しかもこの方法のいいところは、少ない労力できれいになるということだ。よく巷で、『濡れた新聞紙で拭く』という方法を耳にするが、実際にやってみると、きれいになるまでの拭き上げの労力が半端ない。大きな窓が何枚もあるようだと、途中で嫌になってしまいかねない大変さだ。しかも丸めた大量の濡れ新聞紙は処分の際にかさばるしで、少なくとも「来年もまたやりたい」とは思わないだろう。
 でも、これなら。
 ちなみにこの方法は、窓が大きいほど上手くいきやすい。水切りの道具を動かしやすいからだ。とはいえ、窓が小さい場合はS字に動かさず、上から下へただ下ろせばよく、三〇センチの幅もない場合は、左右に直線的に動かしていけばいいだけのことだ。な? 簡単だろ?
「まぁでもカカシさんは初めてだから、S字に蛇行させるのは難しいかもしれないですね。単純に上→下でもぜんぜんいいですよ」
 身長があるから、脚立などにも乗らなくてもいい分、上→下は切れ目なくスムーズにできるはずだ。
 だが俺にチクチクと地味にプライドを刺激された男は、いま口布の下で少しムッとした表情をしている。多分な?
「それとも写輪眼がないと、この程度のことも無理ですか」
 更に少しキツめに煽ってみる。ダメ押しだ。
(頼むぞー、ここまできたからには、ちゃんと受け取ってくれよ〜?)
 己の器用さに、内心ちょっと自信のある男。

「ふん、言ってくれるじゃない。――貸して」
 すると彼はあっさりと俺の手から道具を持ち去ると、今しがた九割がたきれいになった窓ガラスに、再び上からスプレーしはじめた。よし、いいぞ。その調子。
「そうそう、そうなんですよ。一度目で少し汚れが残ってしまった部分を、二度目に同じようにして掻き取って、本当の完成なんです」
 単にガラス全体にスプレーして、上から下までT字の道具を引き下ろしてやればいいだけの作業だから、大きな窓でも仕上がるまでの時間は、一枚につき三、四分といったところだろう。力は殆ど要らないため、表と裏を合わせても、一〇分とかからずに済んでしまうはずだ。
「ね、さっきから吹き付けてるこれってさ、ただの水なんじゃないの?」
「そうですけど?」
 鼻のいい男が、右手に持ったスプレーを見下ろしている。こういう一見するとなんでもないような質疑応答も、男のやる気を引き出す一助になっている。どんなに急いでいたとしても、決しておざなりにしてはいけない。教育現場における指導は迅速かつ的確に。
「なんかもっと汚れの落ちる洗剤とかじゃなくて、いいわけ?」
「スプレーしたとき、頭から洗剤を被りたいんですか?」
「まっ、…そりゃあ被りたくはないねぇ?」
 そうなのだ。窓ガラスは専用の洗剤などなくても不思議ときれいになる。それもこれも、T字に付いているゴムの高い品質のお陰だが、よほど煙草のヤニでも付いているような所でなければ、屋外でも洗剤は必要ない。
「洗剤を使うと、スプレーした時に飛び散ったぶんはもちろん、窓の下に垂れたものもかなりきっちりと拭き取らないといけませんからね。それに何より、透明が身上の窓ガラスにとっては、洗剤だって汚れの一つでしかないんです」
「なるほど。水なら乾けば消えるけど、洗剤は少しでも残ったらかえって目立つと」
「そういうことです」

(じゃあ…このくらいで、いいかな?)
 上から順にスプレーを始めている男の横顔を見ながら、何気ない様子で時計など見つつ後ずさりする。渋々ながらやってみる気にはなっているようだから、あとはあれこれ言わずに好きにやらせておくことにする。
 一旦始めさえすれば、ちょっとした力加減や能率アップのための工夫が出来ない男ではない。まぐれで六才で中忍になったはずもないから、やっているうちにいい塩梅を見つけていくだろう。
(ほんと、頼むから見つけてくれよ〜)
 途中で放り投げて消えたりしたら、とうぶん布団には入れてやらんからな?


     * * *


「イ〜ルカせーんせ?」という、三十路も半ばな男にしてはいやに軽やかで上機嫌といった様子の声が遠くでかかり、暗い屋根裏で片付けをしていた手を止める。
(?? えぇもう〜? まさかな…?)
 懐中時計を見ると、まだ小一時間ほどしか経っていない。大小合わせて三〇枚ほどもある窓ガラスが全て済んだとは、とても思えないのだが。
(うーむ…でもあの人なら…ひょっとするのか…?)
 手分けして買い物に出て行かせたのと、風呂掃除をしている影分身はそのままにして、一人で階段を降りていく。いや、カカシさんは万一の有事に備えてチャクラを温存しておく必要があるが、俺はいいのだ。それに一年分の掃除を半日で仕上げないといけないのだから、これくらいしないと間に合わない。
「どうか、しました?」
「できたよ」
「ええ〜〜もう〜〜?」
 『やっぱり』と『ホントかよ〜』の狭間で、思わず笑いながら応えてしまう。
「うん」
 男はこちらを見ることなく、大きな窓の方を眺めている。ジャケットを脱いで黒いアンダー一枚になっているということは、それなりに気合いを入れたということなんだろうが。んん〜どれどれ〜?
(――あぁでも、確かに…!)
 さっきより明らかに明るくなっている部屋の真ん中で、改めてぐるりと周囲を見渡して目を見張る。
 あれほど雨と砂埃でウロコ模様になっていた窓ガラスが、まるで別物のようにクリアになっている。特に南に面してこれでもかと開いていた窓は無駄にでかかっただけに、その差は歴然だ。不本意ながらその汚れを見慣れてしまっていただけに、世界が一変していると言っても過言ではない。
(しかも隅々まで…かん、ぺき…)
 どこをどう見ても、拭き残しはおろか、水垂れの一筋すらも見当たらない。
 とてもシンプルな作りとはいえ、今日初めて手にした道具だ。少しくらいムラがあったとしても目を瞑ろうとは思っていたが、そんなものはどこを探しても見つからなかった。天窓はもちろん、トイレや洗面所の鏡まで、あの道具で磨けるところは一分の隙もなくピカピカになっている。
 両手を大袈裟に広げて見せた男が、「なに、まだ信じらんないワケ? じゃ見てみる?」と、満更でもなさそうな様子でスプレーを始めている姿に「ええ、お願いします」と促した。

