 眩しくて、思わず心の中で目を細める。どう見つめようとしても、上手く正視出来ない。よく見えないせいで、そのまま近付いていいのかまで不安になる。
 ここから先、自分はどうしたらいいのかが分からなかった。
(どうするのだ? オレはこのままずっとこの光の周辺で飛び続けるのか? それとも暗闇に戻るのか?)
 その光の周囲でぱたぱたと羽ばたき続けた。


 手を失って、一つ分かったことがあった。
 最初に「無くなったのだな」と思った時は、かつてないほどの解放感に満たされたというのに、そのうちとてつもなく苦しくなった。
 自分が誰かに…いや「あの男」に触れることは、もうないのだ。

 有無を言わせずねじ伏せることも。
 玩具だと揶揄して弄ぶことも。
 そのきれいな手に触れることも。

 一時は焼けるように腹立たしくて、躊躇の欠片もなく首を絞めていたような男に対して、なぜ唐突にそんなことを思ったのだろう。
 自分はもうとうに死の淵にしがみつくのを止め、遠い彼方へと大きく漕ぎだしているというのに、まだあの男のことだけはオレの中を過ぎっているなんて。
(しつこいな)
 苛立った挙げ句、思わず呟いた。いや、今となっては『呟いたと感じただけ』なのだが。
 しかし意外なことに、どこかで誰かの返事が聞こえた気がして、思わず耳をそばだてた。
(…なんだ…?)
 その声は、明らかに目の前の目映い光の中から聞こえてきていた。でもこの中に入っていったら最後、自分のような夜の虫は、間違いなく燃え尽きてしまう。

(――いや、それでいい)

 思えば、一刻も早く燃え尽きたかったのだし。
 オレは何とか方向を見定めると、その光の中心に向かって真っ直ぐに飛び込んだ。
 途中、どこからか声がする。

 ――そうですよ、口惜しかったらまた前みたいに怒ればいい

(…?)

 ――出来ないんですか、意気地無し

(な…)

 ――それでも上忍ですか? 里を背負って立つ忍ですか!


(…なんだと?)
 オレは最後の力を振り絞って羽ばたきながらも、その最後の言葉に内側で反射的に身構えた。
 誰かのために何かを背負うだと? 冗談じゃない。そんな言葉、聞いただけで虫酸が走る。
 そんな下らない大義名分を無理矢理背負わされていたお陰で、最後の最後まで苦しみ抜いた挙げ句に自刃した奴の末路が、どれほど悲惨なものだったか。

 だからオレはオレのためだけに戦い――そして死んだのだ。











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