うらうらとした陽気に誘われて、窓の外を幾つもの白い蝶が舞い踊っている。芽吹きはじめた木々の枝では小鳥たちが忙しなく鳴き交わし、少しだけ開けた窓からは、カーテンを揺らしながら入ってきた風が、花の匂いを運んできている。
 向かいのテーブルでは、黒髪の男が熱心にテストの採点をしている。ソファに長々と寝転がったオレは、その光景を横目に見ながら、愛読書に目を通す。
 久し振りに訪れた、二人だけの正しい休日。正しい午後。
 けれどこんな時に限って、それを覆そうとする輩が現れるのもまた常で。
 そう、オレの予感はよく当たる。
 おおむね、悪い方に。


(――来た、ね?)
 遠くから、脇目も振らずにまっすぐこちらに向かってくる者の気配に、寝転がったまま感覚を研ぎ澄ます。
(――ハァ〜〜…そうですか…)
 恐らくは、いっとう最初にアカデミーに寄り、いないとみるや執務室へと回り、そこでもないと知るやここへと進路を向けたのだろう。実にわかりやすい。
「…ん?」
 とそれまで真剣な表情でテスト用紙に向かっていた男も、ふと顔を上げた。どうやら彼も気付いたらしい。何も言わずに椅子から立ち上がると、冷蔵庫に向かって歩き始めている。
(あらま、用意のいいことで)
 付き合い始めた頃から使っている冷蔵庫には、住人はまず口にしないような甘ったるいものが、当時から常に複数入っていて、今もかなりのスペースを占領し続けている。それはそのまま、買い物担当者の気持ちそのものだ。
(でもアイツもいい加減、いい年なんだからさー)
「他人の家に上がり込んで居座る際には、手土産の一つくらい持ってこい!」と教えてやりこそすれ、こっちはもうそこまでしてやらなくてもいいと思うんだけどー?
(やらずには、いられないんでしょ)
 見てればわかる。見なくても。

「ちわーーっす! おれだってばよっ!」
 玄関で呼び鈴より遥かに大きな声が響くと、イルカがよく通る声で「おーう、開いてるぞー!」とタイミングよく返す。その頃には、あれほど散らかっていたテーブルの上もあらかた片づけられていて、グラスに注がれたオレンジジュースが、「いつもの場所」に置かれている。
(もーー、そこ普段はオレが座ってるとこなのにー)
 どーしていつもそこに、当たり前のようにアイツを座らせるわけ?
 イルカ先生の、いじわる。

「うっス、カカシ先生!」という声に、寝そべったまま空いていた片手をちょいと上げて応えると、それでオレへの挨拶は終了。もうそこから先、彼はこちらに背中を向けたまま、視線の殆どは目の前の元恩師へと注がれたままになる。
(まっ、こっちとしてはー?)
 その方が二人を観察しやすいから〜? いいっちゃいいけど。

