もし貴女がこの本を読んでる最中、身を捩りたいような恐ろしい気恥ずかしさに襲われたとしても、それはごく正常な反応です。ご安心下さい。(大らかなお気持ちでこの話に接して頂くことが、気恥ずかしさ回避の方法です)




   
ようこそ! 忍者君




 自動ドアが開くと、俺は耳に馴染んだ「いらっしゃいませー」という声と店内放送に迎えられながら、いつものコンビニへと吸い込まれていく。
 俺、海野イルカ。25才、独身。社会人生活3年目。一人暮らしも3年目。会社帰りに弁当と缶ビールを買って帰る習慣は、もう日課みたいなもの、あ、みたいじゃなくて完全に日課。
 「生活費の節約」を掲げて真面目に自炊をしようとしていた当初の意気込みはどこへやら。今では食器も鍋もすっかり埃を被ってしまっているのは、あまりにもお約束すぎるパターンで。最近ではコンビニでの弁当やインスタント食品、近所のラーメン屋が俺の夕食の定番メニューだ。
 いけないよなーと、頭では分かってはいても、面倒でついつい続けてしまっている。
 ちなみに、朝飯はもう一年も前から食べる習慣が無い。
 時折、どうかすると良心の呵責からそこそこちゃんとしたものを外食することもあるけど、支払う段階になって(この金額だったら、二日分の弁当買えたよな…)などと思ってしまうともうダメだ。すぐにまたラーメンと弁当の生活に舞い戻ってしまう。だって今の俺の給料で、親の援助無くやりくりしていくのは、本当に大変なのだ。
 一応日本の首都と言われる所に住んでいるけれど、低家賃を最優先したことから、駅から徒歩15分というやたらと遠いところが俺の都になっている。その不便でボロい都に帰る前に全てを買い込んでおく必要がある訳だが、その最終補給基地がここのコンビニと言うわけだ。
(あ、あったあった。最近売り出し日でも売り切れてる時あるからなぁー)
 本棚に積み上げられた雑誌の一つ下から、屈んで一冊抜き出す。続いていつもの弁当と駄菓子系のつまみ、それに発泡酒を2本買うと、そのまま店を出た。

