そういえば、その後もイルカのビックリドッキリ飯は続いている。でも出来上がった味がどうであれ、彼は決して腐ったりメゲたりしないし、諦めたり投げたりもしない。オレみたいに安易に半額シール弁当に逃げることもなく、日々根気よく流し場に立ち続けている。そのせいだろうか、夕べ辺りからは「おっ?」と思う料理も出てくるようになっている。
 彼曰く、「自分がカカシさんほどの料理センスがないことはよくわかってます」「けど、それでもやりたい、面白い!」「自分の手で作ったものを、目で楽しんで鼻で嗅いで口で食べるって、すっげえ刺激的!」――だそうだ。
 いつも料理の最後に、「やった、できた!」と、瞳を輝かせながらテーブルにつき、百面相の勢いで食べているイルカの姿を見るにつけ、オレは昨日とも、一昨日とも、その前の日とも違った、新鮮な「頂きます」を日々言うようになっている。
 今日は入学式だが、酒を呑んで祝うことは出来ない。けれど二人が二十歳になって、晴れて呑めるようになったなら。
 一体彼がどういう反応を見せてくれるのか、ちょっと…いやかなり面白そうだなと、今から密かな楽しみになっている。

「じゃあ、帰って飯にしようか」
「そうですね!」
「たまにはオレも手伝うよ」
「あはっ、ホントですか? やった、面白そう!」
 外階段を降りながら、さっき歩いてきたお濠端の道を眺める。沿道の桜は殆ど散ってしまっていたが、目の醒めるような鮮やかな若葉が枝一杯に芽吹きはじめて春風に揺れている。
 おかしなことに、それらが生まれて初めて見た新緑のように感じられ、(これはこれでいいものだな)としみじみ思った。


* * *


「今の講義、最初どうなるかと思いましたけど、めちゃくちゃ面白かったですね」
「ま、そーね?」
 入学式が終わり、いよいよ授業が始まっている。オレとイルカは、一年半後に行われる後期への進学振り分けの際、(努力次第で)どの学部にも入れるよう、出来るだけ興味の範囲を広げて、色んな分野の講義を幅広く選択している。
 イルカは「この先俺達の未来は、どこからどう繋がっていくかわからないんですよ」ときっぱり言う。確かにそれはそうだろう。オレもイルカと出会い、ルームメイトになることなど、その日になるまで想像すらしていなかった。
 よって今から選択肢を狭めてしまうようなことはせず、広く学ぶ機会に充てようということで意見の一致をみていた。お陰でアルバイトに行く時間はそう沢山は取れなくなったが、そこは仕方がない。イルカは当初の希望通り塾講師のアシスタントを、オレは個人宅の家庭教師を希望して、問い合わせを始めている。

「昼飯、どうします? どこで食べましょうか?」
 バイトが決まるまでは学食は利用せず、出来るだけ節約しておこうと、家から弁当らしきものを持ってきている。あとはこのお天気をいかして、気持ちの良い木陰を探すだけだ。
 以前の自分なら、そんなことには全く興味がなく、思いつきもしなかったろう。学食か売店でとにかく安くて早いものを食べ、残った時間は最大限読書に充てる。恐らくはそんなところだ。
 けれど、イルカと暮らすようになって、オレは少し変わったと思う。彼が少しでも気持ちよく、楽しいと感じてくれそうなことを常に選択肢の中に入れるようになり、実際それを選ぶようになった。

「うわぁ、ここいいですね! 噴水と花が一緒に楽しめる! ふうー気持ちいい〜!」
 キャンパスを回った際、予め目を付けておいた「ランチポイント」に行き、持ってきた昼食を広げる。晩春を迎えた陽光が淡い木陰を落としながらうらうらと降り注いでいる中、イルカは腰を下ろした場所のチクチク加減や、頭上を振り仰ぎながら大きく伸びをした時の体の気持ち良さ、更にはそれをやりすぎていきなり足が攣ってしまった際の表現不能な新感覚(?)にまで言及しながら、いそいそと弁当の包みを開いている。

