「え、うそッ!? カカシ?! ホントにあのはたけカカシ!?」
 上ずった声で指差すと、片方だけ僅かに見えていた男の細い眉が、ぐっと顰められた。
「お前が呼び付けたんだから、知らないとは言わせないね」
 灰青色の右目が、ジロリとこちらを睨み付ける。
「し、知ってる…いえ、知ってます、はい存じ上げておりますっ! でも呼んでな…、いえ呼んでおりません! …って、うわわ! 止めて、ちょと待って、落ち着いて!!」
 いきなりカカシが、のっそりとベッドから立ち上がった。
 自分もそこそこ身長はあるはずだが、彼の方が湧き上がる威圧感と相まって遙かに大きく見える。ひしひしと身の危険を感じるのに、またもや腰が抜けたようになって、ただ両手を顔の前に翳すしかない。
 ぎゅっと目を瞑って体を硬くしていると、いきなりトレーナーの襟首を掴み上げられて、苦しくてぐえっと変な声が出た。
「オイ、いい加減解印切れよ。こっちは忙しいんだ」
「カイ…印……わ、わ…分かり、ませ…ん」
 息が掛かりそうなほどすぐ目の前で押し殺した男の声がしていて、怖くて目が開けられない。
「なっ…分からないって、呼んどいて解印が切れないわけないだろうが。いつまでもふざけてると、どうなるか分かってんだろうな。子供だからって甘えるなよコラ」
(…くそっ、子供じゃない!)
 心の中だけで反発する。
 確かに自分は少し童顔なのかもしれない。三年くらい前まではコンビニで酒を買おうとして、たまに「身分証を」と言われていた。でも最近はそんな事もなくなっていたのに。まさかこの状況で、この男にそれを言われるとは思ってもみなかった。
 でも今「ふざけてるのはそっちだろ! 俺は25だ!」などと言ったら、ますます危うい事になる気がするから止めておく。本当にこの男が『はたけカカシ』なら、人を殺す事くらいわけないからだ。
(――いや、でも待てよ…?)
 本当にこの男が『はたけカカシ』なら……
 彼があの上忍のはたけカカシなら、無抵抗な一般人の、しかも子供だと思っているような弱い人間を、そう簡単に傷付けたり殺したりするだろうか?
(オイオイ、落ち着かなくちゃいけないのは俺もだぞ)
 そう思ったら、今にも切れそうなくらい張り詰めていたものがちょっと緩んで、まだ吊り上げられたままだったけれど少し気が楽になった。ぎゅうぎゅうに閉じていた目を薄く開けて、殴られるかもと食いしばっていた口を開く。
「ほ…本当に、本当にあんたがあのはたけカカシならさ……」
「――――」
「絶対…間違っても、自分より弱い無抵抗の者を苛めたりしないはずだよね…? だって…だって俺の知ってるはたけカカシはさ、もっと紳士で…格好いいヒーローなんだから」
「…………」
 返事はない。うぅヤバイぞ、なんか気が遠くなりそ…
 だが、凄い力で襟から持ち上げられていた上半身が、突然ふっと楽になった。静かに畳に下ろされたのだと分かる。
(よ、良かった、助かった…)
 全身から一気に力が抜けていく。もう何もかもヨレヨレだ。そのままヘナーと畳に座り込む。
 心底ホーッと胸をなで下ろしていると、視界の端にカカシがベッドの方へと歩いていくのが見えた。その後ろ姿は、やはり見覚えのある…、いやかなり見慣れていると言っていい、あの猫背だ。
「……悪かった。いきなり知らない奴に呼び出されて、その……少し苛ついていた」
 こっちを向いてベッドに腰を下ろすと、ぼそぼそと口布の下で呟く。
「え? え? うそっ! やっぱり、やっぱりはたけカカシなんだ!? あの木ノ葉の、上忍の、写輪眼の!!」
「――…あぁ」
「えっ、えっ、ええぇーーーッ?!」
 その瞬間、静まりかえった深夜にもかかわらず、俺は歓声とは名ばかりの、意味不明の奇声を大声で連発していた。
 騒音に堪りかねた隣人が、ドンドンと乱暴に壁を叩く音が辛うじて耳に届いたとき、俺はようやく我に返ったのだった。



