(――は……そうか…そうだった、な…)

 目覚めた時、いやにしんと静まりかえった部屋にハッとしたが、すぐにそれが自宅の寝室だと気付いて心の中で苦笑いする。また現地の夢を見ていた。ここ何日か、似たようなパターンで目が覚める日が続いている。
 事故から三週間。ようやっと出国手続きを終え、退院の許可を得て帰国することが出来ていた。
 お世辞にも衛生的とは言えない現地での入院生活は、辛いことも少なくなかったが、退屈はしなかった。そんなことをしている間を、己に与えたくもなかった。
 少し落ち着いてきて周囲の状況が見えてくると、病院の相部屋はその国の縮図といってよく、入れ替わり立ち替わりする患者達と、英語の分かる者を介しては、日々興味深い会話をして過ごした。
 いま枕元には、現地の公用語を学ぶための教科書や辞書が数冊積んである。
 夢の中で現地の言葉を喋るようになるのは、まだ随分先のことだろうが。

 帰国してから暫くは、此度の後始末と通院に忙殺されきっているうちに数週間が過ぎ去っていた。左目の怪我も包帯は取れ、鏡を見るたびにギョッとしていた事故当時と比べれば、随分とよくなりだしている。
 今回、不幸中の幸いだったのは、事故に遭ったのがオレとオビトだけで、プロジェクトの核を実質的に担う他の技術者達は無傷だったことだ。
 二人が戻らなかったことから異変を察知した彼らが、そのまま無事帰国して政府に掛け合ってくれたお陰で、オレは二次被害に遭うこともなく、ある程度まともな治療を受けて、何とか帰国することができていた。
 出国前、あれ程この島国の反映を、一歩引いた斜め方向から冷めた目で見ていたというのに、帰りついてホッとしているとは現金なものだ。いつの間にか、自分はそれだけこの地に根を下ろしはじめていたということか。
 ただ、その後どんなに手を尽くしても、いまだオビトの行方だけはわからないままだ。
(いや、もしかして、やっぱり…)
 最近になっていよいよ浮かぶようになってきた「新たな可能性」を、再び思い浮かべる。
 彼は自ら行方を断っている、ということはないだろうか。
 つまり、『自主的に反政府軍や多国籍軍の目から隠れている』。もしくは『あえて死んだことにしている』。
 でなければ、生死すら分からないというのはおかしい気がするのだ。納得できない。
 ふと事故の直前、訊きかけていて訊けずじまいになっていた言葉が脳裏を過ぎった。
『オビト、お前は本当に、最初から生粋の船乗りだったのか?』
 こうなって改めて、彼の「本当の経歴」が気になりだしていた。
 オビトは確か、『サスケ達のいるテントに、反政府軍が来ていた』と言っていたが、ではなぜ今は来ていないのだろう?
 今まさに無差別テロの兵器として利用されようとしていたナルトを、直前で救って逃げ出したとも言っていた。だが果たしてそんなことが、通りすがりの丸腰の一般人に「偶然」出来るものだろうか?
 だが、例え彼の背景や過去がどうだったとしても構いはしない。
 生きてさえ、いてくれれば。
 怪我を負ったのが政府から派遣された正式な職員でなく、フリーの立場を貫き通していたオレだったことで、プロジェクト自体も停滞することなく進行している。
 とにかく、オレの怪我については快方に向かいつつある。あとは時期を見て、オビトの無事を確認しに現地に赴くだけだ。彼の携帯は相変わらず繋がらないが、定期的にメッセージは残し続けている。
(きっとアイツは聞いている)
 オレは今も、そう信じている。


 話が前後するが、まだ都内の病院に頻繁に通院している最中、一度だけ彼女――夕香と会った。彼女からの電話に久し振りに出たところ、オレの静止の言葉を無視する形で彼女の方からマンションに訪ねてきたのだが、一階に下りていって自動ドアのガラス越しに対面したのが最後となった。
(だから言ったのに…)
 振り返る素振りすら見せずに走り去っていく後ろ姿を見送りながら、その幕切れの余りの呆気なさに、以前あれだけ揉めたのはなんだったんだかと独り笑いした。

 そうそう、一昨日は、例のフリーライター志望者の飲み会に呼ばれて、久し振りに顔を出してもいた。皆オレの顔を見るなり一斉に絶句して退いていたが、何だかそのリアクションも面白いなと思ってしまった。一旦そのことに興味が湧いて観察していると、各自それなりに言い分も個性もある。
「畑よォ、残念だけど、その顔じゃもうTVとか社長代表系は無理だろうな…」と言った奴には、「そうねー、フリーで良かったーねー」と笑った。
 他にも「何であんなオイシイ仕事軒並み蹴って、船に乗ったり戦地に行ったりしてるんだ? んなことやってても、何のメリットもないだろ」とか、「経済界に嫌気がさしたのか? でも今時『男のロマン』じゃ飯は食えないぜ?」などと、口を揃えて呆れられてしまったのだが。
「意外とそうでもなーいよ?」というのがオレの偽らざる見解だったりする。
 そう、この世界は、まだまだ無限に繋げられる。
『そうかな? むしろオレは全く違う分野を見だしたことで、自分が身を置いていたこの世界が、ロマン溢れる面白い分野として映りだしたけど?』と正直に言ったけれど、それが彼らにどう受け止められたかまでは分からない。

