「こんばんわ」

 大残業の果てに、深夜イルカがようやくアカデミーの門を出ると、門扉に里支給の黒い外套を羽織った男が凭れていた。
「カカシ先生…!」
 だがそのイルカの顔は、勢いよく上げられた動作とは対照的に、一目でかなり疲れていると分かるほどやつれている。本人はその事に気付いているのだろうか。
「オレ、今から飯なんですけど、イルカ先生も久し振りにラーメンじゃないものを腹に入れておいた方が良くないかなぁと思いましてね?」
「――ぁ…ええ、はい!」
 こうして誰かが誘ってくれなければ、今夜もまた特に何も考えることなく判で押したように同じコースを辿るところだったイルカの胸の奥に、ふっと温かいものが灯る。
 目立った灯りもない寂しい道を、同じ外套を着た二つの影が並んで歩き出した。




「――カカシ先生と食事したの、何だかものすごく久し振りって気がしましたけど、実はまだ一月くらいしか経ってないんですよね」
 早めに店から出ると、イルカは「止めておいた方がいいんじゃないですか?」とカカシにやんわり言われたにもかかわらず、「一杯だけ」と言って結局三杯呑んだ酒のせいですっかり赤らんだ顔を向けてきた。カカシは周囲の気配を油断無く伺いながらも、(白い息が、表情や黒髪によく映えてるな)などと思う。
「大丈夫。またすぐに週末になったら落ち着いて呑めるような日が来ますよ」
 先回りして答えると、イルカは黙ったまま、まるで自分に言い聞かせるようにうんうんと何度も頷き、そしてまた居酒屋での席と同じようにふっと口を噤んだ。
(あ、また…)
 こんなに喋らないイルカはカカシも初めてで、どうしたものかと思うがどうしたらいいか分からない。

「…あの…カカシ先生は、あれから幾つか術を会得されましたか?」
 そのうち、ふと顔を上げたイルカが突然思い切ったように妙なことを切り出してきた。カカシはその余りの脈絡の無さに、(もしかして酔ってるのか?)と訝しむ。
「はぁ…術、ですか? まぁ日進月歩の世界ですから、新術の開発に関しては常に怠らないようにしてますが」
 ガイも言っていたが、この人にあんな凄いものを見せられたら、そりゃあ誰だってじっとしていられるはずがない。だが続いた男の言葉にハッと胸を衝かれた。
「去年の秋、カカシ先生に『あなたは今のままでいいと思っているか』って問われて、俺その時は確かに『このままじゃダメだ』って思ったのに、あれから何日経っても同じ所に立っていて、自分がどこにも一歩も前に進めてない気がして仕方ないんです」
 すぐにカカシは(あぁ余りにも多忙すぎて、自らを余裕を持った目で冷静に見られなくなってるのだな)と、自身も一度ならずとも通ったことのある感覚にぴんとくる。
「…や、あのっ、それはまぁ…俺の愚痴なんでどうでもいいことなんですけど。――もし人にそれぞれ大事な役割があって、適した居場所があるとするなら、きっとカカシ先生はみんなの希望とか目標になる人だと思うんです」
 居酒屋ではふっと黙り込むか当たり障りのないことしか喋っていなかった男が、急に突っ込んだ真面目な話を振ってきて、カカシは無意識のうちに背筋を正す。
「は……じゃあ、あなたは?」
「えっ?! おっ、俺は…俺はそういう人達を応援する役割っていうか…。とにかくっ、カカシ先生はそうしていつもみんなが見えるようにずっとずっと高い所を走っていて下さい。ふとした弾みで自分の向くべき方向が分からなくなる仲間達のためにも!」
「…………」
 言われたとき、カカシはなぜかほんの僅かながら一抹の寂しさのようなものを感じたものの、他でもないイルカがそう望んでいるならと「分かりました」と頷く。
「オレもね、イルカ先生に日々課せられている役割の大変さも分からずに、一方的に無茶を言って焦らせてたのかもしれないです。これからはそれぞれが出来ることを、与えられた場所で精一杯やる、ということにしましょうか」
「ぁ…はい!」
「ただし、それには一つだけ条件があります」
「?…なんでしょう?」
「他の人が誰一人として省みなくなったとしても、あなただけはいつまでもその希望の方を向いててくれますか?」
「――…っと……その…ぁ、はい」
 一拍間をおいたあと、イルカは赤い顔のまま上忍の方を見上げながらはっきりと答えた。


