(う、浮いたーっ!!?)
 数分ののち、ジェット旅客機なんかより遥かに凄い振動と騒音の中、セスナは8人と大量の荷物を乗せてふわりと本島を離れた。何というか、正直ちょっと感動だ。だってジェット機は飛んで当たり前っていうか、自分が上空1万メートルの高さを時速600キロの速さで飛んでいる実感なんて殆ど湧かなかったけれど(いや、実感したらマズイけど)、このセスナというのはとんでもなくリアルだ。確かに自分が空を飛んでいると五感でもって実感出来る。
 自分自身に翼が生えて飛んでるのと大差ない感覚のまま、機体は真っ青な海の上を飛びはじめた。機体が今にもバラバラに分解してしまいそうな、ガタガタゴウゴウビュウビュウという凄まじい騒音と、尻に直接響いてくる振動は離陸しても殆ど変わらなくて、周囲との会話はほぼ無理だ。
 高度は低く、真っ青な大海原に白波が立っているのが肉眼でもはっきり見える。海面には小さいながら、セスナの機影さえも映っている。
 時折綿菓子みたいな丸い雲がふいっと視界を横切っていき、キラキラ光る真っ青な海では、ダイバーらしき人達を乗せた大型のリゾートボートが波飛沫を上げながらどこかへと向かっている。
(…うわぁ〜、うわぁ〜…!)
 上手く言葉にならない。怖いなんて感覚、いつの間にかすっかりどこかに消えていた。何だか夢の中にいるみたいで、海面の反射のせいじゃなく何度も目を細める。
(本当に来ちゃってるんだなぁ)
 パーテーションで区切られ、雑多な資料で埋め尽くされた狭い自スペースや、いつも行っている裏通りのひなびたラーメン屋、年中混み合っている埃っぽい駅構内の雑踏なんかが、まるで遥か遠い別の世界の出来事のように思えた。


(…あ、あの島かな…?)
 15分ほどのち。
 前方の窓枠の隅に、象牙色の砂ときれいな水色の浅瀬に囲まれた、幾つかの島が見えだした。思わず隣を見やると、気付いた髭さんがうん、と一つ小さく頷く。どうやら髭さんはあの島に行き慣れているらしい。俺もうんと大きく頷き返す。

 滑走路に着陸するまでの間、ひゅんと体が真下に落ちるような、エレベーターの急降下みたいな感覚が3度ほどあったけれど、ハイになった俺は「うひゃあ!」とか言いながらすっかり遊園地気分だった。無事滑走路にタッチダウンして機体が止まった時は、「ブラボー!」と叫んで力一杯手を叩きたいくらいだったけど、皆にならって「どうもありがとうございました!」と言った。なんていい気分だろう。「ストレスって何だったっけー?!」と大声で叫べそうだ。考えてみればお世話になったパイロットさんに直接御礼が言える飛行機なんて、そうそうない貴重な体験だろうし。
 車よりまだ小さいようなドアが開かれて、真夏の太陽の下に降り立ったとき、改めて振り返ってその機体を見る。シンプルで無駄のない真っ白い機体は、分解の危機どころか強光線の下でもきりりとしていて、「お前らを運ぶくらい、朝飯前よ」とでも言っているように見えた。
(そうだよな。よく頑張った)
 俺はこの日のためにと奮発して買ったデジカメを取り出すと、その小さな勇姿を画面一杯に収めた。


