俺が最初にそのことに気付いたのは、一体いつの頃からだったろう? 少なくとも、先の大戦が終わった後であることは間違いない。
 遅めの夕飯が出来上がるのを待ちながら、すぐそこで大人しく本を読んでいる、銀髪の彼に関することだ。
 ただし俺は、何度そのことに気がついても敢えて黙っていた。黙ってその場で見るだけにしていた。
 なんでって……なんでだろうな?
 まぁそれは多分――また次も、見たかったからだ。


 彼の左目から、血継限界を示す赤い巴紋様がなくなってから、もうはや一年ほどが経つ。当時、忍の歴史はもちろん、人口や地形までも激変させてしまうような忍界大戦から戻ってきた彼を出迎えた時は心底驚き、大いに心配したものだったが、当人は至っていつも通りだった。
 それどころか写輪眼がなくなったことについても、「元の持ち主に返せて良かった」と、実にさばさばしたものだ。それでもあれこれ内心で気を揉んだ末に、思い余って「万一の時、危険度が増すのでは…?」と精一杯控え目に訊ねたところ、「本来の血筋ではない自分には過ぎたものだったし、使えなくなるのも時間の問題だった」と言う。
「もーなんて顔してんの。大丈夫なんだって〜。もうオレ一人で任務に出ることもないだろうし、これまでコピーした術だって、印を覚えてるうちは……まっ、使えるんじゃないの〜?」
 少しはね。と、男はこちらの気を知ってか知らずか、至って呑気に構えていて、やきもきさせてくれる。
 或いは意識的にそうしていた面も、あったりしたのだろうか。わからない。彼は肝心なことほどその口布の奧深くに慎重にしまっていて、まず滅多なことでは表に出したりしない。彼のトレードマークになっている口布が、時として内なる声を阻む衝立かなにかのように見えてしまう時があるのは、俺の考えすぎ…なんだろうけど。
 カカシさんが火影に就任したばかりの頃は、彼が何も言わないことをいいことに、「あの白い牙の息子なんかに、本当に大役が務まるのか?」とか、「大きな後ろ盾はおろか、もはや写輪眼すらないのに、怪しいものだな」などといった声もしばしば上がっていた。そういった口さがない人々の声をうっかり耳にした夜はただただ悔しくて、どうしても納得いかない。
「くそっ…、勝手なこと、言いやがって…っ」
 ついつい彼の前で、おさまらない気持ちを爆発させてしまったことも、一度や二度ではなかった。
 そんな時でも、カカシさんは決して俺に同調したりしない。
「写輪眼がなくなったお陰で、これまでオレを警戒してた人達からは警戒されなくなったし、最初から警戒してなかった幾ばくかの人達には、親近感を持って貰えるようにもなった。それは火影としては、歓迎すべき変化じゃない?」
「ぁ…」
 そして目尻と眉尻を下げながら、「まっ、確かにまだ何の成果も上げてないからねぇ。言われても仕方ないでしょ。期待の裏返しってーことで」と俺を宥め、一方ではひたむきに政務に没頭しだした。

 火影とは文字通り、『火の国の影で働く者』ということだ。生前は批判の矢面に立たされることばかりだというのに、賞賛は死んだ後にしか与えられない。私腹を肥やす気のない者にとっては、華やかな見返りなど何一つないといっていい、ひたすら過酷なだけのポストだ。それを一手に引き受けた彼は、その使命にただ黙々と向き合い続ける。
 里長という地位はトップであるがゆえに、とことんまで神経をすり減らす時間の連続でもある。彼のように将来ビジョンを高く掲げているなら尚のことで、執務室が戦場よりも殺伐としていることも少なくない。
 限界まで考え抜き、芯まで疲れ果て、俺ならば二時間も酒が入れば聞かれるままぼろぼろと端から答えてしまいそうなときでも、彼の口数はいよいよ少なくなっていく。そこには強固な意志という名の鍵が、幾重にも掛けられていることを伺わせ、そのことがまた俺を落ち着かなくさせる。落ち着かない俺を見ると、彼はようやく口を開く。
「いーのいーの。言いたいヤツには言わせておけば。までもホラ、これでオレもビンゴブックのリストからは外れただろうから? あなたとも枕を高くして寝られるってもんでしょ?」
 その発言に、俺ともっていう下りは必要ないだろうと内心ツッコミつつも、そんな冗談めかしたやりとりを繰り返しているうちに、最近ようやく、だんだん、なんとか気持ちが落ち着いてきているところだ。
 そうして冷静になったことで、ようやっと気付いたこともある。俺は、(一番近くにいる自分が、あの人を支えなくては)と、無意識のうちに焦ってしまっていたのだった。なのに実は彼に支えられていたなんて情けない話なのだが、今もあの人の支えになりたい、という気持ちには些かの揺らぎもない。
 実際彼がどう感じているかは、聞けないままだけれど。