「――でっ、本当にお前はオレを口寄せした覚えがないと?」
 隣が鎮まると、カカシが抑えた低い声で、もう一度念を押すように訊ねてきた。
「うん!」
「うんて…、ったくぬけぬけと言ってくれるねぇ。その指に付いてんの、自分の血でしょうよ?」
「あ? あぁそうそう。でもこれはね、そこで漫画読みながらついウトウトーっとしちゃった時にね、顔にドサドサーっと本が落ちてきちゃってさ。もうメッチャクチャ痛くてほんとアッタマきて、ベッドにバシンて八つ当たりしたら、いきなり白いのがボウン! って。俺、絶対火事だと思った」
 分かりやすいように、大きな身振りも付けて説明する。
「――…ハァーーー…」
 ベッドに座ったまま、はたけカカシは長嘆と共にかっくりと頭を落とした。

 どうやら元の世界に帰る手だてが見つからず、真剣に頭を抱えてしまっているらしいカカシとは対照的に、俺は至極上機嫌だった。畳から尻が浮き上がってるんじゃないかと思うくらい浮かれまくり、興奮しきっていた。
 だって、改めて間近で見る「上忍・はたけカカシ」は、本当に格好いいのだ。
(最初に見た時、異様な風体と思ったのは全部取り消しだな!)
 運動不足すぎて筋肉のカケラも付いてない俺なんかとは違い、服の上からでもそうと分かるほどよく鍛え上げられた、しなやかそうな細身の体。
 豊かな銀色の髪は、安っぽい蛍光灯の下でもキラキラと輝いている。これが昼間の太陽の下でなら、街行く人々はきっと皆振り向くだろう。
 額当てのすぐ下からきりりと上がる細目の銀眉や、奥まった眼孔の中で光る灰青色の瞳は、独特の華やかさと凄みを併せ持っている。もちろん平凡小作りで地味な顔立ちの自分とは比べ物にならない。
「ええっとー…カカシ…センセ?」
 改めてその名を呼ぶと、何やらくすぐったいような感じがして、自然と顔がほころんでしまった。
「何だ、気持ち悪い。大体お前はオレの弟子じゃないんだから、そんな呼び方しないで貰いたいね」
「んじゃあ、カカシ」
「あァ?」
 明らかに面倒臭そうな返事だけど、もう全然気にならない。
「あの、あのさ、なんかちょっとでいいから術とか見せて欲しいなー?とか。何でもいいからさ。やっぱここは一つ雷切!……はダメッ! 危ないっ! 千年殺し…も絶対ダメダメッ!! あそうだ、影分身! それそれっ、それ見せて? ね、ね?」
「断る。オレは大道芸人じゃない」
「ケチぃ! 別にいいじゃん、減るもんじゃなし〜……って、わわ! す、すみません! ごめんなさいっ! もう言いませんから!」
 不満の言葉を口にするや、俯いたカカシが無言のままのっそりと立ち上がった。全身から何とも例えようのない怖い気が漂っている。これが要望拒否のリアクションでなくて一体何だろう。慌てて顔の前に腕を翳し、謝りながら後ろに後ずさった。
「――たく…子供だから大目に見てやってるんだ。図に乗るな」
 再びベッドに腰を下ろしたカカシの低い声は、相変わらず不機嫌そのものだ。
「子供じゃない! 俺もう二十五だよ。カカシと一つしか変わらない」
「はっ、冗談。『ドサドサー』だの、『ウトウトー』だの、『ボウン』だの、まともに状況説明一つ出来ない奴が年を誤魔化そうったって、そうはいかないね。お前は体がでかいだけで、年はナルトと大差ないのは分かってる」
「ひっで! じゃあ言わせて貰うけどさ、大人なら人の家ん上がってる時は靴くらい脱いでよね!」
「必要ない。常に敵の攻撃に備えておくのは、忍の当然の心得だ」
「攻撃あり得ないから!」
「当たり前だ。忍でもない子供のお前に何が出来る。オレが言っているのは、他里の賊だ。こう見えても、オレの首を取って名を挙げようって輩は、ごまんといるんでね」
「え? 他里? ここ東京だけど?」
 言うと、カカシの様子が急に変わった。
「…とう、きょう…? どこだそれは。火ノ国じゃないな。風でも岩でもない。まさか……音かっ!?」
「あはは、違う違う! 何でここが大蛇丸の支配下なんだよ〜。ここは日本国。日出ずる国のジャパンだ。海に浮かぶ小さな島国。昔はこの国にも忍者が居たらしいんだけどさ、機械化が進んで絶滅しちゃったみたい」
 後半部分、なんかちょっと違うなと思ったけど、勢いで言ってしまった。まぁいっか、当たらずとも遠からじだ。
 しかし、カカシは思った以上に衝撃を受けたらしい。
「わッ?!」
 彼が目の前を横切って窓に駆け寄った…のか? と思った次の瞬間にはもう、カーテンが風にはためいていた。どうやらそこから外に飛び出したらしい。
 だがその動きが全く、全然、これっぽっちも見えなかった。しかもここは二階なのに、下の地面には勿論、どんなに街明かりの中目を凝らそうとも、周囲のどこにも銀髪男の姿は見当たらない。
「――ウソだろ…」
 俺は窓辺で呟いた。全身にぞわぞわーっと鳥肌が立っていくのが分かる。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう〜! マジカッコイイ! 現代に甦った本物の忍者だよ! しかも昔いた古典忍者より、遙かに強くて男前!

