(ちょっとなに、その件はもうすっかり吹っ切れて元気になったんじゃないわけ?)
 先日振り回されていた時のことを思い出して、今にも問い質したい気持ちをぐっと堪える。中に入っていた書類をもどかしげに広げ、食い入るように検査結果の欄を追っている顔は真剣そのもので、とても茶化したり突っ込んだり出来る雰囲気ではない。
(でも、気になるんだよねぇ…)
 上着を脱ぎ、片づけるフリをしながら、そーっと検査報告書が見える所まで体を伸ばす……と、その気配に気付いた男がぱっと紙を伏せている。失敗。しかも不信感一杯の目がこっちをジト見している。
(えー、なんでこっちが疑いの眼で見られなくちゃいけないわけー?)と釈然としないものを抱えながらも、何気なさを装いつつ元の片付けに戻る。

「――はぁー…よかったー…っ」
 いつ、どのタイミングで「でぇ? 結果はどうだったわけ?」と切り出してやろうかと巡らしていた時だった。座り込んで何度も書面上を確認していたイルカが、腹の底から安堵の溜息を吐いている。なに、それはオレに「どうだったの?」って聞いてくれってこと?
(ふん、甘いね)
「ちょっと、見せて!」
「あっ?! カカシさん!」
 ぼんやりしている隙を突いて、素早く書類を取り上げた。もうのんびり返事なんて待っていられない。直接見せてもらわなくちゃ気が済まない。
(…んーとー? ――ぇ? なによこれ?)
 取り返そうとしてくるイルカをかわしながら一通り目を通したあと、イルカの顔をまじまじと見る。
「ものの見事に、オールグリーンじゃない」
 しかもギリギリセーフなどという数値すら一つもなく、「T大から健康優良児として表彰でもして貰えば?」というような見事なレベルが並んでいる。あれだけ頻繁にカップラーメンばかりを食べ続けたり、寝る間も惜しんで遅くまで勉強したりしていて、よくこの数値が叩き出せるなと、むしろ感心するくらいだ。
「これの、一体何を心配してたわけ?」
「ずるい! ならカカシさんのも見せて下さい!」
 イルカは質問には答えず、鼻の穴を膨らませながら目の前にずいっと手を差し出してくる。
「早く〜!」
(う…)
 今度はこちらの都合が悪くなる番だった。
「ぃや…オレはべつに」
 さっさと横を向いて、鞄の中から借りてきた本を引っ張り出す。飯にしないんなら、本でも読むか。
「別に何もないなら見せたっていいでしょう? 俺のを無理やりひったくっといて、自分のは見せないつもりですか」
「うん」
「うんじゃないだろっ」と言ったイルカが飛びかかってきて、一頻り封書を巡ってもみ合いになる。
「もうっ、やめなって! 近所迷惑でしょ!」
「なら大人しくっ、見せて、下さいよっ。無駄に抵抗するから…っ、騒ぎになって、るんですよ…っと!」
 が、結局はこちらが早々に白旗を上げていた。兄弟喧嘩すらしたことがないのだから、こういう時のしかたがわからない。

「――なっ…、なんなんですかこの数値?! めちゃくちゃ悪いじゃないですかっ?!」
「ふん、散々人に心配かけた、アンタに言われたくないね!」
「ゃっ…、…にしたって、殆ど俺と一緒に飯食ってて、なんでこうなるんですか?!」
「知らないよ! いいからほっといて!」
 物心ついたときから、食べるより読むほうを優先させてきた。気に入りの本を読んでさえいれば空腹も忘れられたから、それでいいと思っていた。それに、以前に一度入院して痛い目をみてからは、なるべく三食きちんと食べるようにしている。まぁ今回のように数値的に多少過不足があったとしても、実際に体調が崩れてきて不都合が出てくるにはまだまだ程遠いレベルだということは経験上わかっている。問題ない。
「わかりました。じゃあ今日から飯の量を倍にします」
「いい、いらない! 必要ない!」
 思わず顔の前で、ぶんぶんと手を振った。いつでも、どんなものでも、常に美味しくたっぷり食べられる人と一緒にしないで欲しい。
「昼は俺が学食で頼んで、カカシさんのお盆に乗せますから。心して食って下さい」
「やめて! そんなに食べられるわけないじゃない」
 特に油っこいものはダメだ。イルカは好きみたいだが、こっちは翌日まで響いて余計に食慾がなくなる。
「ダメです。俺が用意した飯が、食えないっていうんですか?」
「ム・リ! 食えないものは食えないの!」