「――あはっ、その…何というか…少しだけホッとしました」
 そのあとはずっと黙って隣を歩いていたイルカが、自宅の外玄関の潜り戸の前まで来ると、カカシの方を向いて指先で鼻の傷を掻いた。
「そう?」
「ええ。実を言うと…カカシさんが日々向上していることで俺との距離がどんどん離れていってるのは、それはそれでとても素晴らしくて喜ぶべきことのはずなのに、正直それがちょっと辛いっていうか…寂しいような気がする時もあったんです。……追いつけない自分が悪いのに…」
(イルカ、先生…)
 彼は今、心底疲れているのだとカカシは思った。本当に意味があるのかすらよく分からない任務まで言い渡されて、無駄に時間と神経をすり減らしてしまっている。一つの歯車がその役割の大切さを理解して歯車としてのプライドを持ち続け、今日も明日も、そして十年、二十年先も歯車で居続けることほど大変で難しいことはないというのに。
「ねぇ、なんでそこまでオレとの間に距離を感じちゃうのかな?」
 気付いたときには、内側で渦巻いていた色んなもどかしさが言葉になって転がり出てしまっていた。
「え…?」
「はたけカカシが、誰よりも一番近い所にいるって感じたこと、ない?」
 指先のない皮手袋越しにイルカの片手を取ると、きっと温かいんだろうとばかり思っていたその手が、自分より冷たいのだと初めて分かる。それが意味もなく悔しい。
「あの…っ」
 後ろに下がりかけたイルカの背中が、板戸に当たって止まった。それでも取った手を彼が振り払おうとしないのは、脈有りと思っていいのではないだろうかと、高鳴る胸の内で密かに思う。
「ん? 少しは考えられそう?」
 心持ち首を傾げながら笑みを向ける。
「――そのっ………無理、です…」
(……?)
 答えを聞いても、暫くカカシはその言葉の意味が理解出来ずににっこりしたままだった。期待していた答えと余りにもかけ離れていて不意を衝かれ、今自分がどういう表情をしているのかさえよく分からない。


「……そう」
 数秒後、ようやく色んな回路がまともに動き出して真顔に戻すことが出来たが、ぽっかりと胸の辺りに開いたものは当分塞がりそうにない気がした。真っ黒な睫毛がびっしりと生え揃った、伏しがちな瞳を間近で見つめながら、冷たい手をそっと離す。
(……無理、か…)
 当分その二文字は耳にしたくないな、と思った。それでもイルカを自分一人のものにしておきたいという欲求には、些かの変わりもないことが、今は少し辛い。
 きっと切り出すタイミングも、言い方も良くなかったのだ。
(ん…きっと…そうだよね…)
 イルカが取り乱した様子で潜り戸の向こうに急ぎ足で消えると、カカシは初めて触った思い人の手指の感触ごと握りしめて、そろりとポケットにしまう。今夜はそれを思い起こしながら、イルカ宅の周辺で寝ずの番だな、と門前で踵を返した時だった。

「……うはははーやっぱフラレてるー、モロ玉砕だよ……」
「……そりゃそうだろう〜、幾ら万能の上忍様でも付いてるもんが同じじゃ、どだい無理ってもんさ……」
「……加えてあのくそ真面目なイルカだぜ? 無理に決まってんだろ、絶対無理! 賭けてもいい……」
「……しっかしよくやるよなー。あんなフツーっぽいもっさり男のどこがいいんだァ?……」
「……オレが知るかよ。結局は自分がエロ本読むのを大目に見て欲しいだけなんじゃねぇの?……」
「……ふっ、それだって無理が通れば何とやらだ。自分だけ抜け駆けしようったってそうはいかねぇぜ……」
 背後からひそひそとした忍び声が聞こえてきて、カカシはひたと歩みを止めた。声の主はイルカがアカデミーを出た時からずっと付け狙っていた連中だ。
(狙いはオレか、それともイルカ先生か…)
 それは分からないが、今となってはどちらでも同じ事だと思った。
「…………」
 カカシはその場に佇んだまま、唯一露わになっている右の目をすっと閉じる。

