「いえ、結構です」
 即答。自室の押し入れの襖だってまだらに黄ばんではいるものの、とうぶん交換の必要はなさそうで、襖に関しては色んな意味で間に合っている。
「イルカ、行こ」
 すると、彼がオレと上級生を交互にチラチラと見ながら、明らかに逡巡しだしているのがわかった。途端、オレの中にも何かがチリチリと燻るような感覚。でもそいつをあからさまに外に出しちゃいけないってこともわかってる。なんとなく。
「すみません、オレ達サークルで時間使ってる暇ないんです。奨学金も授業料免除もまだ判定待ちなんで、暫くは本腰入れてバイトやらないと生活していけないですし」
「ぁ…」
「そうなんだ。それは大変そうだね」
(でしょ!)
 イルカは、アンタなんかに構ってる時間はなーいの!
「ほらイルカ、行くよ」
 もうどのサークルにも引っかからないように男の腕を取ると、そのまま大股で歩き出した。
(なによ、オレとの会話は具合が悪くて進められなくても、他の連中とは幾らでも進められるってわけ?)
 胸の中で、『絶対に言ってはいけないモヤモヤ』が渦巻いている。
 そいつを、目の前の人波を掻き分け続けることで何とか蹴散らしながら歩いた。


「――ふー…、やっと離れた…」
 キャンパスの外れまできたところでようやくほっと一息ついて歩みを緩め、イルカの腕を離す。千人単位で集結していた学生達のテンションは完全にお祭り騒ぎのレベルで、そういう気分でない者にはとてもついていけるものではない。
「あの…カカシさん」
「なに」
 いまこちらから言いたいことの殆どは、きっと言ってはいけないことだ。わかってる。だからどうしても、返事も短くなる。
「その…すみません」
「別に。いいけど」
 自分は今、ほんの短くしか喋れないくせに、相手には『察して欲しい』『わかるでしょ?』などと暗に要求している。無理もいいところだ。いや。でも。だって。
「具合はいいの?」
「えっ?」
「もう体の具合は、いいの?」
 さっき担当者に何度も食い下がりながら聞き出した、イルカの診断結果の話が喉元まで迫り上がってきているのを、片意地だ
けでぐっと呑み込む。
「ぁ、はいっ!」
 と、今朝まですっかりふさぎ込んでいたはずのイルカの表情が、突然吹っ切れたみたいに明るくなっていて面食らった。まるで別人のようだ。
(?? なんで??)
 身体検査で、一体何があったというのか。確かに検査は面倒だが、それが済んだことはそんなにも安心で喜ぶべきこと??
(或いはさっきのサークル勧誘のバカ騒ぎが、何かの不安なんて消し飛ぶくらい、とてつもなく楽しかった…?)
(ん〜〜なんか違う…ような…?)
 そんなわけの分からない中で唯一わかっていることといえば、理由など何一つわからなくても、何やらこちらまで胸のつかえが取れたような気持ちになっている、ということだ。呆気なくも、その目の前にある屈託のない晴れやかな笑顔一つで。
「なら早く帰ってさ、飯にしない?」
「ぇ」
 オレも存外いい加減なものだ。理由なんて、もう半ばどうでもよくなっている。
「朝から何も食べてないでしょ。昨日までイルカにばっかり任せてたけど、今度はオレが作ってみるから」
 自分が聞かれたくないことは、イルカにも聞かないと心に誓った。
 なら自分は、それ以外でやれることを、やってみる。



     * * *



「上手く結べるようになったじゃない、ネクタイ」
 入学式当日。北向きの窓からも、春爛漫を思わせる朝の光が回り込んできている。
「へへっ、実は朝早く起きて、こっそり練習してました」
「そう」
 そのことには、何度か気付いていた。
 深かった夢が浅瀬へと向かう頃、決まって襖一枚隔てた向こうで、長いこと衣ずれの音がしていたから。でもその酷く曖昧な現(うつつ)の時間を、不思議と心地よく感じてもいた。子供の頃、耳にしていた音だったからかもしれない。
「ん。やっぱ似合ってるよ、それ」
「朝は窓ガラスの鏡が見づらい」と何度も首を傾げている後ろ姿に声を掛ける。大丈夫、ちゃんとオレが見てる。
「そうですか? ありがとうございます。あはっ、なんか照れるなぁ〜」

 身なりを整え、一階に下りていくと、二人分の派手な軋み音を聞きつけたらしい大家が出てきた。相好を崩しながら「ハレの日にいい天気になって良かったのう。それにしても、随分と出掛ける時間が早いのでは?」という。ふと(彼はここで、何人のT大生を見送ってきたのだろう?)と思う。
「ええ。式典会場までは意外と交通費がかかることがわかったんで、とりあえず途中までは歩こうということになって」
 それをやるとやらないでは、昼食二回分の差が出てくる。
「そうか、感心じゃの」
 イルカは昨日、大家の所に新聞を取りに行ったとき、「毎朝の掃除と修理のお陰で、例年になく楽をさせて貰っている」と、臨時でボーナスを貰ったという。もちろんこれは彼の苦しい懐事情を察した大家が、入学式に合わせて適当な名目を付けてくれたのだろうが、お陰で随分と助かっていた。
「三人で写真が撮りたいんですが」と申し出ると、「儂が撮るから、そこに立ちなさい」と、さっさと携帯を取り上げられた。しかも彼が意外とスマホを使い慣れていることに内心で驚いているうちに、イルカが毎日きれいに掃いていた玄関前での記念撮影は終わっていた。