(――ううー…、気持ち悪い…)
 何とかして気を紛らわすために本を開いてみたものの、とても集中できずに畳に突っ伏す。この怖ろしいほどの膨満感は、いつになったら消えてくれるのだろう。少なくとも丸二日は食べなくていい気がする。
 さっきようやく夕食が終わったところだ。長かった。とにかく「これも」「あれも」「それも」とひっきりなしに、しかも食べるまで勧められて、まるで小学生の給食時間のようだった。明日の朝になったところで、まだ喉元まで一杯だろう。テーブルにすらつけそうにない。
 なのにまた同じように勧められるのかと考えただけで…あうう〜…気持ち悪いぃ〜。
 ちなみにオレは、この件についてはどうしても承服できず、後日『意趣返しという名の腹いせ』を試みていた。あぁいや訂正。オレはそんな野蛮な男じゃない。たかが飯如きで、このオレがそこまでするわけないでしょ?
 ま、ちょっとした交渉術の一環だったと言っておく。



「イルカ、ちょっとここ来て?」
「ぁはい?」
 朝から臨時休講になったその日、まずは窓から極狭の手摺り越しに二人分の布団を無理やり干していた男を呼ぶ。彼は陽に当たった布団の感触がいたく気に入っているらしく、西向きの窓だというのにこうして暇を見つけてはせっせと干している。
「あのね、足を、こういう風にできる? こう。――ん、そうそう」
 彼を見ていると、どうも五感に関する経験が赤ん坊並に乏しいように思える時があって、内心ではそれを確認できないかという意味あいもあった。平たく言えば好奇心だが。
「はい、出来ました?」
「でね、そのまま聞いて欲しいことがあるんだけど。例の三平方の定理の件ね?」
 そう言って、昨日の講義でイルカが疑問だと言っていたことを、自分なりに説明しはじめる。ネットで調べた別問題なども織り交ぜてプレゼンを始めると、彼は瞳を輝かせ、上半身を乗りだすようにしながら夢中で聴き入り始めた。