 着陸したその島にショップがあるのかと漠然と思っていたら、実はまだそこから先があった。
 訳が分からずキョロキョロしていると、さっきの髭さんが「おめぇさんは? どの島に行くんだ?」と聞いてきた。
「えーと、――あれ? なんて言う島だったかな。…その…サバク、ソウソウっていう所なんですけど」
 咄嗟に島の名前が出てこなくて、リュックの外ポケットを探りながらも、一番インパクトのあった店の名をとりあえず口にしてみる。
「あぁ、あそこか。んじゃまぁ、いいから乗れや」
「あ、はい!」
 髭さんが親切で頼もしい人で良かった。俺は係員さんが二人くらいしかいないプチ空港から、港に向かって出る乗り合い車があるなんてこれっぽっちも知らなかったから。
 セスナに乗っていたうちの6人ほどが乗り込んで、ものの1分ほどで着いた港には、何艘かの漁船に混じって小型のレジャーボートが一隻ぽつんと停泊していた。どうやらそれに乗って各島に渡るらしい。
(すごいなぁ、島に行くまでにもうこんな大冒険が出来るなんて〜)
 俺は舟なんて子供の頃に公園で両親と乗った足こぎボートくらいしか経験がない。長年あの長いまつげのスワン号が泳げない俺の最初で最後の舟になるんだとばかり思っていたけれど、まさかこんな凄い展開が後に待ち受けていたとは!
 既にボートに乗って待っていた船頭と思しき中年のおじさんは、とても同じ人種とは思えないほど真っ黒に日焼けしている。送迎車のドアが開くと、至極のんびりした、でも独特の軽やかな口調で「はい、乗船して下さいねぇ」とだけ言った。
(うわぁ、今のは南国の響きだ〜)
 その微妙なイントネーションの違いにうずうずと嬉しくなる。背後に響く蝉の声は都会の騒音を遥かに凌ぐ大合唱だし、思わず駆け寄った岸壁のすぐ下には、名前も知らない青や黄色の小魚が気持ちよさそうに泳ぎ回っていて、ただでさえハイになっていた気分が更に盛り上がっていく。
(くーっ!これぞまさしく「僕の夏休み」だな!)
 南の島ならではの旅情が、行く先々で一杯に手を広げて俺を出迎えてくれている。
(来てる、来てるぞ〜、いよいよ楽園生活は目の前だ!)

 ところでその船頭さん。海に突き出したコンクリートの岸壁から一段低い位置にあるボートに直接乗り込む際に、女の子には手を差し出してバランスを取ってあげているものの、野郎の時には完全に傍観していた。うん、まぁ気持ちは分かる。こればっかりは全世界(?)共通なのかもしれないな、などと変なところに感心する。
 そんな中、全くの手ぶらでかなり旅慣れているっぽい髭さんは、荷物の一つも手渡さずに高低差のあるボートへと軽々乗り込んだ。そして渋いアロハシャツの胸ポケットから煙草を取り出すと、舟の揺れなど気にも留めずに、手慣れた様子で火を付けるや旨そうに吸いはじめた。
 ボートが港を離れると、勢いよく前方から吹き付けだした海風が、彼の髭や髪を撫でながら紫煙を青い空へと高く運び去っていく。
(へえ〜、絵になってるなぁ〜)
 ボートが離岸し、スピードを上げながら一番近い島へと舳先を向けると、俺は惚れ惚れしながら髭さんとその後ろの空と島と海を見た。
 舟の周囲には、手を伸ばせば触れそうなほどすぐ近くに、真っ白な波飛沫が絶え間なく上がっている。それら無数の粒はキラキラと眩しく輝きながら、鏡のように凪いだコバルトブルーの水面へと弧を描きながら消えていく。海水の一粒一粒がまるで宝石みたいだ。
(もしかすると、俺もこんなきれいな所なら、すっかりいい気分になって気が付いたら泳げてるんじゃないか?)
 そんな気がした。

 最初の島に近付いたとき、髭さんに「この島だぜ」と言うかわりに無言のまま指を指されて、俺の興奮度はついにMAXになった。
(よーし、来たからには頑張るぞーっ!)意気揚々と最初に立ち上がって下船しに行く。
 でもとてもサマになっていた髭さんを見ていて(いいなぁ、俺もいつか名前に相応しい海の男をキメたいよな)なんて、無謀にもほんのちょっぴり思ってしまったせいなのか。
 船頭さんに「どうもありがとうございました!」と礼を言って、大きなリュックを港の係員さんに渡し、自分はボートからひらりと格好良く岸に跳び上がった。――つもりが、濡れた舟の縁にかけてしまっていたデッキシューズがいきなりずるりと勢いよく滑った。
「ひッ?!」
 瞬間、(泳げない!)と思った心は、その後の体の動きを全て凍り付かせて止めてしまっていた。本当なら泳げないからこそ、素早くその場で回避の行動を取らないといけないというのに。
 けれど真夏の直射日光に晒されながらもパキンと瞬間冷凍した体は、岸から係員さんが咄嗟に差し伸べてくれていた手にも掴まれずに、青い水面へ向かってまるでスローモーションのように落ちていく。後ろで女の子達の甲高い悲鳴が一斉に上がる。
 