 しんとした住宅街をとぼとぼと歩き続け、やがてコツンコツンと鉄製の階段を上る。その北と西に向いた二階の角部屋が、俺の住んでいる安アパートだ。
 誰も迎えてくれる人のない、六畳間と台所だけの空間。
 下で覗いたポストには、一生縁のなさそうな高級不動産買仲介のチラシが一枚、ぺろんと入っていただけだ。封書なんて携帯の請求書くらいなもんで、宛名が直筆の郵便物なんて、まず滅多に来ない。
 部屋に入ると、いつもと全く同じ順で電気を付け、エアコンを付け、TVを付けてから、パソコンの電源を入れる。
 着替えのトレーナーを取り出してからシャワーを浴び、裸のまま出てくると、プラスチックのストッカーから適当に引っ張り出した服を着ながらメールチェック。
 でも届いているのは、危なそうな予感満載のエロ広告ばっか。すぐにそれらを一括削除すると、視線をパソコンからテレビへと戻して、濡れた髪をタオルでわしわしと拭きだした。
 髪は肩くらいまで伸びたけど、乾かすのが面倒だから年中自然乾燥。髪型がスーツに合ってないとかって、年配の人に時々言われる事もあるけど、あんまり気にしたことはない。
 ちなみに俺は、最近になって一度転職した。前の仕事は、主に高速通信用モデムの営業だった。
 でも二流メーカだったから、とても大手の取引先と対等に立ち回り出来ない。次期にも部門ごと撤退かという瀬戸際に立たされても尚、大手に売り込むためと、大赤字を承知で営業活動を続けていた。そして俺はそのやり方に常々疑問を抱いていた。
「社の方針が間違ってる。大手ばかりが会社じゃない」
 何回も上司とぶつかって、口論になった。でも上は「大手に買って貰うということは、その後の展開をも見越した戦略なのだから仕方ない」の一点張りで、誰もこの異常な状況を根本から変えていこうとしない。
 ボーナスは夏に引き続き1割カットだった。逆にサービス残業は、入社当時より5割は増えていたと思う。それでも辞める気なんてなかったのに、結局周りにいた上司達の後ろ向きな姿勢がどうしても受け入れられなくて、辞めてしまった。
 今は大学時代にたまたま取っていた資格を使い、駅前にあるパソコン教室のインストラクターをやっている。
 以前から、人に何かを教える仕事をしてみたいと思っていたのだ。でも給料は随分と減ってしまった。当たり前か。現在のところ、一日に三コマ、五時間程度しか仕事を貰えてないのだ。
 しかもアシスタント期間が終わったばかりだし、初心者担当だから時給が低い。テキスト作成などの残業はあるのに、まだ正社員に登用されていないため、その分はタダ働きになってしまっている。新たに別の関連する資格を取って、受け持つ講座数を増やさない限り、今のままでは到底食べていけない。少しだけ貯まっていた貯金も、底をつきかけている。急がないとヤバイ。
(もしかしてこれが「イケてないサラリーマンの典型」ってやつなのか?)
 レンジから取り出した弁当を食べながら思う。
 大学時代の同期の連中は皆、それなりに名前の通った企業に就職していて、回復してきている景気の波にいち早く乗りだしている。
 こないだ友人の結婚式の二次会で久し振りに会ったヤツなんて、ボーナスが七ヶ月分出たって言ってた。やっぱ世界に名だたる自動車メーカに勤めているヤツは違う。
(やっぱ転職はまずったかなー…)
 まだ始めたばかりで何とも言えないが、漠然とした不安が拭い去れない。
(でも、あの会社の方針に納得できなかった気持ちは、今でも変わらないしな…)
 たまたまやっていたニュースを見ながら弁当を速攻で食べ終わり、残っていたビールを流し込む。食事の味や質なんて二の次、いや三の次だ。別にどんなのだって気にしない…は言いすぎだけど、そこそこ我慢出来る。一度気に入ったら毎日同じものでも全然平気だし。あ、ちなみに一が安さで、二は量ね。
(もっと色んな資格取ったら、ちょっとは違った暮らしが出来るのかなぁ…)
 弁当の空箱をレジ袋に入れて、不燃ゴミの中に押し込みながら考える。
 でも、今の自分にはちっとも想像がつかなかった。



