黒い森は今夜も月を隠して不気味に黙りこくっていたが、踏み込んだカカシには「よく来たな」と歓迎をしているように思えた。
 生温かい風は思った通り雨を運んできていて、愛用の防水マントを羽織っていないカカシの体を、天水が愉快そうにぽつり、ぽつりと叩きだす。

 宵闇に紛れて里を抜けだしてからというもの、ずっと走り続けていた。狂ったように獲物の居場所を嗅ぎ回り、明け方近くなった今、ようやく目指すものをその手中に収めようとしていた。
 余力が枯渇している、ということも不思議と気にならなくなっていた。乾いてささくれ立ったものが、何かを求めて内側で転げ回っている。それに応えるようにして全神経を傾けていくと、すぐに気持ちが落ち着いた。


(――…サン、ニ、イチ…)
 カカシは巨木の陰で静かに目を閉じた。
 同時に背後の真っ暗だった森一杯に、出し抜けにバアーッと真っ白な閃光が広がり奔る。
 抜け忍の通り道に仕掛けておいた先制用の閃光トラップが、狙い通りの場所で発光していた。その光量は容赦の欠片もなく、明らかに暴力的といっていいものだ。
 降り注ぐ雨粒が一斉に乱反射し、より一層複雑な光の刃となって獲物の視力を奪うことを目的としていた。
 ほんの一拍後。
 早くもその光が力尽きたように途切れ、元の闇へと戻りだすと、急速に収束していくその光端を追いかけるように、カカシは音もなく木陰から飛び出した。


 網膜が焼き切れんばかりのその突然の目眩ましに、岩と沼の抜け忍はただその場に手を翳しながら立ち止まるしか術がなかった。
「くそ…っ、いつの間に…ッ!」
 眼底の痛みに耐えながら薄く目を開いた岩忍のすぐ前を、紅い何かがよぎる。
(?!)
 しかし、それが人の目だという事に気付いた時には、既に喉笛に一本のクナイが深々と突き刺さっていた。何かを喋ろうとしていた唇がゆっくりと動くが、男の口からはもはや赤いものしか出てこなかった。
 まだ四肢が痙攣し続ける岩忍の前から、紅い光は消えていった。


 眩しさにうずくまるもう一人の忍の前に、カカシが現れた時。
 雨に濡れそぼった黒い森が、轟々と音を立てて一斉に襲いかかってきた。
 いや、正確には森を構成していた鬱蒼とした草木が、まるで竜のように大きくうねり、のたうちながら、カカシめがけて襲いかかってきていた。
(舞わし!)
 カカシは、思うより早く印を切った。
 人形使いが、単なる物でしかない人形をまるで生きているかのように舞わせる様から名付けられたその術は、術者の力量やセンスによってはかなり厄介な術となり得る。
 襲い来る巨大な「生き物」から間合いを取ろうと後ずさったカカシの背中に、突如数本のクナイが深々と突き刺さった。
「!」
 上忍は物も言わず、すぐそばの木に倒れるように体を預けた。
 が、その背後の暗闇から浮かび上がるようにして現れた背高い銀髪男が、カカシの背中のクナイを抜き取る。
 カカシ本体が闇に向かい、抜いた二本のクナイを鋭く投げ返すと、雨音の中に確かに手応えがあった。
 ゆっくりと近付いていく。
 沼の男の片腿と右胸にクナイが深々と刺さっているのが、良く利く彼の夜目にはっきりと映った。
 男は跪き、今にも前のめりに倒れ伏しそうになるのを辛うじて左手で支えている。
「――お前の技、それだけか? 他にも出せるんなら、もう少し生かしておいてやるが」
 男まであと数歩のところで立ち止まると、カカシは背筋の冷たくなるような言葉を静かに投げ付ける。
「…く…そっ…」
 力なく俯き、苦しそうに喘ぎながら呻くその声は、まだ年若い青年のようだった。
「お前はもうすぐ死ぬ。後には何一つ残らない。でもお前がもっとまともな術を持っているなら、その術だけは残しておいてやる」
「…ち…畜生…ッ…!」
 降り注ぐ雨の中、男は最後の力を振り絞ってカカシを睨み上げた。
 その瞳は吸い込まれそうなほどに真っ黒で、奥には悔しさと悲しみと強い意志が色濃く滲んでいた。
(!)
 それを見た途端、カカシの心の深いところで、さわり、と何かが不意に波立った。
(な…っ)
 いきなり妙な感情に割ってこられたカカシは、思わず動きを止める。
 刹那、沼の忍は迷うことなくマントの下の起爆札を発動させた。

(!!)