 一瞬の水を打ったような沈黙の後。
「――…た、たす、…て…」
 腹の底から精一杯上げたはずの声は、蚊の鳴くようなものだった。
 滑った際に偶然伸びていた片腕が、辛うじてボートの縁に引っかかったことで、俺は危機一髪海に落ちずに済んでいた。けれど舟が小さいせいで、腿から下は既に海水にどっぷりと浸かってしまっている。
「…は…やく…、す、すべる…!」
 まるでボートに引っかかった巨大なイカリみたいになりながら、必死で周囲に助けを求める。靴を履いたまま水に浸かってしまった足はずっしりと重く、このまま首までドボンといったら一切の自由が利かなそうなことは容易に分かった。なのに船頭さんは「危ない! 岸壁に挟まれるよ! いいから早く手を離しなさい、大丈夫さぁ、すぐに引き上げてあげるから!」と目の前で叫んでいる。
(な、なんだってぇー?!)
 今この状態で手を離すだって?!
(じょ、冗談じゃない!)
 考えただけで身震いがする。
「…むっ、…ムリ…っ!」
 その言葉にますます体を硬くして、ボートの縁にぎゅうぎゅうとしがみついた。足を呑み込んだ青い海が、耳元でチャプンチャプンと笑うように鳴っている。でもそれは、いつになく怖い音のように聞こえた。子供の頃に見た巨大サメ映画のワンシーンが、突然脳裏を過ぎる。
(嫌だ、絶対に落ちたくない! 誰か、早く引き上げて!)
 けれどもう腕は棒のようになっていて、殆ど感覚がない。
(髭さん! 髭さんはッ?!)
 彼なら絶対に引き上げてくれる! 髭さんなら俺なんて、片腕だけでも軽々と持ち上げてくれるはずだ!
 でも目の端に微かに映った髭さんは、もの凄い前傾姿勢でもってコンクリート製の岸壁に両手をついていた。咄嗟に俺がボートと岸の間に挟まれないよう、全力で突っ張ってくれていたのだ。さっきまで優雅に吸っていたはずの煙草が、口の端で今にも千切れそうなほどきつく噛み締められている。
「…くっ、…くっそおおお!」
 絶対に上がってやる。今すぐ上がってやる! ああ、上がってやるとも!
(船頭さん、言うこと聞かなくてゴメンなさい! でも俺、ホントに手を離すのは無理なんです!)
 残り僅かだった全身の力を、それこそ死んだ気になって腕に集める。宙ぶらりんだったもう片方の腕が上がってきて、何とかボートの縁を掴んだ。でもそこから先の力が全く出ない。TVでよく見る「ファイトオォーー!」「イッパァァツ!!」なんてのは、現実には到底無理なことなのだと思い知る。
(…ぁ、も…ダメ…だ…)
 落ちる。落ちるしかない。
(嫌だーーー!)
 でも落ちるしか。
 とその時だ。目の端に何か黒いものが横切った気がした。続いて音もなく誰かが近付いてきて船縁に屈み込み、俺のジーパンのベルトを掴むと、ものも言わずに一気に引き上げだす。
(よ…、よかった…!)
 が、助かったと思ったのも束の間。
(い゙だだだだだ! 食い込んでるっ! 潰れるって!!)
 急所を直撃する激痛にますます力が抜けていく。
「イタタ、ちょと……は、放して…!」
「バカ! 足で水を蹴り上げろ!」
 黒い人がすぐ側で叫んでいる。でも水族館の芸達者なイルカじゃあるまいし、そんな器用なことが出来るわけない。逆に少し足を動かそうとしただけで、食い込み度が上がって息が出来ない。
 でも彼はそんなことはお構いなしだった。俺の力をアテに出来ないと知るや真剣に尻から二つに割れるんじゃないかという勢いで強引に引っ張り上げられて、俺は最終的に一本釣りされたマグロみたいにボートのデッキにびたんどたんと転がった。正直途中なんて(こんなに痛いなら、手を離した方がまだマシかも)と思ったくらいだ。
 でも助けて貰った以上、お礼は言わないといけない。尻ポケットに入っていた財布や携帯もダメにならずに済んだわけだし。
「…す…すみま、せん…、どう…も、ありがとう、ございました…」
 ぜいぜいしながら声を振り絞る。冷や汗が滴って、どこまで海に浸かったのか分からないくらいだ。
 「黒」という第一印象は、彼が黒のTシャツに黒いロングの綿パンツ、そして日除け布の垂れ下がった黒い帽子を被っていたためなのだと分かった。その下の肌もまんべんなく褐色だが、帽子から僅かに見えている短い髪は、太陽と潮に焼かれて薄茶色い。
「自分、かなりカッコ悪いじゃん」
 ちょっと鼻にかかったその声は、明らかに不快さに尖っている。
「…すいません…」
「海人の言うことは素直に聞いてないと、後で必ず痛い目見るじゃん」
「…はい、分かりました」
 見るもの聞くもの全てが珍しく、すっかり浮かれきって調子に乗っていたのも確かだ。俺は素直に頭を下げた。
「まぁそのくらいにしとけ」
 髭さんが間に入ってきてくれた。どうやら彼は黒い人と知り合いらしく、「よぉ」「久し振りじゃん」などと軽い挨拶を交わしている。
「さぁ早く降りちまおうぜ」
 黒い人が真っ先にタッと岸壁に飛び移ってどこかに居なくなると、髭さんは俺に下船を促した。どうやら彼もこの島で降りるらしい。
(小さい島だから、滞在中にまた会えるといいなぁ)
 俺は彼を見上げながら何度もお礼を言うと、その大きな後ろ姿を見送った。


