「――うー…ん…??」
「――うーーーん…」
 ダンボールテーブルを挟んで、二人で唸っている。
 テーブルの上には、(主として)イルカの作った夕飯。
 先ほど悩みに悩んで買って来た食材を使って、下宿生活初の料理が出来ていた。だがそこに辿り着くまでが、既に料理を作っているとは思えないレベルの「騒動」だった。
 まず、部屋に戻った際に厚手のセーターを脱いだのだが、その後イルカにスーパーの袋を手渡そうとした瞬間、伸ばした指先にこの時期にありがちな「パチリ」が起こっていた。
「ぴぃッ?!」
(はいはい、何でも派手に驚きたいお年頃なのはわかったから)
 それより買い込んできた食材が、畳に落ちた衝撃で盛大に散らばってしまっている。
「あぁもうー、ちゃんと持ってよー」
 玄関にまで転がっていったキャベツを拾いに行って振り返ったが、それでも男はその場で突っ立ったまま固まり続けている。まるで静電気ではなく、本物の雷にでも打たれたみたいだ。
「こっ…これって…、もしや…っ?!」
「あーそうなんじゃないの〜?」
(なに、このひと?)
 365日、朝から晩まで大雨が降り続いている怖ろしく湿気た国の人?
「うっはぁ〜そうかぁ〜、静電気ってどんなかなぁと思ってたけど、かなり刺激的ですね?! 前ぶれなしでこの衝撃って、いやぁスリリングだなぁ。でもショックでいいアイデアが閃いたりしそうじゃないですか?!」
「いーから早く作ろうよー」
 ちなみに、この地点で早くも卵が二個ダメになった。もちろん慎重に殻を取り除いて、すぐにも食べるけど。
 イルカについてはペンキを塗っていた時から不器用そうだと感じていたから、包丁とか大丈夫なんだろうかと内心危ぶんでいたが、そんなものは単なる序章にしか過ぎなかった。
(えっ?! ちょとまっ)
「ぎゃあつッ!!」
 幾らオレが料理に疎いといっても、フライパンの温度を指先で直接測るのが正しいなんて聞いたことない。自家製ソーセージでも作る気か。
「ちょなにっ?! そんな恐いこと、どこで覚えたわけ?!」
「やっ、ちょっと試しただけです」
「やめて、そんなパフォーマンスちょっともいらないから! 少し考えれば予測つくでしょ!」
 イルカは、調理器具のどこがどの程度熱くなっているのかを、実際に触れて確かめようとする奇妙な癖…というか、おかしな好奇心が働くようで、脇にいても気が気ではない。
 かと思えば、思い切り身構えながら恐る恐る切った茄子の匂いを、真剣な顔をして嗅いでいたり…。
「ゃあの…別にそれ、傷んではないと思うんだけど…?」
「でもカカシさん、この茄子って殆どなんの匂いもしないんですけど、ホントに料理して旨くなるんですかね?」
(はっ?)

「――なっ…、なると……思うよー…??」

 しかし、「ああでは??」「いや、こうじゃない??」などと、全ての行為が半信半疑のままに作られた料理は、当然のように味も疑問符だらけだった。何がいけなかったのかを唸りながら省みて、次に繋げるしかない。
 ダンボールテーブルを作った時は、一人より二人の方がアイデアが練れて上手くいったと思ったが、今回はそれが仇になった気がしてならない。
「オレが思うに、イルカは大胆すぎたよね」というと、即座に「カカシさんが慎重すぎるんですよ」と返ってきた。足して二で割れる日は遠い。
 唯一食べられたのは炊飯器が炊いてくれた白飯だけで、次々湧き上がる疑問符が取れるまでの間はゴマ塩飯か、よくて卵かけご飯になりそうだ。
「すみません、折角の食材をいかせなくて…」
 最後にはイルカが折れてきた。折れなくていいのに。
「ま、いーんじゃない。これで明後日の健康診断の結果が栄養失調って出たらさ、奨学金も出やすくなるかもだし〜?」
「…………」
 しかもこんな時、上手いこと茶化しておどけてみせたつもりがおかしな空気になってしまい、四畳半は更に気まずい空間になっていく。
「…ごめん、やな言い方した」
「ぃぇ…」
「そういうつもりじゃ…なかったんだけど」
「……はぃ」
 とにかくこれで、全新入生が行う明後日の健康診断の結果が悪いことは許されなくなった。
(なら、食べるしかないでしょ)
 いま自分に出来ることは、それ以外何もない。進める気力のなくなっていた箸を、もう一度取り上げた。