「――そうか、わかった! まず長さ2の線を引くんだ?! でその端から半径5の円をぐるっと描いて、長さ2のもう一方の端から円周に向かって垂直に線分を引く…と、この線分の長さがルート21になる!」
「正解。なに、ぜんぜんわかってるんじゃない」
「昨日は説明が飛んだり大まかすぎたりして、混乱してました。カカシさんがそこをしっかり補ってくれたからですよ。カカシさんに家庭教師になって貰った子は、幸せだと思うなぁ」
「それはどうかな」
 自分はイルカに教えて貰った者の方が遥かに長続きして成長すると思う。やる気の無い者をその気にさせる技量は、オレにはないからだ。
(――なーんて話は、今は置いとくとして)
「…はわ? へっなに…?! たっ、立てな…あれっ?!」
 ダンボールテーブルに手をついて立ち上がろうとしたイルカの表情が、ギョッとしたようなものに変わったかと思うと、すっかりその場に固まってしまっている。
(よし、誘導成功)
 本題は最初からこちらだ。単なる思いつきにしてはなかなか上手くいった。
「えぇっ、うわっカカシさん、なんか足がっ、あじがジジジジジジーーーってなって動かな…イッ?!」
 みるみるうちに苦悶の表情になっイルカが、そのまま四畳半を転がり回っている。窓辺に干してあった布団にしがみついて何とか立ち上がろうとしているが、藻掻けば藻掻くほど足元から増してくるものに狼狽え焦るばかりで、何も出来ない。そんな男の側に屈み込み、殆ど動かせなくなっている足をちょんちょんとつつく。
「だああああーーっ?! やっ、やめっ?! はうわわわわ足がっ、カカシさん、俺っ、足がビリビリに、なってっ、動かそうとしても、言うこと、きかなく…って、いまにも、ボロボロボロって分解しそうで…っ」
「じゃあ……オレの食事の量を、元に戻す?」
 ツンツン。
「あだだだたーーっ! 足がっ、足が壊れたぁぁーーーあわわわわどうしよう、もうすぐ次のゼミが始まるのに、足がブチブチしゅわわーーってなってて歩けないーっ!」
「ぷぷぷっ…、そうそう、早く答えないともっとブチブチ壊しちゃうよ〜? ――イルカ、オレの食事の量を減らすの? 減らさないの? どっち〜?」
 ツンツン。
「ひいぃぃ、ひいいぃぃーーっ! ――だめっ…減らさないっ! カカシさんはもっと、もっと食べないとダメなんだっ! ぶひいぃっ、さっ、さわらないでっ、あううううーーっ! ……くっ…くっそおおおっ負けないぞ! 足のブチブチくらいなんだ! 食べなくて入院することに比べたら、何てことないっ! 絶対、負けるもんかーッ!」
(ぇ…)
 余りの声の大きさから近所迷惑を説こうとした言の葉が、喉の奥でさらさらと消えていく。
(イルカ…)
 結局騒ぎは五分後に収まったが、その後もオレの飯の量は増えこそすれ、少なくなることはなかった。藪蛇もいいところだ。
 今では「もうホント無理、これっぽっちも食べられないから。なにアンタはオレを太らせて食おうってわけー?」などとうっかりでも言おうものなら。
 男は満面の笑みでもって「あはっ、いいですねそれ。でも俺に食って欲しいなら、もう少し太って貰わないとなぁ〜」などと無邪気に返してきて、オレを色んな意味で悩ませてくれるのだ。


     * * *


「イルカ、まだ寝ないの?」
 押し入れの上段に体を横たえ、ひとつ大きな欠伸をしたところで、ダンボールテーブルにPCやノートを広げている男に声を掛ける。季節はもうはっきりと夏に向かい始めていて、夜中に寒さで目が醒めることもなくなり、勉強には快適な時期になっている。
「ええ、もう少しきりのいい所までやってから寝ます」
 イルカはアルバイトで帰りが遅くなった夜は、翌日に備えた予習復習がどうしても遅くなりがちだ。オレもバイト帰りだが、例え遅くなっても食事付きなこともあり、苦にならない。予習も敢えてしないようにしている。してしまうと翌日の講義を聞く気になれなくなるから、バイトをしている時のちょっとした待ち時間とか暇な講義の際に、ポイントをまとめるようにしている。
 イルカはそんな多忙な中でも、今朝も早くから起きて共同トイレの掃除をし、新聞に目を通し、朝食を用意してくれていた。睡眠時間はオレよりだいぶ短いはずだが、相変わらず、『遅れを取り返したい』と言って頑張り続けている。
 以前に一度、「トイレとか玄関の掃除をやめて、その分睡眠に充てたら?」と勧めたことがあった。だがイルカは軽く笑って「ダメですよ、ここは俺とカカシさんの家なんですよ?」と言って全く取り合わなかった。それまで忘れがちだった週何度かのゴミ捨てをオレがきちんとやるようになったのは、その時からだ。
 イルカは、要領という意味ではあまり良くないのかもしれない。けれど彼の二四時間はオレのそれより遥かに濃く、光り輝いて見える。

「そう、…じゃおやすみ」
「おやすみなさい」
 にっと笑って頷いてみせたイルカが、再びノートへと視線を戻したのを確認して、そっと押し入れの襖を閉めた。




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