 空腹が満たされると、束の間の気だるい時間がやってくる。買った漫画雑誌を手に、安物のパイプベッドに寝転がった。
 いつも一番最初に読むのは、決まってあの話だ。
 新しい職場で最初に話すようになった薬師さんに「君と同じ名前のキャラが出てる漫画があるよ」と言われ、その時十年ぶりくらいに漫画雑誌なるものを手にした。
 確かにそのキャラクターは、イルカと呼ばれていた。忍者学校の教師で、他の登場人物と比べても派手さはない。てか、どうひいき目に見ても、明らかにかなり地味。
 幾つかある階級の中の中忍という位置づけで、まぁ言ってみれば中堅どころってやつ? 髪の長さも下ろせば多分自分と同じくらい。ひょっとしたら年格好も同じくらいかもしれない。
 そんな訳で、何となく親近感が湧いてしまい、コミックスを古本屋で揃えた。そして何とはなしに最初から読み出したら、意外なほどハマッてしまったのだ。
 漫画もアニメも見なくなって久しい。映画だってたまに借りてしか見ないようなオレが、どういう訳かあの世界に惹かれて共感してしまっていた。何故って訊かれても困るけど、あの中忍の教師に幾つかの共通点を見出して、自身を重ね合わせていたのは間違いないと思う。
 ラーメンが大好きだったり、上とぶつかってもなかなか考えが曲げられないところなんか、まんまじゃんと笑ってしまう。
 自分の体を盾にして教え子を救う場面も(お人好しすぎるよー)などと思いつつも、すっかり感動して不覚にも泣けてしまった。
 でもでも、途中から一番気になりだした登場人物は、主人公の金髪少年でもなければ、中忍教師のイルカでもなかった。
 あの銀髪の上忍、はたけカカシ。
 だって、平々凡々とした俺達イルカ族から見れば、彼はヒーロー以外の何者でもないじゃないか。
 ちょっと猫背でボケてるけど、やるときはきっちりとやる。部下には徹底して厳しく、でも常に的を射た的確な指導。
 なのに、一方ではしっかりとエロ本読んだりしてるのも、同性としてまぁその…なんというか、共感出来るし?(俺だって本屋でドキドキ・コソコソせずに、一度くらいは潔く、大っぴらに立ち読みしてみたい!)
 素顔を全部見せない事にも何だか惹かれた。人に言わせると、俺はすぐに考えていることが顔や言葉に出て分かってしまうらしい。薬師さんなんて、それこそ読心術でも使ってんじゃないかと思ってしまうのだけれど、彼が中指で丸眼鏡をクイと押し上げながら言うには「ただ単に君が分かりやす過ぎるだけ」なんだそうだ。だから昔から、そういうクールな人がとにかく羨ましくてならない。
(ホント、カカシってカッコいいよなぁ)
 もしもこんなにデキるヤツが前の会社に来たなら、あっという間に業績も上向いてたんだろうな、などとバカなことをつらつらと考える。
(しっかし俺も末期だなー。現実と漫画をごっちゃにして考えるなんて)
 よっぽど今の状況に行き詰まってきてるのだろうか? 確かにここのところ、人に物事を教える事の難しさを痛感しだしている。
 オタク路線まっしぐらって感じの薬師さんは、講義中でも自身で得たレアな情報を駆使して、常に生徒さん達を惹き付けている。けれど、自分にはまだ何の武器も取り柄もない。薬師さんのアシスタントに入り、間近でその講義を見て以来、正直ちょっと焦っている俺。
 しかも最近、『初心者に基礎となる部分を教えるというのは思ってた以上に難しくて、責任のある大変な仕事なんだな』などと、転職直後にはあまり意識しなかった重圧まで感じ始めてしまっている。
(…ぅあぁ〜、もうやめやめっ!)
 週の初めからこんな事でぐるぐるしてちゃ、あと四日を乗り切れなくなる。ひとしきりベッドの上でジタバタ転がった後、大きな深呼吸三回で何とか気合いを入れ直した俺は、鼻息も荒く広げられた漫画雑誌に意識を戻した。


 どうにかして気分転換がしたくて、そうやって無理矢理に連載を読み始めたものの。
 今週号の忍者漫画の展開は、当然のようにカカシもイルカも描かれてはいなかった。まぁ仕方ないと言えば仕方ない。今はそういう展開ではないのだ。
 話自体はとても面白いのだけれど、少し物足りないような気がして、何となくその不足分を埋めたくなった。
(えーっと…、何巻だっけ…)
 雑誌を枕元に置くと、ベッドの上に膝立ちになる。そして頭側に置かれた組み立て式の縦長の本棚の、一番高い所に無精しながらうーんと手を伸ばし、唯一全巻揃っているコミックスを数冊手に取った。そしてベッドに寝転がるや、カカシが大活躍する自分の好きな話の部分を開いて、一心に読みふけり始める。
 その世界で大活躍しているカカシは、やっぱりいつ見てもカッコ良かった。
(こんなヤツが本当に居たらいいのにな。てかこの広い世界のどこかに、一人くらい居てもいいよな? てか居るだろ絶対〜)
 そんな風に、心の中で密かに思ってるだけなら……
 ――いいじゃん? 別に……