(あ、あれか?)
 ドアに“砂漠蒼々”と大きくペイントされた白いバンが勢いよく港に走り込んできて、俺は慌てて駆け寄った。炎天下に晒された広い港はもう誰もおらず、髭さんも立ち去った今、自分はこれからどうしたらいいのかと暫し呆然としていたが、ホッと胸をなで下ろす。
「あー悪い悪い、あんた東京の海野さん?」
 開け放った窓から運転手の女の子が声を掛けてくる。
「はい! テマリさん、ですね」
 電話で二度話しただけだったが、すぐに分かった。見事に潮焼けした金色の髪を左右4ヶ所で束ねていて、きゅっと吊り上がった瞳が印象的だ。そして思っていたよりもかなり若いことに驚く。自分より遥かに年下ではないだろうか。
「乗りな。宿まで乗せてってやる」
「あぁ、いや…いいです」
「なんで? 宿の場所分かんないだろ?」
「でも、それが…」
 半ば項垂れるようにして視線を下に下ろす。腿から下はぐっしょりと重く、コンクリートには丸い水溜まりが出来ていてる。
「なんだ、もう一泳ぎしてきたのか?」
「あぁいや、そうではなく…、でもまぁ似たようなもんですが…アハハ…」
 この車は海から上がったダイバーの送迎用だから、濡れてても大丈夫だと言われ、乗り込んで驚いた。
「なっ…、床がっ…ない?!」
 車内で足を置くはずの床が、どこを見ても殆ど抜け落ちていて無くなっている。辛うじて足が下ろせるのは隅の方だけで、眼下にはガンガンに熱せられた黒いアスファルトがじいっとこちらを見ている。
「そう、ここじゃ全ての鉄は錆びて消えてくのが運命さ。実は車検だってとっくに切れてるけど、海上保安庁が近くに来たらみんなで一斉に山に隠すからヘーキだし。大体宿とショップと港しか回らない信号もない島で、車検なんて必要ないからね」
「そ、そうですか…ハハ……ハハハ…」
「いーだろ、風通し良くて。最高の島仕様車さ!」
テマリさんは白い歯を見せてニシシと笑った。

 オンボロ車がヨロヨロと動き出すと、思ったより怖い人じゃなかった(?)彼女に聞かれるままに、俺は渡し船から落ちそうになって見ず知らずの人達に助けて貰ったことを手短に話した。
「――自分が泳げないばっかりに、みんなに迷惑かけちゃって…」
「あ〜いいさ、んなの気にしない気にしない。それ言ってたらウチのカンクロウなんて、それこそ何回港で股裂きになって落ちてるか」
「へえ、そうなんですか?」
「珍しくもないね」
 テマリさんはまともにギアチェンジすら出来ないらしい車にも何ら動じる様子もなく、ケラっと笑ってアクセルをベタリと底まで踏み込んだ。(でも全くスピードは変わらなかった)






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