(フッフッフ…。長かったアイツとの戦いに、ついに決着が着くときが来たなッ!!)

 上忍専用待機室。
 ぴしりとした姿勢の良い立ち姿で腕を組んだおかっぱ頭の男が、窓の外を見ながらふっと短く溜息をこぼす。
(丁度いい、次が記念すべき100戦目だ。メモリアル対決に恥じない戦いにしようではないか! カカシィ!)
 目を閉じて不敵な笑みを浮かべると、その唇からこぼれた真白い歯が、沈みゆく夕日にきらりと光った。



「…くしっ!」
「あれ、珍しいですね。カカシ先生がくしゃみなんて。中に入りますか?」
 イルカがよく磨き込まれた縁側に、酒とつまみを置きながらその顔を覗き込む。
 庭には見事な弧を描いたススキの穂と、濃桃色の萩の花が、秋風に静かに揺れている。
「い…いや、平気です。オレの噂でもしている良からぬ輩がいるんでしょ」
 特にここ数日は多いでしょうね、と言いかけて、カカシは口をつぐんだ。
 何故そういう気持ちになるのか己にもよくわからなかったが、今回のゲームの事は自分からは何も言わないでおこう、と思っていた。
 もしも最後までイルカを守り通した後で、何らかの理由によって彼の耳に入ってばれてしまったなら仕方ない。だが、それまでは何も知らない、今まで通りのイルカで居て欲しかった。
 当然洗いざらい全ての事情を話してしまえば、彼を「魔の手」から守るのはもっと楽になるだろう。
 けれど、『何も知らない今のイルカのまま、最後まで守り通したい』と、上忍のプライドが訴えた。
 勿論それは、自分の後ろも最後まできっちりと守りきってこそだが。
(これは…、結構難儀だな…)
 カカシは想定される魔手への対抗策を一心に考えながら、杯を傾けた。


(カカシ先生…口では何でもないって言ってたけど、やっぱり何か悩み事があるんだな)
 いつもとどこか違った空気をまとい、ひたすら黙って杯を重ねている上忍の姿に、向かい合ったイルカは本気で心配しはじめていた。
 アカデミー内に充満する不穏な空気はまるで読めていないイルカだったが、カカシのこういう変化は不思議と感じ取っていた。家に上がってくるなり額当てを外し、口布も帰るまで下げたままにするようになってからはなおさらだ。
 そんな、当の本人が知ったら感激の余り思わず抱きついて大喜びしそうな事実にも、今の上忍は気付くはずも無く。
 向かうイルカも俯いたまま、じっと考え続けた。
(カカシ先生、それは何か…俺にも言えない大きな悩みなんですか? どうしたらその悩みを打ち明けて貰えますか?)
(――いやいや、カカシ先生の事だ、そんな生半可な「悩み」なんて次元じゃないかもな。話を聞いたところで、俺じゃ何の役にも立たないかもしれない)
(――でも…でも俺とその悩みを共有したら、少しでも早く解決出来たりしないだろうか? …それともカカシ先生にしてみたら、そんな申し出なんてただの迷惑でしかないんだろうか…)

 二人はそれぞれの考え事に囚われたまま、押し黙ってひたすら己の体に酒を流し込み続けた。
 忙しなく鳴いている虫の声だけが、二人の間に横たわった空間を埋めていった。



「――ん?」
 イルカの気配が変わった事に気付いたカカシが、ふと視線を向けると。
 そこにはすっかり酒が過ぎて酔い潰れ、縁側の内柱にもたれ掛かってスースーと眠りはじめている中忍の姿があった。
「いッ…イルカ先生?! ちょとあの、どうしちゃったんですか、こんなになるまで呑んで?! …イルカ先生っ?」
 名を呼びながら軽く肩を揺するが、心持ち紅く染まった顔には目立った反応はない。
(はーー参ったねぇこりゃ。何があったか知らないけど、今夜に限ってこんなに呑むなんて…。しかもこのままじゃ、連中に「どうぞ後ろを獲って下さい」と言わんばかりだし…)
 しかし一旦「仕方ないから」という口実が出来るや、カカシは嬉々として思い人を両腕で抱え上げ、いそいそと寝室へと向かった。そして押入から布団を引っ張り出して、そこにそろそろと横たえる。
 更に高くまとめた髪が寝づらかろうとそっと外してやると、張りのある黒髪が広がって、急にイルカの醸す表情が変わった。
(うわ…)
 本質的な部分は生まれた時から殆ど変わっていないのではないかと思わせる、その穏やかでどこかあどけない寝顔。
 と同時に、散った黒髪と伏せられた長い睫毛が、そのあどけなさにハッとするような色香も添えている。
 灯りも点けない暗の中、カカシは襖の端から差し込むごく僅かな月明かりを頼りに夜目をきかせると、傍らにひざまずいて暫くその寝顔を見つめた。
(…くっ…、あいつらに襲われる前に、オレが襲っちまいそう……なんかもうさ、そういうのもアリじゃない? ……ってあぁくそっ、ダメに決まってんだろ、バカかオレは…!)
 今にも砕け散りそうになる理性を辛うじて押し止めようと、拳を握り締めて努力する。
 が。
(――まっ、キスなら〜? キスくらいなら……許してくれるよね? イルカセンセ〜?)
 押さつけようとすればするほど高鳴ってくる胸の鼓動に負け、イルカの頭の両脇についた腕をゆっくりと曲げていく。酒臭い息も、自分を誘っているとしか思えない。伏せられた瞼をじっと見つめながら、繰り返し唇を舐める。
 何ら大袈裟でなく、この時をどれほど待ったかしれない。
(いただき、ます…!)
 だがわざわざ両の皮手袋を外し、肘をついたまま艶やかな髪をひとしきり撫でて、そのうっすらと開かれた唇まであとほんの僅か、という時。

