「ちょ、ちょと待っ…ウソでしょ?! ……あのね、オレの後ろなんて獲っても、何の役にも立たないから! ハズカシイだけだから! ね? 今回はやめとかない〜? …ああくそっ、動けっ…!」
 最後の抵抗とばかりに、渾身の力を込めて上半身だけでも何とか後ろに回そうと躍起になる。しかし、ようやっと少しだけ半身の回ったカカシの目線は、何かに気付いたようにアスマのすぐ背後へと注がれたまま止まった。
「? あぁ? なんだ?」
 印を構えたまま、アスマも後ろを振り返ろうとした、その瞬間。
 どすっ、という鈍い音が、アスマの背後に響いた。
「…な…ッ…?!」
 口端から、ぽろりと煙草が落ちる。
「ぉっ……おま…え…?!」
 余裕に満ちていた表情が、みるみる驚愕のそれに変わってゆく。
「――あらま。うそみたい」
 カカシも、普段は眠そうな目を大きく見開いている。
「そっ、アタシだよ。驚いたー?」
 凛として張りのある、聞き慣れた声の方向には、青白い月光の中、寅の印を結んだまま悠然と佇むみたらしアンコの姿があった。



「――でっ、何でお前なわけ?」
 拘束術の解けたカカシが、白い首をさすりながら訊ねる。
 脇では力無く地べたに座り込んだ髭男が、ふてくされた表情でこちらを睨み付けている。
「そりゃあアタシだって、大親友のたっての頼みとあっちゃ断れないからねぇ。大体女が参加しちゃいけないってルールも無かっただろ?」
 アンコはきゅっと吊り上がった大きな目を細め、綺麗な形の唇を片方上げた。
「…くっ…紅か…?! …あいつ…ッ!」
 アスマの声が上擦る。まさかこんな形で謀反を受けようとは。
 迂闊だった。二人は結構シビアな賭をしている、という重要な事実を見落としていた。
 伏兵は最も近い所にいたのだった。



「まっ、んじゃぁそゆことで。――お二人とも、ご苦労さん」
 手袋をはめた右手をちょいと軽く上げたカカシが、あっさりと背中を向けてイルカの家へと歩き出した。
 その瞬間。

 ――どすっ…

 またもや月夜に不穏な音が響く。
「…は? …どすって…?」
 カカシがポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと背後を見やると。
「――隙あり」
 すぐ真後ろで、寅の印を結んだアンコがニヤリと笑いながら、ペロリと舌なめずりをしている。伝説の三忍仕込みのドSは、こんな所にまで生きていたらしい。
 アスマが脇で盛大に吹き出した。
 しかし。
「なーいよ。隙なんて」
 少し離れた高い木の上から、力の抜けた呑気そうな声がすると、続いて音も無く銀髪の上忍が飛び降りてきた。
 それと同時に、アンコの前にいたカカシが一塊の煙となって掻き消える。
 暫し呆気にとられる二人。

 ややあって。
「――ふっ…カカシ、おめぇにゃ負けたよ」
 苦笑しながら立ち上がろうとした、アスマの大きな体がびくっと仰け反った。
「――つつッ…痛ってぇー…アンコてめぇ、ちったぁ手加減しろよな。…ったくよォ」
 苦笑が歪んで引きつった。

「じゃなっ、アンコ。紅に宜しく言っといてよ。アスマは…まっ、お大事にぃ〜」
 銀髪男はちょいと右手を上げると、今度こそ一瞬で闇に溶けた。




 寝室に戻ると、イルカは相変わらず頬を染めたまま、天使の寝顔を見せていた。
(…よかった)
 意識せず、カカシの目に安堵の光がさす。
「イルカ先生…こんな無防備な寝姿さらしてたら、ホントに悪い奴等に後ろ獲られちゃいますよ?」
 言いながらもう既にひざまずき、少し寝乱れた襟元に手を差し入れて、首筋から頬へとそっとなぞり上げていく。
「ぁ〜…あったかいねぇ」
 思わず髪に顔を埋めると、何とも言えない温かな薫りが鼻孔をくすぐった。くらりと甘い目眩を感じる。傍目には変態行為と映るかもしれないけれど構いはしない。ここは誰に憚ることもない、二人だけの世界なんだから。
「――おっとォ、こりゃ失礼ッ。おアツイ青春結構ケッコー!」
 しかしその甘やかな陶酔は、暑苦しいコメントによって瞬く間にぶつりと断ち切られた。
「…………」
 カカシが漆黒の髪に顔を埋めたまま、目線だけを声の方にくれると、さっきアスマが仁王立ちしていたのと寸分違わぬ場所に、白いレッグウォーマーが見える。
「――お前ら…グルだろ」
 カカシは何ら苛立ちを隠すことなく、怒りのこもった低い声で呻った。
「グルって…オレがか? バカを言うな! これがお前との記念すべき100戦目のファイトなんだぞ?! メモリィなんだ! 正々堂々一人で来たに決まっているだろうが! さぁ、表に出るぞ、カカシィ!!」
「おーきな声出すな! …ったく……わかったよ。裏行け、裏!」
 イルカを気遣った小声のカカシが皆まで言い終わらぬうち、白いレッグウォーマーは視界からふっと掻き消えた。

