(あれま、なんか逆効果だったみたい?)

 先程アスマとの戦いの時にも登っていた樹上で、本体のカカシがやれやれと溜息をついた。
 カカシも、ガイの究極まで極めきった体術の数々は正直苦手だ。でもだからと言って得意の忍術を多用してしまうと、ともすれば怪我をさせてしまいかねない。
 そういう際どい一戦は交えたくないと考え、仲間と共同戦線を張って体術封じをかけたつもりだったのだが、激昂する今の様子を見ていると、どうも思い切り裏目に出たような気がする。
 勿論、イビキは本気ではない。お得意のいつもの迫真の演技だ。カカシが仲の良いゲンマを通じて、予めこっそり彼に加勢を頼んでおいたのだ。よってイビキに捕らえられているリーとは、そのゲンマが絶妙に変化したものだったりする。
(こりゃ、ちょっと方向転換しないといけないな)
 自分の影分身が、すっかり沸点に達したガイに引き続き思い切りやられているのを見て、カカシは小さく溜息をついた。
(…ん?)
 その時、目の端にちらりと映った人影に、はっと息を呑んだ。
 秋風に揺れる背高いススキの中を、髪を下ろしたままの姿でこちらに歩いてくる男は……
「なっ?! ……イルカ…先生…?!」