「こんにちはー。あの、少しご一緒させて頂いて、いいですか?」
 朝一緒に作った握り飯の評価をしていた時だった。近寄ってきた四人の女性に声を掛けられて、イルカが「はい、どうぞ」と気軽に返している。イルカの凄いところは、こういう全く見ず知らずの唐突な相手に対しても一切構えることなく、驚くほどフランクかつ平等に接することが出来るところだろう。塾講師アシスタントのバイトも、担当者に気に入られて早く決まるといいのだが。きっと例のちょっと変なところも子供達には大ウケで、「面白い兄ちゃんがいる」と、大人気のスタッフになるはずだ。連日ぎっちりと詰まっている講義はどれも興味深いが、イルカはひな壇にじっと座って話を聞いているよりは、どちらかというとキャンパスの外で子供達を相手にするほうが合っている気がする。もちろん前期の課程は始まったばかりで先はまだまだ長いから、そんな気の早いことまでは言わないでいるけれど。
「わぁ随分大きなおにぎりですね。ふふっ、もしかしてご自身で握られたんですか?」
「ええはい。自炊してるんで」
 二人のまわりに腰を下ろした女子学生達は、その口ぶりからかなり初対面の人間と話慣れているようだった。照れや言い澱みがない。
「あのー私達、健康診断の後のサークル勧誘の時から気になってて、入学式の時も見かけたんで、いつ声を掛けようかと思ってたんですけど」
「ぇ、そうなんですか?」
(イルカ、ほっぺたにご飯粒ついてる)
 目で繰り返し合図してみるが、イルカの興味はとっくにオレから離れていて、気付く気配はない。
 確かに入学式の帰り、会場の外はまたもやサークル勧誘の上級生で一杯だった。その様子を目にするや、早々に脇道に逸れて帰ってきていた。
「実は私達、T大女子向けのフリーペーパーを作っているサークルなんですけど、良かったら取材させて頂きたくって」
「えぇ? 取材って、何を?」
 だがその時からもうすでに、居並ぶ女性達がみな、気さくに返事をして応対していたイルカではなく、ずっと黙ったままでいるオレの方ばかり注視していることに、何やら居心地の良くないものを感じていた。理由なんて知らない。
「毎年、『イケメン新入生紹介』っていう特集を組んでて、そこで是非…こちらの彼を紹介させて頂きたいんですが」
「ごめん、そういうの興味ない」
 いよいよ水を向けられた瞬間に即答。他に答えようがない。
「やっ、カカシさん?! もう少し話を聞いたほうが…」
「なんで? だってオレ、イケメンなんかじゃないし。オレなんかより、この人の方がずっといい男だし」
 目の前の男を指さすと、イルカは握り飯を持ったままぽかんとしている。
(オレなんかより、イルカのほうがよっぽど魅力的で、取材し甲斐があるはずなのに)
 正しく評価されていないことが気に食わない。みんなどこを見ているのか。
「いえあの、ぜんぜんそんなことは…。眼鏡を取ったら、とても素敵だと思うので…」
「それこそ余計なお世話だね。オレはコンタクトにする気なんてないし、何よりこの眼鏡が気に入ってるんで」
 悪いけど、食事中だから外してというと、彼女達はあたふたとその場を離れていった。

「カカシさん! 幾ら飯の途中だったからって、なにもあそこまで言わなくても!」
 再び二人きりになると、イルカがとても我慢出来ないといった様子で喋りだした。望むところだ。
「じゃあなに? オレは心にもない笑顔と言葉でもって、あの浮ついたタイトルの取材に応じれば良かったとでも?」
「そうじゃない! そんなこと言ってないですよ!」
「じゃあどうしろと?」
 端で見ていたイルカが、快くは思わない返答だろうということは薄々わかっていた。でもだからって、あの取材を受ける気には到底なれない。
「…あっ…ああいう雰囲気が苦手なら、『そういうの苦手だから、すみません』て言えばいいだけのことじゃないですか。あんな突っぱねかたしなくたって」
「おんなじじゃない、断るんなら。どのみち受ける気がないなら、変な押し問答で期待させて長引かせるより、はなからきっぱり言った方がいい」
「ゃでも、それじゃあっ」
「なに、まだなんかあんの」
 多分オレは今、腹の虫の居所が悪い。
(そっちがその気なら、とことん受けて立ってやろうじゃないの)と、内側で身構えた時だった。
「だって、それじゃあ…、それじゃあカカシさんが、凄く嫌な人に思われて…、ホントは絶対、そんな人じゃないのに…」
「ぇ…」
(イルカ、あんた…)
「俺はそれがどうしても嫌だ、納得出来ない」という男に、いつの間にか上がっていた肩が、ふっと降りていくのがわかる。
(あぁ、なんだ…)
 実はお互い、同じようなことを考えてたってこと?
 講義が始まって、イルカとの会話時間はここ最近随分と減っていた。減って当然なのだが、二人だけで静かに話せる時間を、自分はまず何より邪魔されたくなかった。そのためなら、どれだけ嫌なヤツと思われようが一向に構いはしないと思っていたのだが、彼はそれでは嫌だと言う。
(わかったよ…) 
 イルカが嫌だと言うなら…そうだな、少しは、多少は考えてみてもいい。
 何より大事なのは、イルカとの和やかな時間なんだから。
 
「ね、ごはん」
「え?」
「ご飯粒、ついてる。――ここ」
「ぁ…?」
 同じ場所を自分の頬で指し示して見せると、イルカは少し迷いながらもそれを取り。
「カカシさんは、ずるい」と言いながら、への字に曲げた口で食べた。


* * *


(…ぁ、届いた)
 珍しく早く終わった講義の後で立ち寄っていた図書館から、一人で下宿へと戻ってきたその日。何の気なしに一階の錆びたポストを開けると、同じ体裁の封筒が二通入っていて手に取った。
 オレとイルカが先日受けた、健康診断の結果だ。届いたらコピーを取って、大学側に提出するよう言われている。その場で自分の名前が記されたほうの封を切り、ざっと目を通す。
(――ま、こんなもんでしょ)
 それよりもう一通のほうの中身が気になるが、とりあえず飯だ。イルカが腹を空かせて待ちくたびれているといけない。
「ただいま。ねぇイルカ、健康診断の結果が届い…」
 玄関で靴を脱ぎながら喋りはじめたのも束の間、弾かれたように立ち上がるや大股で近寄ってきた男に、まるでひったくるようにして封筒を取り上げられ、唖然としたのち少々憮然とする。
「なに、勝手に見るわけないでしょ」
 幾ら気心の知れてきたルームメイトでも、そんなことをするほど落ちぶれちゃいない。
「っ、すみません…」
 けれどイルカはそれだけ言うと、何やら落ち着かない様子で封筒を破りだした。




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