 火影になったカカシさんは、確かに一人で任務に行くことはなくなっている。だが火影という立場を最大限利用し、仲間は殺させない、と日頃から公言していた通り、冷静かつ粘り強い交渉力を最大の武器として、戦闘になるような事態を極力回避することに全力を傾け続けている。
「だって、この世の中に『必要な戦争』なんて、あるわけないでしょ」
「ええ、ほんとうに」
 この里に、いや世界中に幾千万といる忍の中で、どんな時もこれがきっぱりと言いきれる者は、実はとても少ないのが現実だ。力を持てる者は、本能的にそれを行使したがるからだ。だが例え「弱腰外交だ」とか、「手ぬるい」などという批判の声がどこからともなく漏れ聞こえてこようとも、彼の姿勢が揺らいだことはいまだ一度もない。

 確かあの時は、遅い夕飯を食べながらそんな一連の話をしたあとだったと思う。
 俺達は店を出て、人気のない夜道を家に向かって歩いていた。俺はまだ店での余韻を引きずったまま、「くそっ、手ぬるいってなんだよ。何も知らずに好き勝手言いやがって。言いたいことがあるなら、執務室に来て言えってんだ」などと、不毛なくだを巻いていた。
 自分はカカシさん達が執り行う政務には、直接は関わっていない。時折教育関連について意見を求められる程度だ。里長に就任した際、彼のほうから「将来を担う子供達に正しい教育がなされるためには、教育現場と上層部の間に、常に適度な距離があることが望ましい。イルカは政務にはあまり関わらないほうがいい」と言われて、気になりつつも渋々距離を置くようにしている。けれど、あちこちから漏れ聞こえてくる人々の声までは遠ざけられない。もう随分長いこと黙認していたつもりだったが、ここにきてついに我慢し切れなくなっていた。

「あのさ」
「? ぁはい」
 空耳かと思うほど唐突に響いてきた独り言のような声に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。あぁ、やはりそうだ。カカシさんが続けて何をか喋ろうとしている微かな気配を察し、耳を澄ます。静かだ。さっきまで道端で鳴いていたはずの秋の虫の声までが、息をひそめている。
「最近、よく思うんだ」
 その目元に浮かんでいた穏やかさと柔らかさは、今でもはっきりと印象に残っている。
「――あいつから左目を借りていたことにも、最後の最後で持っていったことにも、オレにとっては全てに意味があったんだなって。…今は何もかも、感謝してるよ」
(カカシさん…)
 彼の唇から、黒い口布を超えて不意に転がり出てきた思わぬ言葉に、まじまじと横顔を見つめる。
 しんと静まりかえった路地に、二人分の小さな足音だけが響いている。そのとき彼に入っていた酒は、最初の一杯だけ。話に熱くなる余り、不用意に杯を重ねすぎた俺の聞き違いとも思えない。
 俺はもっとその話を続けたくて、出来ればその発言の意図にも触れたくて、歩きながら全神経を彼に傾けた。けれど、呆気ないほどその先が続かない。
(カカシさん、俺は――)
 その過去に、どこまで立ち入ることが許されているのだろう?
 もどかしい気持ちを抑えながら、「カカシさんは、当時の四代目ミナト班のみんなのことを、今も本当に大好きなんですね」と続けてみる。と、目尻を下げた彼はほんの短く、小さく、「うん」とだけ頷いた。
 そうして上がっていた額当てを、左手でもって左目へと下ろした。
 たまたま彼の左側を歩いていた俺は、「これ以上のことは、もう何も喋らないよ。ハイおしまい」と言われたような気がしたのを覚えている。
(――全てに、意味があった、…か)
 けれどその時は、そこまでだった。