(――ん…ぁ…?)
 意識がふっと浅いところに浮上してきて、煌々と明かりがついたままの部屋をぼんやりと見渡した。
(あれ…? いつの間にか……寝てた?)
 部屋に一つしかない目覚まし時計を見る。と、夜中も夜中、既に三時を回っているではないか。
(うぁー…)
 付いたままのテレビが、名も知らぬ半端に古そうな映画を流している。
(…トイレ行って……寝なおすか…)
 殆ど目を閉じたまま生理的欲求を満たし、歯磨き粉も付けないまま適当に歯ブラシを動かし終わると、ふらふらとベッドに向かう。
 もしこのままハッキリと目が覚めてしまったら、また朝まで本なんか読んじゃったりして、絶対明日の仕事が辛いのだ。講義中はまだ緊張しているから大丈夫としても、残業中にモニタに向かって意識を飛ばしかねない。まだまだ新入社員の自分は、幾ら何でもそれはマズイ。
(ん…大丈夫だな…、これだけ眠いなら、ベッドに倒れればまたすぐに眠れるぞ…)
 頭の奥で、辛うじて起きている部分が囁いている。月曜日からこんなに眠いのは、最近安い弁当ばかりでロクなものを食べていないせいか、休日毎に夜遅くまでネットの海を徘徊しているせいか…。
 でも、そんな不摂生の事実など今はどうでも良かった。とにかく眠い。眠りたい。
 酷いしかめ面で瞬きしながらベッドを見ると、枕の周りにコミックスが散らばっているのが見えた。面倒くさいが、これだけは片づけないと眠れない。
 緩慢な動作でのろのろと本を拾い集め、ベッドの頭側にそびえる本棚の空いていた場所に、ごくいい加減に突っ込む。付けっぱなしだった家電類を大あくびをしながら片端から全部消し、最後に部屋の電気を消すと、暗がりの中、そのまま重力に任せてドサリッと勢いよくベッドに倒れ込んだ。
 何の前触れもなく、眉間辺りにガツンというもの凄い衝撃が走ったのは、その直後だった。
「ぃデえッ?!」
 目の奥にパッと線香花火のような星が飛び散る。と同時に顔の真ん中辺りに焼けるような痛みが走った。とろとろと澱んでいた意識が、否応なく急速に覚醒させられ、湧き上がってきた不快感な感覚はすぐに腹立ちへと変わりだす。
「――ってえぇーー…っ、なんなんだよ、ったくもォー…」
 言いながらも、音と状況から大体の予測はついていた。
 多分、今しがたいい加減に本棚に置いたコミックスが、ベッドに勢いよく倒れ込んだ振動で頭の上に降ってきたのだ。いつも(地震の時かなりヤバイよなー)と思いつつも、他に置き場所もないし何より便利なために、ついついこの配置にしてしまっていたのだが、自分で地震を起こしているようでは世話はない。
 酷く痛む鼻っ柱に手をやると、出来たばかりの生傷に触ったらしく、一段とヒリつく。
(やっべー…これ絶対血出てるぞ…)
 髪型や服装には特にこだわらない方だが、流石に講師をやっている者が顔の真ん中に大きな傷を作って人前に立つというのも如何なものか。明日は出勤早々皆に何か言われそうだ。薬師さんあたりの冷やかしが脳裏に浮かぶ。
 新米のクセに、明日からの仕事がちょっと気まずい事になるなんて。その上、折角いい感じに眠りの淵に立っていたのに、それすら自らの手でぶち壊してしまうなんて。
 ただでさえイケてない極貧サラリーマンなのに。仕事も上手くいってなければ、プライベートだって地味で無味乾燥な砂漠状態だっていうのに…。
(うあぁもう〜っ!)
 腹立ち紛れに、思わず握り拳でベッドを叩いた。