「で、今日は、どうしたんだ? ん?」
 その元恩師はというと、自身で淹れた茶には手を付けることなく、ミカンなど剥きながら、さり気なく水を向けてやっている。そんなことまでわざわざ聞いてなんかやらなくたって、子供じゃないんだから自分で考えるってのに。
(それにそのミカン)
 白い筋まできれいに剥き終わったら、「ほら、これも食え」とか言って渡す気でしょ。
(オレには武器として使ったりするクセに〜)
 しかも高速で次々投げつけられる全てを傷まないようにキャッチしないと、「食べ物を粗末にするんじゃないッ!」とか本気で怒るって、おかしくない?!
 この家では、オレがソファから一歩も動かず、無言のままこうしてあれこれ巡らしているだけで、大抵の来客者は何となくでも居心地が悪くなるものらしい。例え口には出さずとも、不穏な空気を察してか、長居は無用とばかりに退出する者も少なくないのだが、この大きな子供だけは別だ。不思議なくらいそんな気配には全く気付くことなく、自宅同様…いやそれ以上の気安さで泊まっていったりする。流石に嫁さんを貰ったらそんなこともなくなるだろうと思っていたが甘かった。というか大誤算もいいところで。いまだにこうして定期的にふらりとやってきては、オレとイルカの間で大の字になって一晩中大いびきをかいたりして、大切な夫夫生活を台無しにしてくれている。
「お前な、いい加減にしないと、そんなんじゃあっという間に嫁さんに愛想つかされるぞ?」と、これまで何度口に出かけたかしれない。だが常に冷蔵庫をぎっしりにして待っている男のことを考えると、何やらそれも憚られる。納得いかないったら。
「うーん、まぁそんな大したことじゃねぇんだけどよー」
 金髪の青年は出されたジュースを旨そうに一気飲みすると、いつもののんびりした調子で応えている。
(あぁそ。じゃさっさと帰って頂戴)
 所帯を持った一人前の男なら、いつまでもガキみたくベタベタしないで貰いたい。
(でないと、この人がいつまでたっても弟子離れ出来ないでしょ?)
 さっ、用がないんなら帰った帰ったぁ〜!
「その〜――赤ちゃんてよ、どうやったらできんだ? わぁっ?! イルカ先生っ?!」
 直後、淹れたばかりの緑茶が勢いよくテーブル一面に走って、ナルトが椅子を蹴立てて立ち上がった。
「うわわっ悪い! あぁすまん! いや待てナルト! 熱いから触るな、いいから離れてろ、な!」
 男が黒髪を跳ね上げながらあたふたと台所に布巾を取りに走っていく。その後ろ姿を横目で見ながら、のっそりとソファから体を起こした。
(おやおやおや〜〜?)
 招かれざる客が立ち去るまでは、ずっとこのソファで過ごすつもりでいたのだが。
(なーんか、オレの出番、回って来ちゃったみたーいね?)
 まっ、その質問については元師匠として、清く正しく教えてやらねばなるまい!