(……でも……いなくなっちまった……)

 俺の顔を、都会の夜風がゆるく掠めていった。






「――要するにだ」
 暫くのち。
 音もなく窓から戻ってくるや、俺の視線に気付いて渋々履き物を玄関に置きに行ったはたけカカシは、ベッドではなく、パソコン用の安物の回転イスに座って苦渋の表情で切り出した。
 外に飛び出してみて初めて、その世界が火でも岩でも音でも、とにかく自分の知るどこの国でもないと、すぐに悟ったらしい。
 そうなると最後の頼みの綱は、最初に自身を呼び寄せた俺しかおらず…という事になったのだろう。
「――オレは今…木ノ葉の里がある、火ノ国や風ノ国の存在する、あの世界に居るのではなく…」
「うんうん」
「全く別の次元の、今まで見たことも聞いたこともない異世界に口寄せされて来てしまっている……という事なのか?」
 その声音は、未だに信じられない、と言いたげな感じだ。
「そうそう、そういうこと! ようやく分かってくれた?」
「…ッ、お前に言われると何だか不愉快だ。いいからちょっと黙ってろ」
「えーそんなぁ〜……って、ハイすみませんっ! 黙りますっ!」
 エロ本を読んでいる時は普通の男に見えていたけれど、ご機嫌斜めのはたけカカシは片目だけでも無茶苦茶迫力がある。こちらに背を向けると、額に手をやったままむっつりと黙り込んでしまった上忍に、俺は近寄るどころかかける言葉すら失ってしまった。


「――はい、どうぞ」
 机の空いたところに、この家に一つしかない湯飲みを置く。
「…………」
「お茶。俺、一人暮らしでお茶なんて出し慣れてないからあんまり美味くないとは思うけど」
「…………」
 三年前に買ったもののそのままになっていたティーバックで淹れた、安いだけが取り柄の日本茶だ。だがカカシが興味を示した様子はない。あ、もしかして匂いでまずそうって気付いた?
「大丈夫、毒は入ってないよ。何なら俺が先に飲んでみようか?」
 覗き込むようにして訊ねると、男はイスを回転させてようやくこちらに身体を向けてきた。気のせいだろうか、その目元はさっきまでのようなカリカリとして尖ったものではなく、少し翳りはあるものの、だいぶ穏やかなものに変わっている気がする。
「――お前、名前は?」
 声音も先程までと違い、静かで落ち着いた印象だ。
「え? ……ぁ、あぁ。イルカ。海野イルカ」
 内心ちょっとほっとしながら答える。
「フッ…、どこかで聞いたことのあるような名前だな」
 一瞬、彼が鼻を鳴らして笑ったように思えた。偶然の一致にちょっとは浮上してくれたんだろうか。だったらいいけど。
「だろだろ? でもこれは下らない冗談でもなんでもなくて、本当にホントの事なんだ。俺も最初に会社の先輩から聞かされた時は、信じられなかったんだけどさ」
 こっちまで急浮上して、勢い込んで話しかける。
「ま、別に次元の異なる別の世界なんてのは簡単に行けないだけで、他にも同時に複数存在してるからな。そっちに似たようなヤツが居るのもごく当たり前の事で、偶然でも何でもないけどね」
「えぇ? そうなのー?」
 上忍の話は、思った通り滅茶苦茶面白い。
「それでそれでっ?」
 気が付いたら畳に正座して、彼に向かって身を乗り出すようにして話を聞いている。
 四代目の得意としていた、時空間を渡る忍術。あれも平行して存在している別の次元を自由に行き来する画期的な手法を彼が発見した事により、初めて可能になったのだと言う。ただ惜しいことに、彼が夭逝してその方法ごと失われてしまった事から、今でも空間移動忍術と言えば口寄せしかないらしい。それでもこの世の他に別の次元が複数存在する事自体は、アカデミー生なら誰でも知っていて、向こうではごく当たり前の事なのだそうだ。
「お前、解印どころか別次元の存在も知らないのに、本当に偶然だけでオレを呼んだのか?」
「えへへへ〜、なんか、そうみたい〜」
 しかし嘘みたいだ。あのはたけカカシが、自分と話をしてくれてるなんて。嬉しくて、目尻が自然と下がってしまう。
 夢なら醒めないでと、ついさっきとは正反対のことを念じる。
「――…はァーーー…」
 今夜何度目かの溜息が、上忍の口布の下から聞こえた気がしたが、右から左へと抜けていった。


