(――ぅ……うぅ…)
 体のあちこちから、ひっきりなしに押し寄せてくる痛みで目が醒めた。とても自失などしていられない、酷い痛みだ。
 全てが一斉に戻ってくると同時に「意識が途絶える前の記憶」も否応なく蘇ってきて、(これはまずいことになった)という、焦燥感と自覚が頭の中を渦巻いている。どう頑張ってみても左目が全く開かない。
(くそっ…)
 それでもまだ意思の方が勝っていて、痛む体を無理やり引き起こした。いつになく狭い視界に映った場所や、忙しなく動き回っている人物には全く見覚えがない。恐らくどこかの病院だという以外、何ひとつ手掛かりはない。それでも今すぐ、何としても確認しておかねばならないことがある。
 掠れ声ながら真っ先に唇をついて出た言葉は、「オビトはっ? 生きてるか?!」だった。


 何が起きたかなら、概ね分かっている。
 車で事故を起こした。いや、起こされた。誰が見ても完全な貰い事故だ。――日本なら。
 テロの現場に到着し、とりあえずはオビトの言うまま、車から下りることなく渋々前の道をゆっくりと移動した。既にラジオで第一報を聞いてから、4時間以上が過ぎている。現場となった高級ホテルの1階は、飛び散ったガラスや瓦礫で惨憺たる状況だったが、大まかな事後処理は早くも終わっているらしく、現場に目立った混乱はなかった。
 それどころか、もうはやそんな物騒な事件などなかったかのように、粉々に割れて吹き飛んだ正面玄関の前を、大勢の人と車が平然と行き交い始めている。ファインダーの向こうに、爆弾テロが日常と化している国の素顔を垣間見た気がした。
その混雑ごと、ビデオカメラを片手に移動しながら撮っている最中だった。瓦礫の散らばった一角に、黒い民族衣装を纏った女性が蹲っているのに気がついてズームした。見ると手に数本の花を持っている。その姿を見た時には、パワーウインドのボタンを押していた。直後、車内に流れ込んできたきな臭い匂いにはっとする。すぐさま運転席のオビトが「やめろ、早く閉めるんだ」と言い出した。さらに彼が手元のウインドボタンを操作して閉めだした気配に、一頻り言い合いになる。が、こちらもボタンから指を離すことなく、「声が入るから少し黙っててくれ」と後ろ手に制してカメラを回し続けた。
 とその時だった、蹲っていた女性がこちらに気付いて立ち上がった。ファインダー越しに、目が合うのがわかる。直後、黒い民族衣装を纏った彼女はその場でカメラに向かって両手を広げ、片言の英語で「お願い、この真実を、必ず世界中に広めて!」と叫んだ。
 背後のオビトは、もう何も言わなかった。黙ったまま車を走らせた。

「オビト、Uターンして。もう一度だけこの道を通ってくれ」
 パワーウインドを上げて、運転席の男を見やる。だがその横顔は、もはや返事など聞くまでもないといった様子だった。
「無駄だ。戻ってきたら反対車線だ。詰まった車が邪魔で撮れまい。やめておけ」
「それなら心配ない。今度は広角で全体像が取りたいんだ。あと一度でいい。頼む」
「ダメだ。諦めろ」
 その時のオビトは、もう既に空港に戻る気でいたと思う。もちろん今しがた見た光景を忘れ去りたいわけでも、否定したいわけでもなかったはずだ。だがそのどこまでもきっぱりとした声は、もはや約束の10分すらかける気はないといった様子だった。

 国際免許に書き換えてきていたのだから、自分が運転席に座るべきだったかと後悔している間にも、車は空港に向かうべく次の交差点を曲がっていく。が、すぐにまた次の渋滞につかまった。
 いつになったらこの渋滞を抜けられるかわからないのに、車内の空気はいつまで経ってもほぐれていかず、早口なカーラジオだけが二人の空間をとりなし続けている。船乗りとして乗船していた時のオビトはとても陽気で話し好きという印象だったが、今は別人のようだ。彼にこんな一面があったとは。
 だがオレは、出国前にどうしても訊いておきたいことが1つあった。そこでもし今のようにだんまりを決め込んだり、はぐらかそうとしたりしても、時間ならまだまだ嫌になるほどある。むしろここなら邪魔の入らない、またとない機会といえた。納得いく答えが返ってくるまで、問い質してみるつもりだった。自分には訊く権利があるはずだ。