(――やれやれ…。じゃあそんな訳ですから、もう少しいい夢見てて下さいね、イルカ先生)
 カカシは一度だけ優しく黒髪を撫でると、その姿勢のまま闇に紛れた。




 雑草の生い茂る裏の空き地には、もう人の姿は無く、虫の音だけが何事もなかったように響いていた。
「…先に誰かと、ここでやったな?」
 周囲を見回し、アスマとカカシが鋭く立ち回った名残を目敏く見つけると、ガイが薄く笑う。
「あぁ、髭がな」
 言いながら、見る間にカカシの姿は百を越える姿に分身していき、広い空き地を埋め尽くしてゆく。
 一体一体みな異なる構えでガイをぐるりと取り囲んでいるものの、その両の手だけは全員、意地悪くも虎の印を結んでいる。
「で、どっちが勝ったんだ?」
 そんな馬鹿馬鹿しくも異様な光景と、一体一体が発する強烈な圧迫感に対峙しつつも、微塵の動揺も見せずにガイが問う。
「そんな事、気にしてる暇あんの?」
 質問には答えないまま、無数のカカシがビュッという風切り音を引きながら、ガイめがけて飛んだ。
「遅いッ!」
 呟くと、ガイは針の穴を通すような正確さと素早さで、流れるようにそれらの攻撃をかわしだした。その一連の様はどこか楽しげに舞い踊るようでもあり、ある種の美しささえ漂わせている。
「どうした! 全然効かないぞ。さあ、もっと気合い入れてかかってこいッ!」
 何十体もの鋭い攻撃をいとも簡単にかい潜って、カカシの本体に一直線に突っ込んできたガイは、彼の真正面に堂々と立ちはだかり、伸ばした右手の指でちょいちょいと彼に手招きしながら真白い歯を見せた。
 瞬間、目の前に『今まさにカカシに強烈な千年殺しをお見舞いされ、尻を押さえて大絶叫しているマイト・ガイ』の姿が現れた。
「ぬぁにいッ?!」
 思わずギョッとなり、その恐ろしくリアルで壮絶な光景に見入りながら一歩後ろに後ずさる。が、ハッとした男は何かに気付いた様子で、奥歯をギリリと噛み締めた。
「…くっ…カカシお前…ッ!」
 両の拳を握り締め、羞恥と悔しさでブルブルと肩を震わせている。
「ま、お前なら引っかかると思ったよ」
「いやぁ〜結構効いてるねぇー」
「奈烙見の術だ〜よ〜!」
 ガイに倒されなかった、残りの何十というカカシの影分身が、自分を指さして鼻で笑っている。初めからこれを見せるためだけに、わざわざ大量の影分身まで使って油断させたらしい。
「馬鹿者っ! もっと真面目にやらんかッ!」
 ガイはおかっぱ頭を振り乱しながら怒鳴っている。
「ちゃんと真面目にやってるってー。んなにアツくなんないでよね。大体誰も出向いてくれなんて頼んでないのに、こんな時だけ次から次へと…」
 笑っていた猫背の影達は、瞬く間に白煙と共に消えて本体だけになり、気の抜けた、いかにもやる気の無さそうな一人分の声だけが空き地に響く。
 虫の声が、ススキのざわめく音と共に戻りはじめている。
「ガイ、お前は一人でオレとやりあうつもりでここに来たかもしんないけど、こっちは今、それに付き合ってる余裕無いのよ。悪いんだけどさ。…なぁ、イビキ!」
「そうだな」
 ドスの効いた低い声にガイが振り返ると、顔じゅうに傷跡を走らせた巨躯の男が、月を背にして立っていた。
 しかもその大きな懐には、両腕を縛り上げられて囚われた、小さなおかっぱの少年が立っている。
「ガイ先生ーーーっ!! …すみません…すみませんっ…僕…!」
 リーの真っ黒な瞳が潤んで、生真面目そうな声が震えている。いくら気丈な少年とはいえ、怯えるのも無理はない。相手は隠れ里随一の拷問のエキスパートだ。一旦決めた目的を達成するためなら、どんな酷い事でも眉一つ動かさずにやれる男であることは、どんな下忍でも知っている。
 敵国の猛者ですら、彼に金縛りの術をかけられて尋問されただけで、その精神的苦痛に発狂しそうになるというのに、この純粋でいたいけな子供がそんな男に捕らえられた衝撃はいかばかりだろう。
「ぬ…ぬおぉうカカシィ…! お前のやり方は、いつもいつも笑えんぞッ!」
 これは奈烙見の術などのまやかしではなく、紛れもない現実なのだと悟ったガイの激眉が、これ以上ないという程にまでギリギリと吊り上がった。ただでさえ熱い瞳が烈火の如く燃えさかり、全身から凄まじい気が立ち上る。
「あらそう? まぁ、そうアツくならずに。すぐ済むって」
 カカシはしゃあしゃあと言ってのけ、人質を取られて動けずにいるガイの背後へゆっくりと回った。
「させるかッ!! リー! オレに構うな! 木ノ葉旋風で逃げろ!!」
「かっ、金縛りの術で…動けないんです! 僕の事より、ガイ先生ッ…あっ、後ろっ!」
 瞬間、物凄い風圧がカカシの顔を押し、間髪入れずガイの後ろ回し蹴りが紙一重の所を掠めていく。だがギリギリ避けたと思った直後には、更に威力の増した上段の前回し蹴りが飛んできて、カカシの左こめかみを直撃した。
 銀髪男の体が、物も言わずに空き地の隅へと転がっていく。












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