 帰国した際には満開だった桜も、今ではすっかり若葉へと移り変わっている。プロジェクトメンバーからの連絡によると、現地で撒いた麦の大半が芽を出し、村人総出で麦踏みを始めているという。
 当時はどうなることかと思っていた不安材料が一段落しだすと、いよいよあの男のことが気になってきだした。
 今頃あの山はどうなっているだろう? まだそこここに雪が残っていたりするのだろうか。
 あの人はオレのことを、まだ覚えてくれている?




 
七、山笑う



(良かった…流石にもう雪は消えてるんだな)
 急な細い山道を、右へ左へとハンドルを切りながら安堵する。念のためにとスタッドレスは履いてきたが、雪斜面はいまだに未経験で心許無く思っていたところだ。
 風雪に削られ、荒れ果てた道路の感じは秋に見た時のままなのに、そのことがかえって鼓動を早くする。


「――こんにちは、お久し振りです。お元気ですか」
「…おお……これはまたなんと…」
 いつ、どんな時も柔和な笑みを絶やすことの無かった翁が、こちらに気付くなりさっと顔を曇らせている。その表情を見た途端、(そうか、自分は身の丈に合わない無茶をしてしまったのだな)と改めて内心で猛省する。胸の奥が痛い。

 生活に支障はないのかと聞かれ、「はい、もうすっかり馴れました」と答える。「足腰も幾らか鍛えたつもりなので、今度来るときは下の河原の所に車を置いて、歩いて登ってきますね」と、一つ頷いて見せた。
「そうか。ご苦労なすったようじゃの」
「いいえ。それより久し振りに伺ったのに、何も持たずにすみません」
 ここに行くと決めてから暫くは、何を持っていくべきかで悩んだ。でもやがて、訪ねるたびに高価な物を持っていくというのも違う気がしだしていた。
「いや、要らん。何も要らんよ」
「酒なら幾らでもあるわい」と笑っている。山は物が乏しいなどという考え自体、改めるべきだろう。少なくとも、ここの山は違う。
「これからイルカと一緒に沢山山菜を採ってきますんで、良かったらまた召し上がって下さい。丁度、季節なんでしょう?」
「そうじゃな。そうしたら、今度こそここの囲炉裏で飯を食うていくんじゃぞ?」
「はい、ありがとうございます」
「密造酒、楽しみにしてます」と口端を上げると、「バレたか。なら仕方ないのう」と事もなげに笑っている。
「あと、縄を綯(な)ってみたりとか、竹籠も編んでみたいんですが。もちろん他にも自分で手伝えることがあるなら、何でもやらせて下さい」
「ほう? そりゃあまた物好きな」
「あれから折に付け色々考えてみたんですが、自分はこの何年間か、仕事に使う原稿やデータ以外、何一つ作ってないんです。もう何年もですよ? この手は他に何が出来るのか。どんなことでもいいんです。とにかくやってみたいんです」というと、翁は「喜んで」と頷いて、深い皺の刻まれた目尻を優しく下げた。

「イルカなら上の小屋に戻っておるよ」と言われ、「では行ってきます」と会釈する。その後ろ姿を、翁はまだ冷たい山風の吹く玄関先で、長いこと見送ってくれた。

 三代目と、彼のまわりの黒光りした柱や囲炉裏は、半年前に見たときと殆ど変わらぬように見えた。けれど。
(あの人は…どうだろう?)
 半年前、初めてこの獣道をイルカと一緒に登ったとき、自分は余りの急坂のせいで息が上がり、まともに頭が回らなかった。
 だが今では周囲の景色を見渡しながら、足元に咲いた小さな野花を見て回れるほどの余裕が生まれている。



 果たして男は庭にいた。
「久し振り」
 ちょいと片手を上げながら声を掛けると、鍬を振り上げていた両の腕が固まっている。
「ぇ…はたけさん?! ――カカシさん!!」
 だが叫んで一目散に駆け寄ってきた男の眉が、目の前で立ち止まるや、みるみる寄せられていく。
「…どうしたんですか、その、目…」
「ん、ちょっと、ね」
 思わず気持ち顎を引き、前髪を触って下ろす。そんなことで隠しきれるものではないけれど。
「俺の顔…見えてますか?」
 慎重な声で、開いている方の目と交互に見つめている。 都会の人々は、オレの目立つ怪我を目の当たりにするとどこか遠巻きにし、当たり障りのない会話に徹して、正面からストレートに聞いてくる者は一人としていなかった。でもここの人は違う。その強く優しい真っ直ぐさに触れるたび、温かいものが胸の奥に広がっていく。
「大丈夫、右は何ともないし」