「まぁいい。とりあえず……これ塗っとけ」
「え? なになに? …わっ?!」
 カカシが後ろのポーチから取り出して無造作に投げて寄越したのは、小さな薬ケースだった。開けると薄茶色い軟膏が入っている。
「あ、この傷に?」
 自身の顔の真ん中を指差す。
 そういやそうだった。驚くべき事が余りにも色々ありすぎてすっかり忘れていたけれど、俺は顔の真ん中に大きな切り傷を作ってしまっていたんだった。思い出した途端、何だか急にズキズキと痛みだしたそいつは「早く何とかしてくれ」と訴えてきているみたいだ。
「うわ、ありがと! 早速付けてくる」
 何て気の利く優しい人なんだろう。薬なんて何もないから、このまま放置で治すしかないと思っていたのに。
(流石は木ノ葉の上忍だ。俺のヒーローだ!)
 小さな薬ケースを見下ろしながら思った。口元が自然とほころぶ。しかもカカシの世界の薬だ。きっと特別な医療忍術か何かがかけてあったりするんだろう。色もいかにも効きそうな感じだし。きっと明日には、この傷もきれいさっぱり無くなってるに違いない。いやぁ助かるなぁ〜!

 しかし、浴室の鏡に向かって一筋その薬を塗った途端、俺はあまりの痛みに風呂場から飛び出した。
「カッ…カカシ! なんか、なんか凄く痛いんだけど?! ぃ、痛い、痛いよ、しみるーっ!」
「ぁ? 傷薬なんだから当たり前だろ。それくらい我慢しろ」
 これだけ慌てて懸命に訴えているというのに、カカシのリアクションに目立った変化はない。
「だってあり得ない痛さだって! これホントに傷薬? 何が入ってるわけ?!」
 両手で鼻を押さえながら必死の形相で訴える。しかも、彼が列挙した薬の主成分が、その姿を想像するだに倒れそうな虫の数で、一気に涙目になった。
「うぇっ、気持ちわる! それ無理、絶対無理だから!」
「うるさい、子供はとっとと寝ろ」
「ひっでぇ! こんなに痛くちゃ眠れる訳ないじゃん! でもさ、でもさ、これだけ痛くてブキミなら、明日には絶対きれいに治ってるんだよね?! 間違っても悪化しないよね、ねっ?!」
「は、ナルトじゃあるまいし、そんなすぐに治るか。ただの傷薬だ」
 しかも、あろうことか修行用のものだという。もしも任務中に負傷して心身を削る激しい痛みが続いたとしても、常に正しい判断が下せるように精神を鍛え上げるためのもので、日頃から痛みに慣れておくために、わざと痛みを増幅させるように出来ているらしい。
「う、ウッソォ?! そんなもの平気で人に塗らせるなんて信じられない!! 俺忍者じゃないのに、ただの平凡なサラリーマンなのにぃ〜! うぅ…酷い、酷いよぉー…」
 俺はもうその話を聞いただけで頭の中がグルグルしだし、大急ぎで顔を洗うとベッドに倒れ込んだ。でも一旦体に入ってしまった薬は強力で、痛さは殆ど変わらない。痛みとショックで頭までがガンガンする感じで、何も考えられなかった。固く目をつむり、身体をぎゅうっと丸めたまま、一晩中「カカシのバカ!悪魔!ウスラトンカチ!」と、散々に恨み言を言った気がする。
 でもカカシは一切、それこそ一言も喋らなかった。まぁ例え言ってたとしても、今の俺には何も届かなかったとは思うけど。

 そして次に顔を上げた時には――朝だった。





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