(――ううーーん、どーすっかなぁ〜)
 自分の身長よりもまだ高い大きな窓ガラスの前で、小さな溜息を一つ吐く。うらうらとした低い冬の日射しが、体を包むように降り注いでいる。
(この任務、どうしたらいい?)
 どうすれば一番効率よく進められ、無事完遂することができるだろうか? それが現在のお題目だ。実は心当たりだけなら、ないこともなかったりする。いや、実はもうすでに、その人の姿しか脳裏に浮かんでなかったりするのだが。
(あーーでもなぁー…?)
 もう一度、振り出しに戻って考えてみる。一応。形だけかもしれないが。
(切り出したら、なんて言うかなぁー)
 まず間違いなく、断ってくるのではないだろうか。しかもきっちり、頑なに。
(まぁ、そうだろうな?)
 向こうは一分の隙もなく、理詰めでくるタイプだ。間違っても、(自分のように)ホイホイとおだてに乗るようなタイプではない。長年に渡って激戦を潜り抜けてきた手練れらしく、厄介な交換条件の一つや二つは出してきてもおかしくないだろう。実際その条件をうっかり呑んで、後でえらい目に遭った経験も、一度や二度ではない。だが今は、そんなものを呑んでいる時間すら惜しいのだ。いや、呑んでたまるか。
 
 いよいよ年も押し詰まってきた大晦日。アカデミーでも古株になりつつある多忙な身には、まだまだ他にやるべきことが山ほどある。既にアカデミーの方には朝から分身が一体詰めているが、十数時間後には年が明けてしまうのだ。刻一刻と残り時間は少なくなっていっている。いつまでもこんな些末なことで迷っている場合ではない。相手も百戦錬磨には違いないだろうが、中忍稼業も四半世紀もやっていると、任務を離れたこうした日常生活においても、優先順位を付けるのはほぼ無意識のうちに完璧にこなせるようになってきている。その長年の経験が、「いいよ。いけ、いっちまえ!」と盛んにGOサインを出しているのだ。
 結局、両手を腰に当てた仁王立ちの格好でむううんと思案していたのは、ものの数秒だった。
 決めた。
(よし、やっぱ頼むか! 頼んじまうか! なっ!)
 脳裏に浮かんだ男に向かって呼び掛けた。