「お楽しみのところ、すまねぇな」
 枕元に嫌と言うほど見知った気配が出し抜けに現れて、カカシの動きが凍ったようにビシリと止まった。
 顔など見なくても決して間違えることのない、その声、その気配。
「邪魔しないでくれる、アスマ」
 イルカまであと数センチの所で止まったまま、カカシが全身から物凄い殺気を発しつつ低く唸る。
「あぁ、用が済んだらすぐに失礼するぜ」
「オレは何の用もないけど?」
 屈んでいる男の殺気が、痛いほどアスマに刺さってくる。
 こんなあからさまな殺気は、時折一緒に任務に就いているアスマですらついぞ感じた事が無い。かなり珍しいことだが、本気で怒っているらしい。
「悪いが生憎とこちらもお楽しみが賭かってるんでね、そうもいかねぇのよ。おめぇもあんまり凄い殺気放ってっと、中忍先生が起きちまうぜ? ん?」
 空気を振るわせる程の殺気を全身に浴びても、髭面男は動揺の欠片すら見せずに続けている。
「誰のせいだと?」
 瞬間、アスマの目の前でイルカに向かって伏せていたはずのカカシの姿が、まるで掻き消すようにふっと消えた。
「ぅおっ…とォ」
 アスマが僅かに体を後方に反らすと、真っ暗な中でビュッという鋭い風切り音がして、鼻先数ミリの距離をカカシの右足が掠めていく。
「――出ろ」
 背高い銀髪男は、次の瞬間にはもう奥の襖をすらりと開けていた。既に額当てを斜めに付け、手甲の入った指無しの手袋をはめようとしている。
「ふん、相変わらず素早い奴だな」
「今頃褒めたって手加減しないから」
 カカシの渦巻くような殺気は消え、代わりに挑戦的な笑みが暗がりでニッと見えたかと思うと、すぐにそれは黒い口布の下に隠された。




 美しい十六夜月とすすきが見守る中、イルカの自宅裏の空き地で、アスマとカカシによる「背後を獲るゲーム」が始まっていた。
 しかしこの二人の場合、所詮遊びなどと思って相手を侮っていたら、大怪我をしかねない。
 勿論同胞に怪我を負わせるような危険性のある大技を出すつもりは毛頭ないが、勝つためにはいつまでも手緩い事ばかりやっていられないのもまた事実だ。
 技量は拮抗し、互いに自重しあいながらも、熱い戦いが静かに続く。

「イルカ先生を盾に取らずに、一人で来た事は褒めてやる」
 カカシが月を背にして、もう幾度目かになる印を切った。
「ふ…そんな汚ねぇ真似して勝っても価値なんざねぇから……なッ!」
 いきなりすぐ背後の土中から土塊と共に飛び出して来た、寅の印の攻撃…つまり千年殺し…を紙一重で避けながら、アスマが高く飛び去る。
「土遁か。上手い手だが、俺にゃあ逆効果だぜ?」
 男の吐いた紫煙が、彼の後の月明かりにゆらゆらとたなびいては消えてゆく。
 土中から出たカカシが、すっくと地面に立った。だがそのまま、いつまでたっても微動だにしない。
 アスマの足下から伸びた青黒い月影が細長く伸びだして、いつの間にかカカシの足下にまで忍び寄っていた。
「っ…影真似か…セコイねぇ、教え子の技パクるなんて…」
 月影に捕らえられて、身動きが取れなくなったカカシが呻く。
「ぬかせ。コピー忍者のてめぇに言われたかねぇよ。大体オレの影真似の方が一枚上手だ」
 アスマは口端に銜えていた煙草を足で揉み消し、二本目の煙草に悠々と火を付ける。
 それと同時に、囚われのカカシも何の意味もない同じ動作を強制的に強いられ、忌々しげに男を睨んだ。
 アスマがカカシにゆっくりと歩み寄っていくと、カカシもまたアスマに向かって歩いて行ってしまう。
「今回は、とある事情でちーとばかし本気出しちまってるんでな。悪く思うなよ」
 カカシの真正面に立ち止まったアスマは、二ヤリと笑って寅の印を構えた。
 だが、もうカカシの手はアスマと同じようには動かなかった。なのに、相変わらず体はピクリとも動かせない。
「相手だけを留め置き出来るようにアレンジさせて貰った。中忍先生にゃ悪いが、オマエの後ろはオレが貰っとく」
 髭面の男はニヤケ笑いを噛み殺しつつ、微動だに出来ないでいるカカシの背後へと回った。












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