(――マズイなー、これじゃあイルカ先生を逆人質に捕られた上に、話がますますややこしくなる!)
 見るとガイやイビキ達も、その今頃とも思える予想外の「参入者」に動きが止まっている。
 だがカカシが梢から飛び出そうとした時だった。イルカの足元に、ガイの二連後ろ回し蹴りが決まってぼろ雑巾のようになった、カカシの影分身が転がってきて止まった。
 一瞬びくっとしたイルカが足を止め、その丸太のように転がってきたものをじっと見下ろす。
「…ぇっ……カ…カシ…せんせ…? ……カカシ先生ーーっ?!」
 ややあって、中忍の悲痛な叫び声が空き地に響き渡った。
 勿論、大半の力を使い切ってしまっている影分身からの返事はない。
 しかし冷静になってよくよく見ると、どうやらイルカはまだ相当に酔っ払っているらしかった。
 赤い目元は随分と据わっているし、足元もおぼつかない。呂律もきちんと回っていない上、足元を見れば…なんと裸足だ。
(あれま、騒ぎに気付いて寝ぼけたまま起きて来ちゃったのね〜)
 しかもべろべろに酔っ払ったまま。
 カカシは樹上で頭を抱えた。これでは三歳の子供でも後ろを獲るのは簡単だ。
 イルカは尚もカカシの影分身に取りすがり、胸に抱き寄せて必死で叫んでいる。あまりに珍妙な展開に、イビキもゲンマも、そしてガイまでもが皆呆気にとられて、その様子を眺めることしかできない。
 しかしイルカの叫びがぴたりと止んだかと思うと、代わって今までカカシが感じたことの無い、冷たく刺すような殺気が空き地に充満し始めた。
 それは発生源からみて、どう考えても酔っ払っているはずの目の前のイルカから発せられているとしか思えなかったが、それにしては恐ろしく悲壮な感じがする上、爆発するような強烈な力も感じられ、更にそこに激しい怒気をも内包している。
「――どうしてカカシ先生を、何故こんなにしたんですか! 仲間でしょう? しかもそんなか弱い子供まで盾にとって…! ――許さない…絶対に許さないぞあんたら!!!」
 イルカが、リーやイビキやガイを知らないはずがないのだが、酷く酔って正気を失っている上、怒りや悲しみですっかり我を忘れているらしい。端から見ていると、まるでたちの悪い幻術にでもかかっているかのようだ。
(なーんか変なことになってきましたよーっと…)
 カカシは樹上から出るに出られなくなり、影分身も消すに消せなくなって、尚もその様子を高い梢から見守り続ける。
 イルカはカカシの影分身をそっと地面に横たえると、時折ふらつきながらもガイに向かって歩き出す。
「あなたれすね…カカシ先生を、あんなにしたのはっ!」
 恐ろしく据わった目で、ガイを睨み付けている。
「ぬぁ?! アナタって……、オイ、イルカ! しょっちゅうアカデミーで会ってるオレがわからんのか?!」
 面食らうガイの体は、真正面からくる強い視線に圧されて、後ろに仰け反り気味だ。
(うわ、イルカ先生、なんか今日はやたら気合い入ってるなー)
 彼は普段の明るく温厚な姿からは想像が付きにくいが、実はかなり胆の据わった男だ、とカカシは思う。時折どうでもいいような些細なことに迷っていたりする反面、ここ一番で一旦こうと決めたら、怖いくらい迷わない所がある…ことが、今は怖い気がするのだが。
「おい、いいからちょっと待…」
「問答無用ーーーッ!!」
 次の瞬間、ガイのおかっぱの髪が一房、ぱっと周囲に飛び散った。間髪置かずベストの脇ががすっぱりと切れ、両のレッグウォーマーが派手に破れ飛ぶ。
 その全てはほんの一度だけ瞬きをする間に起こったが、ガイは全く動けないままだった。動かなかったのではない、明らかにイルカのとんでもないスピードについていけず、動けなかった。
「…今度は…本当に心の臓を狙いますよ…」
 すっかり据わった目をして低く構えをとりながら、イルカが静かに予告する。本当にやる気だ。今の彼に何を言っても止められない事が、その尋常ならざる様子から容易に想像できた。
 しかし一旦は構えたものの、イルカはいつまで経っても次の手を繰り出さないでいる。
「ガイ! 何凍ってる、早く逃げろ! 今のうちだぞ!」
 イルカの異変を感じ取り、得意の金縛りの術で彼の動きを封じたイビキが叫んだ。
「…なっ、何っ…するん、です…かぁっ…!」
 動きを封じられたイルカの、怒気とチャクラが激しくぶつかりあいながら混じり合う。ともすればそれは目に見えるほどに青白く渦巻いて、金縛りを真っ向から振りほどかんと体内で暴れ狂っているのが容易に見て取れた。
 やがてゴウッという風鳴りと共に力ずくで術が解かれると、イルカはイビキのほうへとキッと振り返った。鋭い頭の動きにつき従って艶のある黒髪がぱっと丸く広がり、月光をきらきらと跳ね返しながら薄赤い頬にかかっている。
 睨み付ける双眸には激しい漆黒の業火が燃え滾り、歴戦の猛者であるイビキをも刺し貫いて、その背筋を凍らせる。
 イビキの腕の中で囚われのリーを演じていたゲンマは、尚も呆気にとられたまま身じろぎの一つもせず、そこで小さく固まって突っ立ったままだ。
 次の瞬間、緑色のスーツに身を包んだおかっぱの少年を見たイルカはふっと目を細めて表情を和らげると、長い睫毛をけぶらせて、酒が回った桜色の手をゆっくりと差し出し、リーを…正確にはリーに扮したゲンマを呼んだ。
「さぁ、おいで。もう大丈夫だ」
 少し小首を傾げてうっすらと微笑む、天上界からの遣いかと錯覚しそうなその慈愛に満ちた誘いに、呼ばれたゲンマはようやくハッと我に返った。
「ぁっ……あぁいえ、イルカ先生、実はオレ…」
 ぼうん、という音と共に、リーは長身の金髪男に戻ってポリポリと後頭部を掻いた。口にはしっかと長楊枝。
(あぁっ、ゲンマのバカっ!)
 樹上では、カカシが再び頭を抱えた。
(今のイルカ先生を止められるのは子供のリーだけだったのに、火に油注いじゃってるし!)
 その証拠に、変化を解いた背高いゲンマを見た瞬間、イルカの中で何かが音を立ててブチ切れたのが、その場にいる全員にありありと感じられた。
「――たく…いい大人が…寄ってたかって馬鹿な事を…! その上カカシ先生まであんなにするなんて、…いい加減にしろ、お前らーーッ!」
 『寄ってたかって馬鹿な事を』というイルカの振り絞るような科白は、その場にいた全員の心に突き刺さった。
(ホントそうだよね、まったくあなたの言う通りだ。確かにオレ達は意地になってえらくバカな事をやらかしてた)
 カカシはその言葉を、ことのほか重く受け止めた。
 だがいつまでも後悔の念に囚われている場合では無い。その言葉を発した本人は、再び渦巻き始めた殺気に包まれながら低く構え、何やら見たこともない長い印を切り始めている。
(…えっ、ちょっと、なにこれ…?!)
 何かは分からない。何かは分からないけれど、イルカの体内に走る経絡を赤い左目で見た時、背筋に言いようのない戦慄が走って、カカシは弾かれたように梢から大きく跳んだ。

「みんな、逃げろーーーッ!!」
 カカシが上方から叫びながら、イルカ目がけて突っ込んでいく。
 その右手は、もう既に直視出来ないほど真っ白な光を放っていた。












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