「なぁ、オビト」
 前も後ろもすっかり詰まりきっている渋滞の最中、サイドミラーとバックミラーを交互に見ている男に訊ねる。ここを抜けるには、ただひたすら待つしか方法などないというのに。
「…なんだ」
 またじりじりと、少しだけ車列が動く。遠くの信号が黄色から赤になったのが見える。
「最初に会ったときから何となく気になってたんだが。…オビトお前、船乗りにな」
 と、その時だった。
(?!)
 右側の脇道から走ってきていた四輪駆動車が、なぜか一切スピードを落とすことなく、そのまま真っ直ぐこちらに向かってくるのがオビト越しに見えた。
「!」
 向こうの車内ではモスグリーンの民族衣装を纏い、目だけを出した者がハンドルを握っているのがわかる。続いてオビトの方を向く――と、オレに呼ばれてこちらに意識を向けたせいで気付くのが遅れ、ようやく今になって危険を察知した口元が――息を呑んだのが見えた。



    * * *



「――…うう…っ…」
 長く呻きながら、詰まっていた息をそろそろと吸った。ほんの少し動こうとするだけで、髪の毛の中からばらばらと何かが落ちてくる。薄く目を開けると、粉々に砕けて飛び散ったフロントガラスの四角い粒だった。真横に傾いてぽっかりときれいに開いた空間から、大勢の通行人が遠巻きにして様子を伺っているのが、不自由な視界に映っている。
 運転席のドアに衝撃があるまでは、まるでスローモーションを見ているようだった世界が、耳を劈くような怖ろしい衝撃音と振動ののち、一変していた。
「――ォ、ビト…、…っ、だいじょ…ぶ、か…」
 横倒しになったひしゃげた車内で、シートベルトに半ば宙吊りになっている男に、咳込みながら問いかけた。が、返事がない。瞬間、ザアッと血が逆流した。いつにない大声で、二度、三度と声を掛け続ける。と、こちらに向かって不自然に投げ出されていた腕が、「うるさいぞ」という掠れ声と共に、ぷらんと動いた。
「っ…オビト…!」
(よかった、生きてる)
 だが安心している場合ではない。直接ぶつかられた側のオビトの方が、遙かに怪我が重いはずだ。混乱の最中、これは一刻を争う緊急事態だと認識した時、現地特派員の経験者が言っていたことを思い出していた。
『もし突発的な事件事故に遭っても、警察は絶対にアテにするな。病院の手配をして貰いたければ、その場に居る者に金を渡したほうが、まだ何とかなる可能性が高い』
 いまだに何がどうしてこうなっているのか、殆ど事態が呑み込めないまま、なんとかして手足を動かそうと試みる。だが可笑しいほど体に力が入らず、ぶるぶると震える手指はただの1本すらまともに動かせない。
(…あぁくそっ…動け…!)
 まずは何としても、ここから出なくては。
 どこからか流れてきたものに赤く染まっていく目の前の四角いガラス片を、無我夢中で払いのけた。


(――…はずだ)
 だがそこから先の記憶は、次第に曖昧なものになっている。横倒しになった車から這い出すのを手伝ってくれた通行人に金を渡すと、瞬く間に周囲から人が集まってきて、現地の言葉で何事かを声高に話し始めた。オビトの救出をどうするか検討しているらしかったが、酷くまだるっこしい。だが、いてもたってもいられなくて、自らが率先しようと起き上がろうとしたところ、目眩がしてどうしても立ち上がれないことに愕然となった。この体はどうなってしまったのか。いま彼を助けられるのは、自分しかいないというのに。
 アスファルトの敷かれていない埃っぽい土の道路に突っ伏していると、片言ながら英語の話せる者が出てきて、いつの間にか遠のきかけていた意識が束の間引き戻された。その者にありったけの金を握らせて、彼の一刻も早い病院への搬送を繰り返し頼んだ――…

 今思い出せることといえばそれだけだ。その辺りから先の記憶は、いきなりこの病室に繋がっている。日時を確認すると、事故から丸々24時間が過ぎていて、焦りと苛立ちばかりが無駄に募っていく。この大袈裟に目を覆っている包帯さえ取ってくれれば、今すぐにも現場に向かうものを。
「事故の際、同乗者がいた。その者は今どこにいる? オレをここに連れてくる時、もう一人怪我人がいただろう? そいつはどうなった? そいつの居場所を教えてくれ」
 しかし、どう質問事項を変えてみても、皆知らないと首を横に振る。頼みの綱だった、あの時現場に集まってきた民衆も、誰一人として連絡先を残していなかった。
(オビト…)
 お前は別の病院に運ばれたのだろう? そこできちんとした治療を受けている。そうなんだろう?
 生きているなら、一刻も早く連絡をしてほしかった。自分の携帯は、早々に各方面に連絡を取りまくったせいでバッテリーが切れてしまっているが、今頃日本に帰りついているであろう他のメンバー宛てでも構わないのだ。
(頼む…!)
 彼は昨日、『自分が死んでもナルト達がいる』と言って笑っていた。
(だからって、こんな早くなど…)
 考えたくもない。
(例えお前の神が許しても、オレが許さない)
 どうかこの青く乾いた空の下、生きていてくれ。


