あれからまた一度だけだがフリマに行き、全く何もないところから始まった共同生活は、それなりに充実してきている。アルバイトも二ヶ月目に入り、一応延滞が許されていた家賃も、それが許されなかった電気代や通信費も、無事当初の期限内に支払うことができていた。
 オレのほうのアルバイトはその後すぐに決まり、家庭教師として週二日通っている。見ているのは来年受験を控えた男子高生だが、T大を目指しているとのことで、正直頭を抱えている。自分も後期試験で受かっておいてなんだが、とてもじゃないが無理としか言いようのない偏差値だ。さて、どうしたものか。
 それでも、塾講師のアシストをしているイルカに比べれば、まだまだ大したことはないのだろう。彼は現在週三ペースで通っているが、帰ってきたあとで毎回興奮気味な彼から話を聞くのが恒例となってきていて、いつもその内容に「オレにはとても無理」とほとほと感心している。
 彼はなぜそんなに大勢の騒がしい子供達と一緒にいて平気なのか、不思議でならない。だが彼は生徒はもちろん、上からのウケも良いようで、塾講師のOBからも「よくやってくれている」と、斡旋窓口に直接お褒めの連絡があったそうだ。オレもこうしちゃいられない。
 そんなこんなで、そこそこ順調に回り始めている大学生活だが、今日ちょっと気掛かりなことがあった。
 夕方、携帯が鳴って、学生生活課に呼ばれていた。その日はバイトがあったため、「電話ではダメな話なのか?」と訊ねたが、「個人情報が関係しているため、窓口に来て欲しい」という。
(なに、個人情報って…?)
 疑問符だらけのまま、大慌てでシャワーを浴びたその足で生活課へ向かったが、そこで妙なことを聞かれていた。
「君と一緒に住んでいる、海野イルカ君のことなんですが」
「? はい」
 てっきり自分のことだとばかり思っていて、父のことだったら嫌だなと思っていたのだが、イルカについてとはなんだろう。
「現在、三丁目の蒜山さんのアパートで畑君と暮らしていることは確認しています。が、その前も……二人で一緒に暮らしてたんですよね?」

(――ぇっ…)

(二人、で…?)
 とその時、上着に入っていた携帯が軽やかに鳴りだした。バイトに行く時間を忘れないようにと、以前からスケジューリングしてあったものだ。
「ぁ…えっと…、すみません、多分この電話バイト先からなんで、この話、また後日にさせて貰っていいですか? 今ほんとに時間がないんです!」
 咄嗟の演技にしては、よく出来ていたほうだろう。窓口の女性は慌てた様子で「わかりました。どうぞ、早く電話に出て下さい」と、オレが足早に部屋から出ていくのを見送ってくれていた。

(イルカ…)
 襖一枚隔てたすぐそこで、時折ページをめくっている微かな気配に、そっと神経を集中させる。
(イルカ、あんた…)
 自身の旧住所を、一体なんと書いたのか?
 真っ暗な空間で、怒濤の勢いで過ぎていったここ数ヶ月間の記憶の糸を、もう一度慎重に手繰ってみる。
 この下宿を決めたとき、彼は契約書に自身の住所の類を書いていない。保証人なども不要だったため、オレが代表して伯母さんの所の住所を書いていた。
 その後、確か二人で住みだしてすぐ、新入生を対象に行われたオリエンテーションに出席した。そこで渡された前期の学費の免除や猶予に関する書類や、奨学金の申請をするために必要な申請書類の中には、以前の住所を記入する欄があったはずだ。最初に彼が旧住所を書く機会があったとすればそこだろうが、もちろん彼が書いたものは見ていない。
(そういえば…)
 その奨学金や、学費免除に関する通知が、まだ来ていない。確か「可・不可にかかわらず、七月中に本人に直接通知」とあった。とすれば、今は申請があったものを一件一件審査している時期という気もする。
(そこで、不備が発覚した…?)
 わからない。もし住所に何かしらの不備があったのなら、そもそも受験だって出来ないだろうし、学生証だって発行されないのではないだろうか?
(とかいってて、意外と住所の追跡確認まではしてなかったりしてね?)
 国内トップクラスの頭脳を選抜し、輩出することが命題とされている施設だ。そこで優秀であれば、誰も疑わない。入学を果たした地点で燃え尽きてしまっている受験エリートが早くも散見されだしている中、イルカは今、講義によっては教授や助教の所にまで出向いて熱心に質問したりしていて、クラスでも習熟度、信頼度共に高い所にいる。その本人が申請した住所とあればそのまま入力され、それで通ってしまう可能性もなくはないだろう。この国は、そんなレベルから疑う必要のある国じゃないから。
 イルカは家族がいないと言っていたことから、どこかの養護施設などで暮らしていたのではないかと思ったこともあった。だがそれならば、そこの住所を書くだろう。何をどう書き間違ったとしても、今日のような質問が学生課からなされることはないはずだ。
(ぁ、そういえば…?)
 更に記憶の糸を辿るうち、ふと脳裏に当時の彼の発言が蘇ってきていた。新入生向けのオリエンテーションを受けていた時だ。
 大量の資料や申請書を次々読まされ、サインさせられたことで二人はすっかり参っていて、イルカは「人間って、逐一自分を証明しながら生きてるんですね?」と言っていた。あのときは、なかなか的を射ていると思ったものだ。
 だが今オレはその言葉の意味を、全く別の方向から見ようとしている。
(イルカ…)
 もし彼が、オレに関係する住所を何らかの理由で知っていたとして。
 実際に書いていたとするなら、二か所しかない。
 伯母さんの所と、オレが一昨年まで父と住んでいた、あの懐かしい家だ。