 その後暫くして、ナルトと三人で飯を食った。カカシさんはどう思っているかわからないが、ナルトと三人でとる食事の時間が、俺はいたく気に入っている。彼もそうだといいのだが。
 ナルトとは彼がほんのガキの頃から、何かと言うと顔を合わせて喋っているが、こうして俺達と肩を並べるほど大きくなっても、話題に困ったり、会話が途切れたりした試しがない。
 思うに俺達忍の中には、日頃は全く気に留めていなくても、どこかに狭いながら深い谷があるのかもしれない。普段は狭いから大股で通り過ぎてしまっているけれど、何かの拍子に足が入ったり、ついうっかりまじまじと覗き込んでしまったり…。
 だがナルトを交えると、どういうわけか自分達の中にそんな谷があることなど、ひととき忘れてしまうのだ。時間は軽々と羽を広げて谷があるはずの地平を離れ、現在・過去・未来を自由自在に行き来しだす。それこそ時空間忍術も真っ青だ。
「んでよ、んでよ! サクラちゃんてば、土に埋められたサスケが首だけ出てんの見た瞬間、ぎぃゃああ〜って叫んで、ばたってひっくり返っちまってよォ!」
「たはっ、カカシさんもいきなりやりますね」
「可愛いもんでしょ」
「あん時のサスケってば、マジおんもしれー顔しててよ。ぷぷっ、今でも覚えてんぜ。なっ、カカシせんせ!」
「ぁ〜〜? そーだっけ〜?」
 ナルトに振り向きざま勢いよく振られると、カウンターに頬杖をついた格好でグラスに視線を落としていたカカシさんが、至極いい加減な調子で答えている。オビトといううちはの少年なら、当時俺も何度も見かけたことはあったが、遠い昔、彼ともこんな調子だったのだろうか、とふと思う。
「でナルト、お前はその後あえなくカカシ先生の罠にはまって、木に逆さ吊りになった、と」
「だはは〜〜、そのとーりーー!」
 一楽と染め抜かれた赤い暖簾の向こうでは、冷たい北風が吹いていたはずだが、暖簾一枚隔てただけの内側は、不思議なほど温かい。
(ぁ…?)
 とその時。カカシさんの空いていた右手指がすっと上がったかと思うと、ごくさりげない様子で右側にちょいと額当てを引き下ろした。その仕草は本当に何気なく、ささやかなもので、すぐ右隣りにいたナルトも全く気付いていない。きっと何年もの間片目が隠れている姿を見てきていたから、何も気にならなくなっているのだろう。けれど。
(写輪眼があったのって、そっちじゃないですよね?)
 しかもそれがなくなって、一年近くが経つというのに?

 その後、最近随分と落ち着いて大人っぽくなってきたサクラといのに街で呼び止められ、サスケを巡る昔話に花が咲いた時も、つい先日ヤマトさんを挟んで、彼が七班の隊長代行をしていた際の笑い話になった時も、カカシさんはごく何気ない仕草で額当てを片側に引き下ろしていた。
(カカシさん……あなた…)
 肝心なことに限ってなにも喋ろうとしない男が、ごく僅か、片方だけ見せている目元に、ヤマトさんと一緒に笑いながらもそっと心を寄せてみる。
 
 くすぐったいんですか?

 火影にまでなったあなたでも、思わず顔を隠さずにはいられないような、くすぐったいほどの記憶と感情が、まだその額当ての向こうにある?


     * * *


「――カカシさん?」
 熱に浮かされたような行為のあと、すぐ目の前で束の間うとうとしていたかと思うと、さっと起き上がって身支度をはじめた男の背中に声を掛けてみる。彼の時間は火影就任以降、倍の早さで回っている。
「?」
「俺…またちょっとだけ、安心しました」
「? なんで?」
 ジャケットに通していた手が止まり、暗がりでじっとこちらの返事を待っている、気配。
 上忍時代より一層勤勉になった感のある恋人に向かって、頭も布団もクシャクシャのうえ、こんな素っ裸のままで言うことじゃないかもしれないけど。

「カカシさんのことが大好きな自分を、また確認できたんで」
 
「――ん」
 数拍後。ほんの小さく頷いてみせた男は、寝室を出て行く直前、また右側に額当てを下ろした。
 お陰で扉が閉まる際も、彼の表情は全く窺い知れなかったのだけれど。

(これからも、その仕草)
 どうか、どうかずっと見れますように。
 そう願いながら、まだじんじんと余韻の残る体に熱いシャワーを注いだ。



                癖 -KUSE-  fin


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