 目覚めたその日から早々の退院を強く希望していたが、許可はなかなか下りなかった。その間に、1度左目の手術をした。「手術は自国で受けるから、とにかく早く出せ」と言い張ったが、電池の切れた携帯電話とカメラ以外の身の回り品をほぼ全て紛失してしまった者に、早々の帰国など出来るはずも無かった。

(――ぅ…うぅ…っ)
 術後、麻酔が切れて痛みだした左目を、片手で覆う。手術は一応成功したというが、気持ちはひとつも軽くならない。
 あの日、テロ現場に行ったあの時。
 オビトが頑として現場には戻らず、空港に帰ると言った気持ちが、今頃になってようやくわかっていた。
 あの時の彼には、背負うものが山ほどあったのだ。家族、村人、テント村の人々、先祖から受け継いできた土地、生まれ育った国、思い人らしき若い女性、そして助手席に座っていた異国の男……
 対するオレは、色々と背負っているようにみえて、実は何も載せてなどいなかった。強いて言えば、計画を成功させたいという、己のちっぽけな欲求くらいのものだ。プロジェクトの資金集めには、参考資料や宣材が欠かせない。出来るだけ説得力のある絵が撮りたかった。
 今になって思えば、それに執心した余り、すぐ隣りで運転してくれているオビトの身の危険すら、心底本気では考えていなかったのだ。結果から言えばそうなる。
 全ては平和呆けした国で育った者にありがちな、軽率な行為だったのだろう。
 見せかけだけで何も背負っていなかった、からっぽの自分についての説明にはならないが。
 これまで、相手と見えないもので結びつきそうになると、すぐに切っていた。切って切って、ひたすら繋がりそうになると直前で切り続けていた。
「物書きはしがらみに縛られていては、いつまで経っても良いものは書けない」などと誤魔化しながら。
(くそ…っ)
 痛みを紛らわそうと、無意識のうちに寝返りを打つ。けれど何が変わるわけでもなく。むしろ不用意に動いたことで痛みが増していた。ナースコールのボタンならとうの昔に押しているが、反応は無い。ここにはテロで負傷した重度の怪我人も頻繁に搬送されてきていて、常に手が足りない状況なのだという。
(は…、情けない…)
 自分は一体何をやっているのだと、急に泣きたくなった。もう十年以上泣いてなくて、泣き方も忘れているというのに。


「――ねぇ、例えばさ」
「はい?」
 寝付けない夜の底でつらつらと思い巡らすことなど、たかがしれている。数ヶ月前に囲炉裏を挟んで向き合っていた男との他愛もない会話が、まるで泡のように浮かびあがってきていた。
「海外で起こってる、戦場の取材とかって…どう思う?」
「ぇっ…」
 イルカは、てっきり眠ったと思っていた男の突然の問いかけに、戸惑って返事をしかねているようだった。手元に持ってきていた鑿(のみ)と角材を、黙ったままじっと見下ろしている。
「オレってさ、つい最近会社辞めて、フリーの物書きになったのね。だから今なら、やろうと思えばどこにでも行けるし、何でも書けんの。例えばの話――戦地を取材するジャーナリストとかって、どう思う?」
 その考えを誰かに打ち明けたのは、後にも先にもその一度きりだった。多分それは、イルカという男が話しても害のない人物だったからだろう。とりたてて誰かの意見が欲しいわけでもなかった。ただ純粋に、自分が言いたかっただけ。
(いや、そうじゃない。――そうじゃないだろう?)
 誤魔化すな、と自らに言い聞かせる。もう魔化すな。弱い自分を。
 彼に打ち明け、話すことで、その心のどこかに留め置いて貰いたかったのだ。
 仕上がるまで何年かかるか分からないものを、あの人が彫るたびに。
 やがて彫り上げたものを、見るたびに。

(あぁ――そういえば…荒れたな)
 左目から離した手を、右の目でぼんやりと眺める。不衛生で乾いた環境と、事故の際に負った怪我で、己がそれは半月前とは別人のようだ。
(ふ…これじゃもう二度と、仏像のモデルなんてものにはなれないな)
 途端、腹の底から突き上げてきた長い溜息を一つ付いて、その手で額を覆った。ずきずきと痛んでいた瞼の奥が、焼けるように熱くなっていく。けれど、どうにも出来ない。どうにも。
 唐突に、子供の頃、父の書斎に忍び込んで偶然手に取った本の中にあった四行詩が浮かんだ。
 ルバイヤート、確かそんな名だった。他の詩も一通り目は通したはずだが、なぜかその一節だけが妙に印象的で、今も覚えている。


一滴の水、大洋に注ぎ、

一粒の土、大地に合す。

お前がこの世に来て、去るとて何だ。

一匹の蠅が現れて、消えるだけ。




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