「――や〜お前らもつくづくバカだねぇ」
「黙って付け狙ってるだけだったら見逃してあげてたのに」
「ま、ここは自業自得ってことでひとつ」
 次の瞬間には、物陰に潜んでいた十数人の中忍のすぐ真後ろで、黒い外套を羽織った三体の銀髪男がぼそぼそと喋っていた。
「…ッ?!」
「カカッ…?!」
「ヒイィ!!」
 胸にみたらし団子の缶バッジを付け、頭に『アンコ命』と墨書きされた白い鉢巻きを付けた男達が、一斉に泡を食って凍り付く。見れば皆、敵対している派閥の連中に顔を知られたくないらしく、目から下をタオルや額当てで覆い隠している。
「あらま。オレの専売特許を侵害した罪は重いよ〜? 覚悟は出来てる――よね?」
 三人がにっこりと微笑み、揃って黒い革手袋をはめた拳をもう片方の手でぎゅっと押し包むと、ボキボキッという不吉な音が夜空に響いた。






「オイっ、聞いたか! 『アンコ闘争委員会』が、夕べ全員粛清されて解体されたらしいぞ?!」

 翌朝。
 アカデミーの水面下は、早くもその話題で蜂の巣を突いたような騒ぎになっていた。
「おう遅いぞ、しかもヤッたのはあのカカシさんらしいぜ?」
「げえぇッ、マジィ?!」
「何でも十五人近くいたメンバーの後ろを、たった三人の影分身で一気に獲ったらしいんだがな。その時の四指による怒濤の突きが迅雷さながらの凄まじさで、右手指なんてパチパチ光ってたらしいぞ」
「うひぇ〜!」
「ヤラレたヤツの話じゃ『まだ馬に蹴られて死んだ方がマシなくらいの痛み』だったってよ。噂じゃ電流食らって一時的に勃たなくなったヤツもいたって話だ」
「ほーっ、くわばらくわばら。触らぬ神に祟りなしィ〜!!」


 その日は半日ほどカカシの取った行動が各地で波紋を呼んでいたものの、最終的にはどんなに徒党を組んだところで風紀委員のイルカと、その背後にぴったりと寄り添うように貼り付いている上忍の後ろを獲ることなど到底不可能だと悟った者達は、次第にその鬱憤の捌け口を、相反する思想の者達へと振り向けだした。

 すなわちその瞬間、アカデミーを舞台にした木ノ葉の忍同士の潰し合いの火ぶたが、本格的に切って落とされたのである。




「えっ、なに? イルカ先生、今日来てないの?!」
 しかしここに、そんないざこざになど到底構っていられない男がいた。
 夕方、カカシがいつものように下忍を伴った任務から帰ってきて報告書を出しに行くと、受付席に居るべき人物が居ない。聞けば今朝「体調不良のため半日休みます」という文を付けた伝鳥が一度来て、それきりだという。
(体調不良〜? だって夕べは何ともなかったじゃ…あぁいや、確かにかなり疲れてはいたみたいだけど、そんな休むほどじゃ…)
 昨夜はイルカを見送った後で、思い切った掃討作戦に打って出ていたため、流石に彼に手を出す者は暫くはいないだろうと踏んで見張りを付けていなかったのだが、まさかそれがこんな不測の事態を招くとは。
(…くそっ…甘かった…)
 一刻も早く安否を確認しなくては心臓に悪い。
 カカシは報告書を押し付けるようにして提出すると、大股で廊下に出て行き、そのまま自身が吐いた白い息よりも早く掻き消えた。













        TOP     書庫    <<   >>