      * * *


「え〜なになに〜、お願いって〜」
 黒い長袖のアンダーに、支給ジャケットを引っ掛けただけのラフな格好の男は、使いにやった小鳥より早く自分の元にやってきていた。非番というのは本当だったらしい。小脇には本屋の包みなんてものを抱えている。中身は敢えて聞いたりしなくても、また血継限界でなくともおおよそわかる気がするが、今はそんな他愛ないやり取りをしている時間すら惜しい。早速本題に入るとする。
「カカシさん、今日これから時間ありますか?」
 単刀直入に訊ねた。多分向こうも、それを望んでいる。
「今から? 呼ばれなければ、明日の朝までならあるけど」
 この『呼ばれなければ』というのは、火影である彼に緊急の用事が入らなければ、ということだ。里のトップとは言え、休日はある。彼が休みの場合は、一定の権限を持った代わりの者が執務を代行することになっているが、先の忍界大戦以降、大きな諍いは極端に減り、概ね平穏な日々が続いている。
「そうですか。…へへっ、良かったです」
 雑巾の入ったバケツを片手に、ついついニッと笑ってしまう。
 彼と俺の側にある大きな窓ガラスから射し込んでくる光は、まだ昼過ぎだというのに早くも気持ちオレンジがかりはじめていて、真夏のそれとは別物のように優しい。だが透明な面いっぱいに付いた一年分の汚れはその優しさの分だけくっきりとして、嫌でも目につくようになっている。
 木ノ葉の里は、その土地柄ゆえ砂埃が舞いやすい。屋外に面したガラスは、例外なくその洗礼をまともに受けてしまう。ご多分に漏れず、この家の窓ガラスという窓ガラスも、魚のウロコ紋様をまとった磨りガラスといって差し支えない状態だ。
「で? 急ぎの用事ってのは――これらの窓ガラスを、今すぐ、全部きれいにしろと」
「あはっ、相変わらず察しがいいですね!」
 流石、デキる男は話が早くて助かる。
「ダーメ。そんな可愛いおだてには乗らないよ。まっ、イルカ先生が『急いで会ってお願いしたいことがある』なんていうからー? そんなことだろうとは思ったけど」
 男はつまらなそうに、口布の下でふんと鼻を鳴らした。どうやら彼の淡い期待は、年の瀬の寒風にあえなく吹き飛ばされてしまったらしい。ははっ、ご期待に添えず悪うございました。
「でも、頭の隅ではそう疑いながらも、来て下さった」
「だーかーらー、懐柔には乗らないって、言ってるでしょ。オレ窓拭きなんてやりたくなーいしー」
 男は早くもこちらの意図を察し、冷静に先回りして止めを刺してくる。程度の差こそあれ、それもこれも、戦場においては何より必要な能力だろう。だがこの場では手を焼きこそすれ、褒められたものではない。だがうっかり、「これならナルトのほうがまだ…」などと冗談でも言おうものなら、その無駄に整ったポーカーフェイスの下で、本気でこっそりヘソを曲げてしまうからぐっと我慢だ。
「こんなに真面目にお願いしてもですか? そもそも『窓が大きくて気分がいいからこの家にしよう』って言ったのはカカシさんですよ? 俺は『窓拭きが大変そうだし、外から丸見えだから、もっと狭くて落ち着けるところがいい』って言ったのに」
「えぇ〜〜いまそれ言うんだ〜…ってなによその目〜〜。…あぁもうーー、やればいいんでしょ、やればー」
 言うや否や、なぜか男は突然、目にも留まらぬ速さで印を結び始めた。
(?!)
 直後、その異様に長ったらしい複雑な印を、慌てて両手で制する。
「ちょと待てっ!! なにやってんだアンタ?!」
「何って…そりゃ窓ふきでしょうよ」
「水遁・水龍弾のどこが窓ふきなんですかっ!!」
 家中の窓を一瞬でブチ破る気か?! しかも水びたしにして?! 年末年始を、何が悲しゅうて寒風吹きすさぶびしょ濡れの部屋で過ごさねばならんのだ! ふざけるのもいい加減にしろ!
「大丈夫〜! 加減するから〜♪」
「やめて下さいっ! そもそも非番だからって、そんなことにチャクラを使っていいわけないでしょう?」
「龍をミミズサイズにするから、へーきへーき〜」
「ダメッ! 術はゼッタイ禁止ーッ!!」
(――たっはーー…ダメだこりゃ…)
 脳内で空を振り仰ぎ、額に手をやる。おおかた男は、「あーあ、やっぱり割れちゃったぁ。でもイルカ先生がやれって言ったんだからねー?」から始まって、夜には「窓ガラス割れちゃって寒いからさ、引っ付いて寝よう?」とか、そんなくっだらねぇことが言いたいがためだけにやろうとしてるのだ。
(ハッ、それくらい、こっちだって読めるってんだ)
 伊達に十年付き合ってない。
 この男、己の目的を達成するためとあらば、物資の無駄など何とも思ってない節がある。例え家の中がめちゃくちゃになり、片付けや修理で時間がかかりそうな時でも、里の業者に気前のいい額を提示しては任せるせいで、むしろ有難がられているくらいだ。
 往来を歩いている時、「やあ先生、次の喧嘩はいつですかい?」なんて笑顔で挨拶される身にもなって欲しい。
 子供の頃から高給取りだった男は、この辺の始末が悪くていけない。そして俺は、色々納得いかない。
(つーか、何回その手の暴走に付き合ってると思ってんだよ…)
 いい加減学習しろよな? 他でもない俺。