「――へぇーーへえぇ〜〜、随分上達しましたねー」
 十数秒後、思わず感嘆の声を上げる。
(なんだよ、俺よりぜんぜん上手くなってるし)
 てっきり面倒臭がって上から下へのシンプル移動しかしていないと思っていたのに、しっかりS字と上下左右を組み合わせた、効率重視の複雑な掻き取り方法をマスターしている。しかもしなやかに手首を返しているその動きは、怖ろしく早くて正確だ。ガラスが上下に複数枚入っているようなところでは、左手に持ったタオルで汚れた水を残らずキャッチまでしていて、仕切りの桟まで残らずきれいになっている。拭き残しの欠片もなく、一発で完璧に仕上げているその動きは優雅で、どこか風格さえ漂わせている。
「あ〜?! もしかして十人とかに影分身して、それぞれがやった経験を自分に還元したとか〜?」
「しないよー。術禁止って言ったのイルカ先生でしょ。ちゃんとオレ一人で学習しましたぁーー」
「たはっ、マジか〜」
 でも一方では、「やっぱりな」とも思っていたりする。ちょっと神経質なところのある、彼ならではの仕上がりといったところか。
 更にこの男に限っては、『描く気持ち良さより、消す気持ち良さにハマる』と踏んだ読みが当たっていた。
(ナルトは落書きを『描くこと』で発散してたけど、多分、あなたは…)
 子供の頃から、消すことに快感を覚えるタイプだったのではないだろうか。
(それも誰より素早く、完璧なまでにきれいに?)
 「消す」という行為は、それらが叶う行為だ。
 それが嵩じたのかは定かでないが、彼はついに異空間の彼方に狙った物を丸ごと飛ばしてきれいさっぱり消し去る、なんていう大技まで会得してしまった。
 いまはもう、その術を発動することはできなくなったようだが、彼は今日新たな術を覚えたのだ。
(だから来年も、その次の年も、ずっとずーーっと、お願いしますよ?)

「んーーこんなに素早くきれいに出来るなんて、やーオレって天才」などと言いながら、引き続き意気揚々とやってみせている男の鮮やかな手さばきを褒めちぎった。


     * * *


 時折風に乗って遠くから響いてくる除夜の鐘の音を聞きながら、揃って年越し蕎麦を食べ、交替で風呂に入り、二階の寝室で一つの布団に入る。
 枕元の明かりを消すと、その瞬間から静かに音もなく、月夜が部屋へとやってきだした。
「やっぱり、断然明るくなりましたね」
「うん」
 敢えてカーテンを引かないでおいた大きな窓から、青白い月の光が煌々と射し込んで、部屋の半分をくっきりと浮かび上がらせている。
「カカシさんはホント器用だし、何でもコツを掴むのが早いですよね。いつか火影を勇退したとしても、いつでも窓拭き職人で食っていけますよ」
 思っていた以上の結果に大いに満足しながら、また褒める。褒める。冗談で薄めながらも、とにかく褒める。
「あ、やっぱりー? それも悪くないよねぇ。本気で考えちゃおうかな、『ガラスクリーニングサービス・はたけ』」
 六代目里長は冗談とも本気ともつかない口調で、内と外を隔てる透明な境目をじっと眺めている。本当はどこを見つめているのだろう。俺にはわからない。
 普段はなかなか腹の内を見せない男だ。今日は窓拭きなんてものを切っ掛けに、まだよく喋っているほうだろう。
「ははっ、いいですね。どんな高い窓もゴンドラなしですぐ拭けるから、きっと重宝されますよ」
 彼が火影に就任してからは目立った戦もなく、木ノ葉はある意味「商売上がったり」状態だと言われているが、忍の術なんてのは、本来そういうことに使われるべきものだろう。
 以前は「窓を拭く」なんてことに、意識を振り向ける余裕すらなかったのに。
 そんな世界も、ここまで変わった。

「これまであんまり意識してこなかったけどさ、窓がきれいな家って…いいもんだーね…」
 背後の男が、耳の後ろに顔をすり寄せてきながら喋っている。
「ええ――そうですね」
 応えるように体を返すと、男の髪がくっきりとした月明かりを力強く跳ね返している。
 その輝きの中にそっと、けれど気の済むまで長いこと唇を押し当てた。


     * * *


 翌日。
 イルカがいつものように受付に出向くと、今朝に限って自分より随分と早く出ていったはずの男が数体、寒空のなかで嬉々として執務室の窓拭きをしていて。
 正月から公開痴話喧嘩になった二人の話は、また別の機会に。



                   「透明な快楽」 fin




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