 ふと、鍬を持ったままのイルカの手に気がついて、じっと見つめる。
「? どうか」
「いや、オレもね、少しは近付けたかな、と」
 そして「あれから色んな所にね、行ったんだ。後で話すけど」と言いながら、男の前に傷だらけの荒れた両手を広げて見せる。すると、最初意味が分からないといった様子でぱちくりしていた目尻が、次第に柔らかい曲線を描きながら下がりだした。
「――お帰りなさい」
 そして何か眩しいものでも見るような目で、「あの観音様、あれからまた少しだけ彫ったんですが、見て下さいますか?」と言った。


 相変わらず背筋のぴんとした姿勢の良い男が、奥の部屋から持ってきた紫色の風呂敷を解く。途端、そこに浮き上がった無数の光と影に、ふと胸を衝かれていた。
 秋に見た時はまだ木取りの段階で、平らな面に黒い墨が縦横に走っていただけのはずだ。だが雪に閉ざされた三代目の元で長い冬を過ごすうち、墨や平面といったものはどこにも無くなり、朧気ながら人の形が見て取れるようになっていた。
「結構、進んだじゃない」
「はい」
 くる日もくる日も降り続く深い雪に閉ざされている間、この男はこれを彫りながら、冬の底でどんなことを考えていたのだろう?
 何となく、本当に何となくではあるものの、木の中から人が一歩進み出てきたような気配に、まだ荒いその凹凸をじっと見つめた。

「ね、千手観音って、本当に千本腕を作るの?」
 以前から気になっていた、素朴な疑問を投げかけてみる。
「いえ、このサイズですと物理的にそれは無理です」
「そうなんだ」
「菩薩様は一本の腕で25有の世界の生き物を救うという考えがあるので、40本にしてあることが多いんです。これも本体を彫り上げた後で、腕の部分を40本継ぐつもりです」
「なるほど、25×40で千ね。――ま、それならオレも、付き合えるかな」
「ぇ?」
「ねえ、お願いが、あるんだけど?」
 男の方を向いて、目を見ながら訊ねる。
「はい?」
「これからも、時々この仏像の進み具合を、見に来てもいいかな?」
「えっ…? …ぁ、はい!」
「ただ定期的にとか、次回はいつ、とは言えないと思うけど。仕事が一段落する合間を縫って、こんな風にひょっこり見に来ても、構わない?」
「っ、はい! もちろんです! いつでも、本当にいつでもいらして、泊まっていって下さい」
「ホントに? オレ多分、よぼよぼの爺さんになっても、来るよ?」

「ええ。――ずっと、待ってます」



 その後、二人で話をしながら外に出た。木々の間を抜けていく風はまだ冷たいものの、降り注ぐ光には浴びていたいと思わせる温もりと匂いがあった。

「ねえ、覚えてる?」
「はい?」
「去年魚を釣りに行った時にさ、イルカが『生きてるっていうのが、どういうことか分からない』って言ったこと」
「ぁ……ええ、ええはい!」
 途端、長年抱き続けた疑問が解けるのかもしれない、という期待に、イルカの瞳がみるみる輝きを増していく。好奇心で一杯になった胸を躍らせているその様を見て、素直に羨ましく、眩しく、そして同時に一抹の切なさにも似た何かを奥底に感じる。
「あれね、悔しいけどオレも分からない」
「…ぇ」
「これでも、随分考えてみたんだけどね」
 自分なりに考えたというのは本当だ。今になって思えば、自分が折れそうになった時には、そればかり考えていたといっていい。

 自分にとって、その問いがどう難しかったのか。今まで遠い異国の片隅で、どんな風に考えてきたのか。
 話そうと思えばその先、幾らでも続けることは出来たのだろう。
 けれどそれらは全て、イルカがとうの昔から何百回、何千回となく、この山の中で繰り返し考えてきたそれと同じことように思えた。だから今ここで、敢えてそれらを声に出して、なぞっていく必要などない気がする。

「オレも、分からないよ」
 物書きとしてちょっと癪だけれども、まだまだオレにはこれだという言葉が見つけられそうにない。
 するとイルカは驚いたように目を丸くしたかと思うと、意外にも笑顔でもって、静かにひとつ、頷いた。
「? なんか、嬉しそうね?」
「ええ、はい。――そうですね」


 全て枯れたとばかり思っていた無数の木々の小枝が、水色の空に向かって一斉に萌黄色の葉を広げだしている。
 その様をじっと見つめているイルカの横顔は、去年の記憶と何ら変わることなく…いやそれ以上に、とても晴れやかで穏やかだ。
 まるで、訳の分からないものが、分からないまま今もそこにあり続けることを、喜んでいるようにすら見える。
 
「笑ってますね、山が」
 言われて、重なりあいながら霞んでいる前方へと視線を向ける。

「ぇ? ――あぁ。ほんとだ」

 山が、笑っている。
 確かにそう感じている自分が、今、あなたの側にいる。





                      「山笑う」 了



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