 テーブルに転がったイルカ模様の湯飲みを起こし、更に隅の方に追いやられていた可愛そうなへのへのもへじの湯飲みにも追加で茶が注がれる。
「ふー、なんとかギリギリセーフ! あーあーもーイルカセンセってば、なにやってんだってばよ〜」
 脇にどけてあったテスト用紙の束を、父親譲りの見事な瞬身で持ち上げた元生徒が、やれやれといった様子で見下ろしている。殆どラーメンしか食べてないくせに、最近の若いヤツってのはどうしてこう縦にばかり体が伸びるのかね。
「…いやすまん、悪かった、…ハハ…ハハハ〜…」
 対するイルカは平身低頭。よく動く眉をすっかりハの字にして盛んに謝っている。これではどっちが元生徒かわからない。
 やがて、ホカホカと湯気をあげていたテーブル一面の茶が拭き取られると、イルカは何度も咳払いしながら、随分と小さくなってうつむき加減で席に着いた。住み慣れた自宅なのに、その仕草は何ともぎこちないことこの上ない。オレからしてみれば、そんなふうにあからさまに恥ずかしがって茹で上がってるほうがよっぽど恥ずかしいと思うのだが、当人はそこには思い至らないらしい。
(まっ、そーゆーとこは? 相変わらずカワイイんだけどねぇ)
 これが高速ミカン爆弾を投げてよこすあの男と同一人物とは、とても思えない。オレはそんな恋人の様子がよーっく見えるよう、ナルトの隣に立ったまま観察を続けることにする。
「んじゃ、改めて聞くが。ナルト、お前は子供の作り方が知りたい、と」
 まともに喋れなくなってしまったイルカに代わり、改めて本日のメインテーマをテーブル上に載せる。それはもう、これ以上ないくらい堂々と。
「ああうん。ヒナタに『子供何人欲しいんだ?』って聞いたら、『たくさん』ていうからよ」
「ほーー、そりゃタイヘンだ」
「んあ? そうなのかぁ? イルカ先生?」
「ゃっ…?! …たっ、大変ていうか…っ、……だなぁー…」
 俯いたままのイルカのほうをチラ、と見ると、首の辺りまで赤くなって、テーブルの下で組んだ両手を盛んにモジモジと落ち着きなく動かしている。テーブルでぽかんとして、頬杖をついたまま眉一つ動かしてないナルトとは大違いだ。
 この金髪青年は、以前から自来也さんのハードコアな小説を読んでも全く意味を解さないような男だったから、そもそも「セの字」すらもわかっていない。一時はその余りの無関心さに、女には興味のない性指向なのかと思っていたくらいだが、そうでなかったことは半年ほど前に判明している。その感じは無粋とか、朴念仁とか、おぼこいとかいうのとも違うが、自来也先生を虜にし、目の前の男を鼻血ロケットにするようなお色気の術は会得しているクセに、むしろよくぞここまで何も知らずに来たなと、感心しているところだ。
「お前、嫁さんとは一緒の部屋で寝てるのか?」
「あー? そりゃ寝てんぜ?」
 それがどうかしたかと言いたげな青年の向こうで、赤い顔のイルカが盛んにこちらに目配せしている。
(んー? なになに? 「なにもわざわざそこまで突っ込んで聞く必要ないだろう」って?)
 この男の考えていることなど、手に取るようにわかる。特にこういった「お題」なら尚のことだ。
「あー、さてはお前がいつも先に寝ちまってるな、ナルト」
 この家に泊まっていく時もそうだ。布団に横になった途端、それこそ電気を消す前から電池でも切れたみたいに寝入っていたりする。寝る子は育つとはよく言ったものだ。伸びた要因はラーメンではなく、こっちだったらしい。
「ヒナタは次の日のメシの用意とか、縫い物とか? なんかあれこれやりたいことがあるとかでよ。まだ寝ねーのかって聞いても、いっつも先に寝ろっていうから寝てっけど?」
「――っ…」
 イルカは羞恥の嵐の中でも、何かしらの思いが口先まで出かかっているらしい。盛んに口元をパクパクと動かして、手元とナルトを交互に見ている。そんなに言いたいことがあるなら、はっきり言ってやればいいのに。
(言わないんなら、好きに言っちゃうよ〜?)
 オレは別に、こいつのことなんて言うほど心配してないしー。
(お邪魔虫はさっさと帰して、二人だけでこの話の続きとかもしたいしね?)
「――まっ、そういうことならだいじょーぶでしょ。そんなの電気消して、まずは一緒に布団」
(?!)
 瞬間、背後から口布越しにいきなり口を押さえられて、ギョッとする。
(いっ…イルカ、せんせ…っ?!)
 後ろから完璧なまでにがっちりと羽交い締めにしたうえ、驚くような力でもって口を塞いでいる男に目を剥く。けれど向かい側を見ると、もう一人の黒髪が、何事もなかったようにナルトの前で後頭部をガリガリ、鼻傷をポリポリしている。
(ちょっ……?! こっ…こわっ…?! なにっ?!)
 いつ印を結んだのか、全く見えなかった。油断とか、そういう問題じゃない。きっと写輪眼があったとしてもわからなかっただろう。恐るべし、中忍の恥力。
 しかもナルトが何とはなしにこちらに振り返った頃には、もうそこに青筋仕様のイルカの影はなく。
「ぁ? 一緒に、なんだってばよ? カカシセンセーってば、なんかまたテキトーなこと言ってねぇ?」
(ゃまたってね…)
 結局オレには、どこまでいっても無垢…もとい無知な元弟子の疑いの目だけが注がれることになる。
 挙げ句の果てには、「カカシセンセーってば、子供いねぇのに怪しい」まで言われて、おおそうか、これはやはり実演しかないなと思う。
(ヤ思うだけ!! 思うだけでしょっ!)
 だが再び矢のように放たれたイルカのギラリに、ナルトの後ろで両手を胸元で小さく挙げて見せる。白旗白旗! ホラ見て白旗!
(――まっ、今に始まったことじゃないけどね…)
 オレがこの二人に、これっぽっちも信用されてない件については、改めてよくわかったとして。
(もーアンタねぇ)
 案の定「ミカン剥いたぞ、ほら食え」などと勧めている男の目元をじっと見つめる。
(どんだけコイツのことが可愛いのよ)
 ここまでくると、過保護もいいところだ。
(もうとっくに手元からは飛び立ってるっていうのに…)
 頭では、わかってるのに。
 それでもその、もはや自分ではどうしようもないほどの強い離れがたさこそが、親ってもんなのかもしれないな、と思う。
(式場で延々泣いてたの、アンタ一人だけだったしね)
 そして、何とかして火影の座を今よりもっといい形で継がせたいと、もう何年ものあいだ腐心し続けている男も、この世に一人だけだろう。