「儂と記念写真が撮れるのは、無事卒業式を迎えた者だけじゃよ」と言う大家に、「じゃあ四年後、必ず」と言って下宿を後にする。
 五つ向こうの駅を目指して早足で歩きながらも、景色を眺めている暇などない。思いつくまま題目を決めて延々二人で話し合った中には、「自分が社会人になった時、あの大家にどのような恩返しが出来るか」というテーマもあった。
 その意見交換は思った以上に盛り上がり、かなり遠いと内心げんなりしていた駅までの道のりをすっかり忘れさせるに十分なものだった。


     * * *


「ご家族での記念撮影を予約されている方は、こちらになりまーす!」という係員の呼びかけを背中に聞きながら、会場を後にする。
 六角形の巨大な建物を貸し切って行われた入学式は、アリーナから三階席まで、新入生とその家族、大学関係者達でびっしりと埋め尽くされて始まっていた。中学や高校の時のそれとは全く趣を異にする、独特の重さのある張り詰めた空気が、国旗の下がった天井にまで漂っている。
 そんな中、総長の式辞や、新入生総代による宣誓にひたすら見入っているイルカの横顔は凛としていて、隣りにいても身の引き締まる思いだった。
 イルカは夕べも遅くまで教科書を開いて、熱心に予習をしていた。彼によると、「自分は大幅に出遅れた分を取り戻さなくてはいけない」のだという。オレはその向かい側で、あえてフリマで買ってきた本を暫く読んでいた。けれどなぜかいつまでたっても行間に入り込めなくて、気付いたらイルカに声を掛けていたのだった。
「どーおー? ゼミにはついていけそう〜?」
 ついていけるもなにも、まだ入学式が終わり、同じスタートラインについたというだけで一分たりとも講義など受けていない。なのに気付けば余裕綽々といった上から目線…いや背伸び目線。
 どうやらオレは、イルカには格好悪い所を見せたくないらしい。
「いやぁー難しいです。カカシさんの基礎がなかったら、全く理解出来ないとこですよ」
「は? オレの基礎?」
 イルカが努力家なことは認めるが、発言のほうは相変わらず意味不明のヘンテコ発言が多い。
「やハ? やはははは〜〜、いやなんでもないです、なんでも」
(ハァー? なんでそこ、オレ基準なのよ…)
 一時は余りのヘンテコぶりに、昔流行った『お馬鹿キャラ』や『不思議ちゃん』でも標榜しているのかと訝ったものだが、最近ではもうだいぶ慣れてきて、あまり気にならなくなってきている。その発言には、言うほどの悪気も感じられないからだ。むしろ最近では、一緒に笑ってしまうこともあるくらいで。
 昨日は昨日で、家主から臨時ボーナスを貰ったお礼にと、下宿まわりの落ち葉掃除をしていたらしいのだが、夕方部屋に帰ってくるなり「カカシさんこれこれ! 見て下さいよっ!」と何やら勢い込んでいる。
「ん? なに?」
 だがイルカが意気揚々と差し出してきたのは、何の変哲もない彼自身の腕で、その捲り上げられた男の手首を前に、眼鏡の奥で何度も瞬きを繰り返す。彼が唐突に吹っかけてくる大喜利は、いつもその心がわからない。
「これですよ! こ・れ!」
 良いながら、自らの腕の一点を誇らしげに指し示した先にあるそれ――小さな赤い膨らみ――に、ますます眉が寄っていく。
「――この虫刺されが、何か?」
「ふふふふ〜〜、刺されました〜」
「? ……みたいね?」
 だが、『この時期にもうはや刺された』ということが言いたいわけでもないらしい。
「へへへ〜、一度これを掻いてみたかったんですよ〜 ――ん? んん? ふお? うおおーー?! くーーっ! なんだこれ、気持ちいい〜〜!」
 何やら興味津々と言った様子で人差し指で掻きだしたかと思うと、見る間にボリボリやりだしている。
(…で?)
 オレは、何とコメントすれば?
「うわぁーこれ止まんないですね?! あははは〜! カユイカユイ〜気持ちいい〜〜! ずーっとやっていたい〜カユキモチイイ〜〜!」
「…………」
 しかし気の早い虫もいたものだ。そしてよりにもよって、この男を刺したとは。それに付き合わされるオレの身にもなって貰いたい。…じゃなく!
「ゃちょっと! 血出てきてるって! やめなよもうっ」
「ううん、もうちょっと〜〜ははは、刺された刺された〜気持ちいい〜」
(?? 蚊がいない国の、出身なのか…?)
 蚊にも刺されたことない人間と聞いても、ものすごい高地とか寒冷地とか、あとはやっぱりどこかの国の箱入り王子くらいしか思いつかないでいる。
(オレがこれまで数え切れないほどの本を読んで身に付けたと思ってる知識なんて、まだまだ本当に、大したことないんだな…)
 ほぼ二十四時間、一緒に暮らしているルームメイトのプロファイルすら、いまだに空白だらけなのだから。




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