 瞬間。

 ばふっという音と共に、突然目の前に、夜目にも真っ白な煙が濛々と湧き上がりだした。
「――ヒィッ…?!」
(ウソだろ、煙だぞこれっ?!)
 幾ら普段から掃除してないからって、ベッドからこんなスゴイ埃が舞上がるわけがない。
(かっ、火事ィ…?!)
 真っ白い煙は尚もモクモクと湧き上がり続けている。闇に慣れ始めていた視界を完全に遮られて、一瞬息が止まった。もう何が何だか訳が分からない。
 でも火事なら――
(……ににに、逃げなきゃ…!)
 濃い白煙をモロに吸ってゲホゲホと激しくむせながら、ベッドから転がり落ちる。自分は煙草も吸わないし、料理もしないから、火事だとしたら一階からだ。嫌だ、死にたくない。独身サラリーマン人生に行き詰まってるからって、まだ死にたくない!
 でも火事場の馬鹿力なんて嘘だと思った。突然のことに腰が抜けたようになって、足に全く力が入らない。ハイハイを覚えたての赤ちゃんみたいに四つん這いになって、あわあわと床を這う。
 絶対に狭いはずの六畳間が、とてつもなく広く感じられた。懸命に手足を動かしているつもりなのに、玄関のドアがまだ遙か遠い。
「――オイ」
(どどどうしよう、ひゃ、110番…じゃなかった、119番しなくちゃ…。はっ、早く早く、ひぃ〜〜) 
「――お前」
(…さ、財布だ財布……あとあと…携帯…! って他に何持ち出せばいいんだよぉー?! ぇ、え、ウソっ? もしかして俺って、他に大事なものが何もないような、そんな寂しいヤツだったのかー?!)
 煙に巻かれ、限界までテンパッてるはずなのに、今更とも思える己の寂しい現実に気付いて新たなショックを受ける。こんな状況だというのに、意外と落ち着いているのだろうか。いや、これこそが限界までテンパッてる何よりの証拠なのだろう。
(せ、せつねーぞ! そんなまま死ぬのか俺ッ?!)

「待てよ」
 どこからかそんな声が聞こえた気がして、無駄に空回ってバタついていた手足が止まった。
(…はァ…?)
 誰だ? 今俺に話しかけたのは?
(あぁ、テレビか?)
 でも確かさっき、トイレに行く前に消したはずでは? 煙を吸う覚悟で、恐る恐る振り返る。
 だがどういう訳か、あれほど濃かった白煙は、次第に薄くなりだしていた。見渡せば古びたカーテン越しに差し込む街灯の明かりに、室内の輪郭が微かに浮かび上がりつつある。
(ん…?)
 その煙の中にうっすらと人影のようなものを見た気がして、俺は目を凝らした。たちこめる白煙の中に、炎ではない何かが「いるように」見えたのだ。
 やがてそこから、こちらをひたと見据える男の姿が浮かび上がり出すと、瞬間、ザッと音を立てて血の気が引いた。
(――!?)
 ドクンと痛いほど心臓が跳ねる。
(…なっ…!?)
 氷の手で心臓を鷲掴みされる感覚に、尻餅をついたままの体が全く動かない。
(……ぅ…そ……?)
 何かの見間違いであることを切に祈った。それくらい煙の奥に垣間見えた男の片目が、射るように鋭かったのだ。こんな強い視線、一度だって向けられたことはない。今すぐにでも逸らしたかった。なのに逸らせない。しかも見つめれば見つめるほど、体が竦んでいってしまう。今度こそ本当に腰が抜けてしまったらしく、前にも後ろにも動けない。
(だっ、誰だ…、まさか、まさか押し込み…強盗っ?!)
 声も出ないし、まともに空気さえ吸えてない。なのに、ぱくぱくと口だけは金魚のように動き続ける。
「――オレを呼んだの……アンタ?」
 やはりそれは人だった。その響きは、自分よりかなり低い成人男性のものだ。そしてそれは、間違いなく自分に向かって発せられている。
「…ぇ?」
(呼んだ…? 俺が、強盗をか?)
「ははっ? よっ、呼んだァ? 何のために?」
 この男、突然無断で人ん家に上がり込んどいて、一体何を言っているのか。恐らくこっちが寝ている間にでも、鍵をこじ開けて入ってきていたのだろうが、一体何をされるのかと気が気ではない。
 心臓が張り裂けそうに鼓動し、びっしょりと冷や汗をかいた手がわなわなと震える。
(夢なら早く醒めてくれ…!)
 両目を見開いた状態で繰り返し念じた。