     * * *


「――いいか? 帰ったら嫁さんにちゃんと言うんだぞ。『大好きなお前との子供が早く欲しい』って」
 玄関で靴を履いている背中に、もう一度念を押す。案の定泊まっていきたいと言いだしたナルトに、「早く子供が欲しいと思ってるなら、今夜はやめておけ。これからもなるべく夜は起きていて、嫁さんと一緒に布団に入るようにするんだ。いいな?」と諭していたところだ。
「ホントにそれだけで、いいのか?」
 相変わらず何もわかってない青い瞳に、不覚にも(確かにここまでくると可愛いかもしれないな)などと思ってしまう。いよいよオレも焼きが回ったか。
「ああ大丈夫だ。心配するな」
 一つ、大きく頷いてみせる。
(そうすりゃ、嫌でも伝わるでしょ)
 伝わらなかったら、その時こそは公開実演ってーことで♪

「――そっ…それと、だなぁー…」
 脇に立っていた男が何か言いかけたものの、またもや詰まっている様子に、(あぁなるほど、確かにそれは言っておく必要があるか?)と、何となく思い当たった節を付け加えてみる。
「あーそうそう。それとだな。奥方に、『今日はダメ』って言われた日は諦めろ。潔くな」
(これで、いいんでしょ?)
 隣の男に、頭の中で問いかける。
 いずれにしても、今夜は思わぬネタが降臨してきてくれたお陰で、いつになく盛り上がりそうで楽しみだ。最近何となくマンネリ化してきていたのが、ちょっと気になっていたところだった。無知な弟子がこんなところで役に立つとは。
「はあ? 諦める? なんかよくわかんねーけど、ダメならそりゃ仕方ねぇってばよ?」
 この青年、聞き分けがいいのは助かる。何度考えても意味のないこととは知りつつも、殆ど何も喋らないまま里を出ていったきりのあの元弟子のほうに、この聞き分けの何分の一かでもあったなら…と思わずにはいられない。
「それとだなぁ、ナルト」
(ん? まだ何か、あったっけ?)
 急に顔を上げたかと思うと、随分ときっぱりとした声を上げた隣の男が、一体何を思っているのかわからない。はて? まだ言い忘れていたことがあったか?
「さっき、『カカシ先生は子供がいない』なんて言ってたがな」
(? はぁ?)
「お前達が、いるだろうが」
(――イルカ…!)
 不覚にもこみ上げてきた予想外の嬉しさに、(参ったな…)と思う。この際だ。「焼きが回った火影の何が悪い!」と開き直ってみるのも悪くない。
「おうっ、そうだったってばよッ!」と明るく肯定して駆けだした青年の後ろ姿を、二人並んで玄関で見送る。
 その目に馴染んだ後ろ姿がどんどん遠く、小さくなっていく中、隣に立っていた男が小さく、「――まったく…」と呟く。
 その声は傍目にもちょっぴり寂しそうで、なぜかほぼ反射的に茶化したくなった。
「誰に似たんでしょ」
 少なくともミナト先生ではない気がする、というと。
「ははっ、確かに! ああしてナルトが産まれてるわけですからね?」と、こちらの意図を汲んで朗らかに笑っている。
(よかった…)
 可愛い息子がとうぶん泊まりに来ない、なんていう理由で落ち込んで貰っていては、こちらの「夫夫」生活に支障が出かねない。
 少々不本意ながら、「孫が出来たら、あなた今以上に溺愛する気満々でしょ」と振ってみる。と。

「ははっ、わかります〜? やー名前はどんなのがいいかなぁ〜」と、いともあっさり「宣言」が返ってきて、苦笑しながら扉を閉めた。



 その後。
 いつもと同様、何の前ぶれもなくやってきた青年の口から、「おれ、父ちゃんになるんだってばよッ!」と聞かされたのは、それから数ヶ月後のことだった。




              「センセイおしえて!」 fin


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