 黒い森に轟音が響き渡り、夥しい量の血飛沫と肉片が、凄まじい爆風と共に、無防備な男に襲いかかった。







(――まだ、終わってない…のか…)

 恐ろしい不快さに無理矢理覚醒させられたカカシは、さわさわと風渡る森と、いつの間にかすっかり明けている空をぼんやりと見上げた。
 体は殆どの感覚を失っていて、どこをどうやられているのかさえも分からない。だが、ろくなことになっていないのは確かだ。
 爆発の瞬間、咄嗟に両腕で顔を覆うようにしながら体をよじった。だが結界を張る暇も、そもそもその余力さえも無かった己に、大した防御が出来るはずもなく。
 かなりの距離を吹き飛ばされ、太い木の幹に背中から激突して、その瞬間意識が途切れたらしい。
 それでも「次に目を閉じたら終わり」ということは分かった。アスマはあの後気付いて自分の後を追っただろう。けれど自分の勘と嗅覚には大きく劣る。一晩かけて地図よりも相当に移動したのだ。間に合いはしない。

 ふと手の平のことを思い出して、もはや自分のものとも思えないような感じで遠くに投げ出されている、何の力も入らないそれに目をやる。
 黒い丈夫な指無しの革手袋が、爆発の衝撃から少し脱げかけていて、そこから赤黒いものがくっきりと見えていた。けれどその血が、以前からそこにあったものなのか、或いは今し方流れてきたものなのかを確かめる余力は残っていない。
(オレが死んだと知ったら、あの連中はどう思うだろう)
 ふとそんな思いが脳裏を掠めた。
 時折体を繋げていた、あの上忍のくノ一はどうだろうか。思い切りよく首を絞めてくれる便利な奴が居なくなったと、少しは嘆くだろうか。
(…有り得ないな)
 ふっと心の中で一笑に付す。
 ならあの…あの真っ黒な瞳の、黒髪の中忍はどうか?
(自分をとことんまでいじめ抜いた、憎らしい上忍がいなくなって、心からホッとする…だな)
「…ふ、…ふふ…」
 そんなことを巡らしているうち、思わずゆるい嗤いが出た。
(あぁ、そうか、そういうことだったか)
 今頃になって「あの二人は全く正反対の忍のようでいて、実は根本は同じだったのだ」と突然合点していた。
 今、この状況だからこそ気付いたのだろうそれ。
 そう、イルカは自分の体にクナイを押し当てたり、オレの理不尽な暴力を黙って受け入れ続けることで。
 そしてあのくノ一は、絶頂の瞬間オレに強く首を絞めさせることで、自分なりの贖罪をしていたのだ。
 自身を死の淵ギリギリまで激しく責めたてることで、人を騙し、傷付け、時に殺めることで生き長らえている己を、何とかして赦(ゆる)そうとしていたのだ。
 勿論奴らがそれらを意識してやっていたかは甚だ怪しい。特にあの中忍などは、半ば無意識もいいところだったろう。
 だが、あの自害さえ完遂出来ないような情けない忍とばかり思っていた男――イルカは、実は生き延びるために究極の「捨て身の保身」をしていた。
 限界まで己の体を痛めつけることで生まれるほんの僅かな赦しに懸命にすがりつき、どうにかして今日一日、いや今この一瞬だけでも生きる理由を見出そうと藻掻ぎ苦しんでいた。
(――そしてオレは…)
 そんな彼らに対し、何も知らぬまま、死にも勝る苦痛を与え続けていた。目の前で泥水に顔を突っ込み、時にそれらを啜っていたような無様な彼らを見て、どこかいい気になっていた。
「…ふっ…ふふ…」
 自分は決してああはならない、などと思っていた。
(何でも見通す目、か…)
「…くく…くくくっ…」
 肩が揺れて恐ろしく傷に響いているのに、どうしても嗤いが止まらない。
(…なら…なら…、一番弱いのは…)
 保身も出来ないまま、あっさりと全てを諦めてしまう者、ということになりはしないか。

(――そういや……ガキの頃にも居たな…そんな奴…)
 また一頻り嗤った。












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