話題がアルバイトのことに移っていくのを受けて、ごく遠回しに新たな質問を投げかけてみる。
「イルカは、なんで子供が好きなの?」
 確かに彼がいま希望している学校の先生という職業は、オレもとても合っていると思うが、そう思うに至った背景を知りたいと思う。
 イルカは、「やあ今日は聞いてきますねぇ」とおどけて見せながらも、「俺は最初から無条件で愛おしいと思ってるから、それがなぜかとか、嫌いになる理由ってのが見当たらないです」という。
「カカシさんだって、誰からも愛される可愛い子供だったはずですよ」
「ゃ、それはない」
(あぁもうー、要らないこと言ってるし)
 相手に向けて放った質問がブーメランのように舞い戻ってきて、うっかりキャッチし損なっている。間抜けもいいところだ。
 にしても、ここまでくるとイルカが敢えて自身の過去に繋がる一切の話をしないようにしているのでは…とも思えてくるのだが、考えすぎだろうか?
 黙ったままあれこれ巡らしていると、イルカが再び口を開いた。彼はしょっちゅう意味不明な発言を連発しているというのに、時として驚くほど的確にこちらの意向を汲んだりもする。まるでオレの考えていることなど、ずっと昔から知り尽くしているとでも言わんばかりに。
「――ううんそうですねぇ、理由かぁ。…強いて言うなら、身近な人のいい子供時代を、すぐ間近でずっと見てきたから、ですかね?」
(いい、子供時代か…)
 どことなく言い回しがおかしい気もするが、いずれにしても羨ましいことではあるだろう。自分には、そういう取りたてて誰かに話せるような子供時代の記憶や実感はない。

 昼食を平らげて「ああ〜〜! 腹が一杯って、ほんとに何とも言えずいい気分ですね〜」と言ったイルカが、そのままごろんと芝生に横になり、何度も大きな伸びをしている。…かと思うと、あっという間にすうすうと気持ちよさそうに寝息をたてはじめた。
(イルカ…)
 日中ほぼぎっしりと詰まっている講義と隔日のアルバイト、それにこれまで一度も欠かしたことのない遅寝早起きで、睡眠は常に不足しているのだろう。一体いつ寝ているのかと思っていたから、こうして眠っている姿にはホッとするものがある。けれどこの先に続く質問を、上手くはぐらかされたようでもあり。
「イルカ…?」
 ほんの小さな声で呼び掛けてみる。起こすつもりのない、囁くような声。
「好きだよ」
 すぐ隣りに肘をつき、じっと寝顔を見つめる。夢の中でも聞こえてたらいいのに、と思いながら。
(ん?)
 と、それまで薄く口を開け、すっかり弛んで呆けていた表情が、みるみるうちに締まりだした。真っ黒な長い睫毛がふるふると動いている。
(あら)
「…っ? はれ? …ねっ、寝てた…?」
 ぱちりと瞳を開いたかと思うと、慌てて上半身を起こして周囲を見渡し、不思議そうな顔をして寝ぼけ眼をぱちぱちさせている。
「うん」
「やっ? なんか今ね、こう…部屋で向き合って、カカシさんと喧嘩してた…ような?!」
「それ、夢だよ」
「ゆめ…? おおお…?! そうか、これが、夢…!」
(アハハー…今それ言うんだー…)
 とても興奮した様子で、今しがたの体験を反芻しているイルカの前で密かに凹む。自分は一体、何といってイルカと口論していたのだろう。折角ちょっといい雰囲気だったのにぶち壊しだ。確かに口論を吹っかけるのは、いつもオレのほうからなんだけど。
 目覚めた彼は、オレがこんな息のかかるようなすぐ間近に居続けても、気にしている様子は全くない。それも以前から不思議に思っていたことだったが、元々距離が近くても平気なたちなのかもしれないと思うことにしていた。それを裏付けるように、誰とでも距離が近い。
(でも、今のオレを勘違いさせるには十分だ)
 恋愛は勘違いだと、本には書かれていたりする。そうかもしれない。そうは言われたくないけど。
「イルカ」
「っ?!」
 いきなり唇を塞がれながら押し倒され、息を呑んだイルカの体は固かったが、唇は驚くほど柔らかかった。驚きすぎているのか無抵抗なのをいいことに、覆い被さるようにして一頻り唇を楽しむ。どんな本を何冊読んでも、キスのしかたはよくわからないままだった。でも実際にしてみたら、なんてことはない。したい気持ちが勝手に手や顎や唇を動かしてくれていた。
(きもちいい…)
 昼休みが続く限り…いや何時間でもずっとこうしていたい。イルカもこれでわかってくれただろうか。それらしきサインなら、折に触れ送っていたつもりだ。あとはそれらとこれとを繋げればいいだけ。気付いて欲しい。いやわかるよね?
「これは、夢じゃないよ?」
「は……ぇ…?」
 どのくらいそうしていただろう。すっかり離れてもなお、湯あたりでもしたみたいにぼうっとしている男の唇を指先で拭ってやり、熱が入りすぎたことで少しずれていた眼鏡をなおす。
「な…っ、どう、いう…」
 だが酷く混乱した様子でのろのろと起き上がったものの、次第に困り果てた表情で深く俯きだしている姿に、どこからか漠然とした不安が頭をもたげてきだした。イルカが決してこちらと目を合わせようとしないのも気に掛かる。
「あの、ごめん。今の、忘れて。――さっ、午後の講義行こう。経済原論のあの人、遅れると面倒だからさ?」
 出来るだけイルカを落ち着かせるよう、「今のは何でもなかった」という空気にしながら、でもどうしても気になって、先を急ぐフリをしながら何度も様子を伺う。
(嫌だった、か…)
 例えどんな時でも、誰が何と言おうと、自分が感じたことは素直に表情や言葉にして表すはずの男が、一切を閉ざして黙りこくっている。こんなイルカを初めて見ていた。