(…なっ、なんだ…?)
 だが、煙がすっかり消え去ると、俺はその男の独特の容姿に暫し瞬きを繰り返した。
 僅かな街明かりも逆光のため、暗くてはっきりとは分からない。分からないが、恐らく白か銀色の髪。左目を斜めにずらした布のようなもので覆い隠し、鼻から下も黒い布で覆っている。緑色っぽい重そうなゴツイベストを着ていて、脛と腿にはきっちりと白い包帯。履き物にはつま先と踵が無い……って、ここ人んちの部屋ん中だぞ! 靴脱げよッ! とチラっと思ったけど、刺されたくないから黙っておく。
 見知らぬ侵入者のはずなのに、何故か自分はこの男のことを知っている気がした。そんなの言葉が完全に矛盾しているはずなのに、確かにどこかで会っている。しかもかなり頻繁に。
 でもとりあえずこういう非常時は、場の空気を少しでも和らげないといけない。泥棒と鉢合わせしたら、まず茶を出せとかって、何かの諺でもあった気がする。
「――アハッ、アハハー。あ、あのさ、あんたってもしかしてさ……そのー……、漫画のキャラに似てるとかって……よく言われない?」
「言われないね」
 男の返事ははねつけるように速攻の上ひどく不快そうで、その上恐ろしく素っ気なかった。ダメだ、取り付く島まるでナシ。お茶出し懐柔作戦失敗。
「…じゃ…じゃあ何の用なんだよ? 金目のものなんて、ホントにホントーにないんだって! 財布の中だって給料日前だから三千円しか入ってないし、つつっ、通帳だって使い果たしちゃって殆どゼロだから、取っても意味ないよ!」
「あぁ? 何の用かって? そりゃこっちの台詞だ」
 男はわざとらしく大きな溜息を一つついて、頭をばりばりと掻いた。
「え、え? あの、あんた押し込み強盗じゃ…」
「ないに決まってるだろ。何でオレがそんなこと」
「なら、どうして人んちに勝手に…」
「オイオイ、お前が勝手に呼びつけといてそりゃないでしょうよ。ったく…。――まぁいい、用がないんなら早く帰してくれ。遅刻の理由が『見ず知らずの男にいきなり口寄せされててねぇ』なんて、センスの欠片もないだろうが」
(に、任務…? 遅刻…?)
 その話に、いやに既視感のようなものを感じた。そんなバカなと思うのに、一方では最早そうとしか思えない自分がいる。
「あのっ、電気…点けるよ?」
 返事はないが、何かに突き動かされるようにして、壁のスイッチへと這いずっていく。
(確かめなきゃ…。絶対、何としても確かめなきゃ…!)
 さっきまで全く動かなかった体は、高鳴る期待にも似た不思議な高揚感に押されるようにして、ぎこちなくも動くようになっている。
 ようやく待望の明かりに手が届いた。だが、一気に部屋を満たしたその暴力的な程の眩しさに、暫し目を細める。
「――ぇエ…?!」
 余りの眩しさに、顔はまだ半クシャのままだ。それでも睫毛の間からチラと垣間見えたその光景に、思わず頓狂な声が漏れる。
 青白い蛍光灯の明かりの下、ベッドに気持ち脚を開くようにして座り、膝の上にだらりと肘を乗せた格好で背を丸めているのは間違いない。
 “あの男”だった。






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