 ヘまるでこちらの気概を削ごうとでもしているかのように、目の前でヘラリとしている男を、極力無表情で受け流す。ここはまともに相手にしないに限る。
「あぁ〜? でも場合によっては真面目にやらなくもないよ? そのかわり交換条件として、イルカ先生が今夜ベッドでご奉仕してくれるっていうんな――ってもうジョーダン! 決まってるでしょ! とにかく、オレは窓拭きなんてぜんぜんキョーミないし〜。悪いけどお断り〜」
 想定通りの下半身丸出しな条件を切り出してきた瞬間、ギロリと目だけを動かして一瞥をくれる。と、男はさっさと前言を翻して、再び初めの主張を繰り返してきた。最初からそれしか言ってないと言わんばかりに。
(――はぁ〜〜…まったくー…)
 やれやれだ。振り出しに戻るまでに、随分と時間を食ってしまった。デキる男は話が……なんだってぇ〜?
(…まぁでも…なんだ?)
 それでも、ここまで頑なに「嫌だ」「やりたくない」と固辞していながら、「オレはこの里のボスで、天下の火影様なんだからやらない」というようなことは決して口にしないところはいつもの彼らしく、また尊敬に値すべきだなと、感心はしているのだが。
 もちろん内心で。密かに。

 何だかんだで一周して振り出しに戻ったところで、ようやくまともに話が出来るようになるというのも、もはやいつものことだ。要は仕切り直し。ふと、(カカシさんも、心のどこかではじゃれあいたいのかもしれないな)と思う。「じゃれる」のレベルと質が、悪ガキだった頃のナルトとは別次元のタチの悪さなのだけれど。そしてこのことも、一度口に出してしまうと勝手に曲解して何となくめんどくさいことになりそうな気もするから、一生俺の腹の中だろうけど。

「…あぁー? でもカカシさんが気持ちよくなるっていうのは、その通りかもしれませんよ?」
「は? 窓ふきのどこがよ」
 胡散臭さを通り越し、呆れ気味といった様子の目が、俺の手元のバケツを斜めに見下ろしている。
「じゃあ、本当かどうか、見てて下さい」
 言って大きな窓の前に立つ。
(ふう…)
 今回もようやく話のテーブルについた。これでやっと本題に入れる。急がなくては。
 今にも溜息が聞こえてきそうな視線を左側いっぱいに感じながら、道具の入ったバケツを足下に下ろした。


(――さてと、まずは下準備からだな)
 なぁに、難しいことは何もない。窓の下に、窓の幅の分だけ古タオルや雑巾を置くだけだ。この時、出来るだけ窓枠にぴったりとつけて、隙間のないようにセットするといい。
 タオルの代わりに、新聞紙を敷くことはお勧めしない。きちんとセットできないうえ、後で濡れてボロボロに崩れた新聞紙を処分するのは意外と厄介だからだ。
 タオルを敷き終わったところで、用意していたスプレーを取り上げて、ガラスの上から下までまんべんなく吹き付けていく。中身は何の変哲もないただの水だが、このへんについては、特に説明は…不要だな?
 次に三つ目の道具――こいつが今回一番大事になってくるキモの部分なのだが――T字型の、細長いゴムのついたガラス拭き専用の道具を取り出す。ゴムの幅は30センチくらいだろうか。もっと長いものも売られているようだが、取り扱いの勝手を考えると、30センチで十分だ。
「この黒いゴムの部分で、浮きあがった汚れを掻き取っていくんですけど、ここからは口で言ってもわかりにくいんで、見てて下さい」
 言うや、T字をガラスの端から端までをうねうねと蛇行させながら、下へ下へと下がっていく。ゴムに掻き取られた汚れた水が面白いように切れながら流れ落ち、下のタオルへと吸い込まれていく。
(はい、終わり)
 顔を上げると、そこには見違えるようにすっきりとした窓ガラスが、冬の陽光を迎え入れていた。このあと、内側より格段に汚れている外側が同じようにきれいになれば、室内は一気に明るくなる。
「どうです? 簡単でしょう?」
 カカシさんの方を見て、ニッコリと微笑む。





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