 結局その日の授業が全て終わり、四畳半で向き合って夕食を食べ、シャワーを浴びて返ってきても、更には長い長い夜が明けて翌朝再び顔を合わせても、彼の姿勢は変わっていなかった。
 イルカは何を訊ねてもごく短く、さらりとしか返事をしない。常に全く別のことでも考えているみたいに違う方向を向いていて、目も合わせようとしてこない。なのにクラスの者達とは別人のように楽しそうに会話をし、これまでと何ら変わらず熱心に勉学とバイトに励んでいる。
 当初(時間さえおけば、また少しずつでも以前のように戻っていくのでは…?)などと思っていたオレの期待は、呆気なく覆されていた。
 弁明をさせて欲しい、謝る機会を貰いたいと繰り返し思っているのに、上手く声が掛けられない。謝ったら最後、好きだという気持ちまで撤回しないといけなくなりそうで、その不安も口を重くしている。今ではあのキスをしたときの無謀なまでの積極性は何だったのかと嘆きたくなるほど、言葉が喉の奥深くに引っ込んでしまっている。
 結局オレは、いつもすぐそばで見ていたあの屈託のない弾けるような笑顔を、ほんの一瞬の出来心で失ってしまっていた。
 昨日、マナーモードにしてあった携帯に、一度だけ学生課から着信があったことにも気付いてはいるが、いまだにどうしても返信できないでいる。何をするにも気持ちが重い。先延ばしにしたところで何の解決にもならないことはよくわかっているのに。先になど延ばしたくないのに。
 最近ではイルカが何も告げずに、ある日ぱったりと姿を消してしまうような気がしてならないでいる。あれほど熱心に学業に励んでいるのだから、そんなことあり得ないと片方では否定しているのに、もう片方では(合格発表のあの日、イルカは唐突にオレの前に現れたのだ。なら突然消えないという保証を誰ができる?)などと、誰にも言えない不安を募らせ続けている。
 本当は何も手につかないでいるのに、上辺は…イルカから見える所では、いつも通りの特に何も考えていないふりをしながら。



     * * *



(――っ、ふう……はぁ…っ)
 さっきから息苦しくて仕方ない。原因はわかっている。昔よく見ていた悪い夢のせいだ。余りに何度も見すぎているせいで『これは現実じゃない、夢だ』とわかっているのに、今回もまたそいつに引きずられている。内容もよく知っていて、昔から代わり映えはしない。目の前で起こることが、自分が恐れているその通りになっていっているだけなのに、目が覚めるまでどうしてもそこから抜け出せない。一時期は眠るのが恐かったくらいよく見ていた夢だが、成長するにつれ見なくなり、ここ半年ほどは受験に夢中だったせいかすっかり忘れていた。油断していた。
(っ…、くそっ…!)
 次々と目の前に突き付けられる恐怖に耐えながら、動かない体を何とかして動かそうと試みる。けれどなす術は無く、目覚めるまでただひたすら耐え続けるしかない。何よりそれが恐い。
 ダン、と遠くでいつものと違う音がした時も、どこか遠くで誰かが繰り返し自分の名前を呼んでいるのが聞こえていても、まだ息は上がり続ける。自分の現実は、長年見続けてきた「こちら側」を信じてしまっている。

「コラッ! バカカシ、起きろーーーッ!!!」

「っ?!」
 激しく肩を揺すられながらすぐ耳元で響いた大声に、カッと目を見開いた。とそこに、ぼんやりとだけれど目に馴染んだ輪郭が映って、(そうか、終わったんだな)と悟る。
「…ぁ……い、る…」
 息が上がっていて、まだよく喋れない。自分は寝ながらどんな呼吸をしていたというのか。
「カカシさん…! あぁよかった、どうなることかと思った。もうね、凄い力でしたよ。いつもこんなに強く布団を掴んで、一人で耐えてたんですね」
(ぇ…)
 言われてのろのろと見やると、早朝の薄明かりの中、ぼやけた目にも自身の左手がイルカの右手をしっかりと握り締めているのがわかった。額や背中は気持ちの悪い汗でびっしょりだ。
「えー…っと…?」
 もう殆ど自分が何をしでかしていたのが理解しだしているけど、とても直視できなくて半分とぼけたリアクションをしてしまう。恥ずかしい。このままもう一度何も気付かないふりをして寝てしまいたい。お願い寝させて。
「カカシさん、すごくうなされてましたよ。何度も声を掛けたのにぜんぜん起きてくれなくて、今度こそどうにかなっちゃうんじゃないかって、俺めちゃくちゃ不安になりました」
 けれどイルカは、こちらのバツの悪さなど気付きもせずにどんどん話しかけてくる。頭ではもうほっといてくれと思っているのに、手のほうはしっかり握り締めたまま離さない。
「ずっと、辛かった?」
「…ぃゃ…別に…」
 彼の問いかけの端々に、何だか辻褄の合わない違和感のようなものを感じながらも否定する。ここまで見られても、自分の過去を知らない者に理由を話す気にはなれない。いい加減起きなくては。
「俺、カカシさんが夜うなされてるってわかってたのに長いこと何もしてあげられなくて、いつも悔しい思いばかりしてました。なのに、こんなすぐ側に居られるようになってもまた同じことを繰り返すのかって思ったら、ものすごく恐かったです」
「ぇ…?」
(いま、なんと…?)





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