     * * *



「じゃあ、この辺にしようか?」
「ぁ、はい!」
「ここのところずっと学食だったから、たまには外で食べない?」と、イルカを屋外ランチに誘っていた。学食は安くてそこそこバランスの取れたものが食べられるが、女子生徒が相席を言ってくることがあり、落ち着けないことがままある。もちろんそんな時もイルカの意向に従い、黙って相手をすることにしているが、そこで喋るのはもっぱらイルカのほうだ。すると最近ではイルカ目当ての女子も出てきて、キャンパスでも頻繁に声を掛けられるようになり、それはそれで何やら落ち着かなかったりしている。身勝手な考えが丸く収まることはない。
「ここなら相席もいってこないだろうし〜? ははっ、カカシさん、もてるからなぁ」
 イルカは人の気も知らず、けろっとして笑いながら昼食の包みを開いている。
「じゃ聞くけど、イルカはオレがもてたほうが、いいわけ?」
 昨日『イルカに関する呼び出し』があったことで、一晩散々考えたが、改めて自分はこれまでイルカに対して殆ど何の質問もしてこなかったことに気付いていた。最初から聞き役だったせいもあるが、何となくあれこれ突っ込んで聞いてはいけないような…本当にどことなくではあるものの、彼について根掘り葉掘り聞きはじめたら最後、この関係に思わぬヒビが入ったり、望まぬ不都合が出てきてしまうような気がしていた。
 そして恐らく、その直感は当たっている。
 ただ、今後もこの関係を続けていくためには、今のままではダメだろう。どんな理由を付けて回答を先延ばしにしたとしても、いずれは大学側に正しい返事をしなければいけない時がくるからだ。
 夕べ真っ暗な中でイルカの気配を感じながら辿り着いた結論は、『とにかくイルカに、少しずつでも、どんなに遠回しでもいいから、彼を知る手掛かりになることを訊ねていくようにする』というものだった。

「…そっ…? そりゃあ…そうですよ。もてないよりは、もてたほうがいいに決まってるじゃないですか」
 そして向かいの男は「カカシさんは、俺の恩人ですから」と続ける。
(恩人、ねぇ)
 イルカは最近、この台詞をよく口にするようになった。彼がどういうつもりで言っているのかわからないが、オレはその言葉があまり…というか、全く好きになれない。なんだか一方的に距離を置かれているようでもあり、言われるたびに落ち着かなくなる。
(オレは一体、何から、どう聞いていけば…?)
「あれー、今日の売店の握り飯、ずいぶん具がはみ出してるなぁ。流石の俺もここまで下手じゃなくなったぞ〜?」と笑っているイルカの横顔を見つめながら、青く生え揃いだした芝生に腰を下ろした。

「そういやさ、イルカはどうしてそんな所に傷ができたの?」
「え?」
 彼が隣で二つ目の握り飯を頬ばるタイミングを見計らって、出来るだけさり気なく質問を切り出してみる。もちろん当人にとっては十分唐突だろうけど、聞きたいことがその場に自然に溶け込むような機会なんて、今はとても待っていられない。
「急に何を言い出すかと思ったら…。あはっ、これですか?」
 男はいつもの少し照れた笑みを浮かべながら、鼻を跨いだ傷を掻いている。頭上の木の葉が落とす陰が、彼の顔に色んな表情を作っては消えている。
「まぁ…なんというか、ちょっとした勲章みたいなもんです」
「喧嘩した時の?」
「そうじゃないですけど…。でも俺自身はね、今となってはいい思い出なんですよ。向こうはきっと、そうは思ってないだろうけど」
(誰かに付けられた、傷…)
 イルカの口から初めて短く語られた、見ず知らずの者の存在が、心の奥をチリリと灼く。けれど頭のほうはそれを悟られないよう、全く逆のリアクションをしろと命じてくる。
「へぇそうなんだ〜。ぁそういえばオレの眼鏡にも、ちょうどまん中の所に傷が……って、あれ? ない…? おかしいな…いつの間に…?」
 カモフラージュのために別の話題に変えたところ、思わぬことに気付いていた。
「ねぇ、このまん中辺りのとこに、オレが昔付けちゃった傷があるはずなんだけど……無くなってる、ね…?」
 顔に付かんばかりの近さで何度も黒縁眼鏡を眺め、繰り返し心当たりの場所を指先で触り、イルカにまで確認を求めてみるが、イルカも「やーないですねぇ〜」と笑っている。何がそんなに可笑しいのか知らないけれど。
(へんだな…)
 この傷だけは深すぎて修理が出来ないと言われていたのに、いつの間に消えたのだろう。
 その傷が残ったとき、(いいさ、これで自分のものっていう印が出来た)と思うことにしていた。そのお陰でいつの間にかそれすら愛着に変わっていたから、無くなったら無くなったで何だか気になるのだけれど。
「まさか、誰かのと取り違えた?」
 健康診断の時とか、シャワーに行った時。
「ははっ、それはないですよ。だって、それと同じ度の人と当たる確率なんて、皆無でしょう?」
「…ま、確かに」
 笑顔のイルカにきっぱりと答えて貰って、ようやく納得していた。





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