* * *


「ね、どっか具合でも、悪いわけ?」
 押し入れ睡眠にも慣れてきて、初日に手間取った半分の時間で目覚ましを消し、眼鏡をかけて暗がりから出てきたものの、出くわした男の様子を見て思わず眉根を寄せる。
 一昨日辺りから、明らかにイルカの様子がおかしい。もっというと、一昨日ここで初手料理を作った時からの、ような…?
 確かにあの時は自分も軽はずみなことを言ってしまい、申し訳なかったと思っている。でも、だからといって今日まで引きずるほどのことだろうか?
(昨日のイルカの料理も…まぁそこまでアレじゃなかったし)
 それにこちらも頑張って、三食とも全て胃袋に収めている。その際、イルカだけが何かにあたったとも思えないのだが、とにかくあのいつもの溌剌とした元気がすっかり陰をひそめてしまっていた。
「なにか心配なとこがあるなら、身体検査のついでにみて貰ったら?」と言うと、男は慌てた様子でぶるぶると首を振っている。そしてまた、俯いたままぼんやりどんより…。
(なら、なんなわけー?)
 こっちもわけがわからない。手洗いから戻ってきて顔を洗い、歯を磨いて出掛ける服に着替えても、まだ何やら考え込んでいる姿に、ついに苛立ちが押さえきれなくなっていた。
「あのさ、どんな理由があるか知らないけど、この狭い部屋で、あまり面倒臭い空気を撒き散らさないで欲しいんだけど?」と言うと、イルカはようやくハッと我に返った様子で、あたふたと外出用の服を用意しだした。今朝は検査があるため朝食をとってはいけないことになっているのだが、こっちにまで聞こえるくらい腹は頻繁に鳴っている。内側はそれなりに元気らしい。
(ま、あっちの方も元気だったみたいだし?)
 でもそうなると、(じゃあそれ以外の理由って、なによ?)と、新たな疑念もわき上がってくる。
(んーー、ここまで心配しているということは、だ)
 普通に考えれば、『もしも健康診断でそれが発覚した場合、入学に支障が出るほどの大きな問題を抱えているから』としか思えないのだけれど、一昨日まで無駄に元気だった彼に限ってそんなことってあるだろうか?
 今日の健康診断の際の注射が恐いだけの、単なるお子様とかいうオチだったら、本気で怒るよ?


* * *


(――別に、変わったことはなし、か…)
 健康診断の会場で、服を着ながらつらつらと考える。
 新入生の一斉健康診断が構内の一角で行われたが、名前順だったおかげでようやく今終わったところだ。血液検査などの詳細な結果は後日郵送されてくるらしいが、どうしても先に終えたはずのイルカのことが気になって、その他の結果がどうだったのか、無理を言って教えて貰っていた。
 外注の業者らしい担当者は、最初のうちかなり難色を示していたものの、「同じ部屋の者なので」としつこく食い下がると、ようやくカルテを検索してくれていた。が、内心で何となく悪い方に想像していたようなことは全く、これっぽっちもなく。担当者はファイルを一瞥するやごくあっさり、「特に悪い所は、何もないですね」とだけ返してきていた。
(じゃなんで急に、あんなに不安そうに考え込んでたわけ?)
 本当に注射が嫌いなだけだったのだろうか。
(それとも、全身にド派手な昇り龍の刺青でも入れていた…? とも思えないしな)
 こっちは余りのイルカの様子のおかしさから、親が病んでいた時のことを思い出して落ち着かなくなり、必至で担当者に食い下がったというのに、何だかバカみたいだ。
 明後日はいよいよ入学式なのだ。いつまでも意味不明の重い空気を引きずっていられてはかなわない。イルカは先に帰っているはずだが、今日こそ理由を聞かせて貰うぞと、上着を羽織りながら診察室になっていた建物を出た時だった。

「なっ…?!」
 目の前の廊下で、すれ違うのも大変なほどごった返している学生達に、一体何事が起こったのかと一瞬立ち竦む。
(ぇ、なに…?)
 皆が口々に喋っている声がうるさすぎて、全く聞き取れない。人の波はそのまま屋外へと続いていて、まっすぐ歩いて帰ることなど到底不可能だ。
(ぁ…? あぁ、なんだ…)
 そういうこと。
 分厚いレンズ越しに、一部の学生達が手に手に持って掲げているものの文字を読んで、ようやく置かれた状況が理解出来ていた。
(サークルの、勧誘ね)
 考えてみれば、今日この部屋から出てくる者は全て新入生だ。ならばこんなに効率の良い勧誘機会もそうはないのだろう。構内の掲示板などでもサークル勧誘に関するポスターは幾度も目にしていたが、ここまで活発…というか猛烈とも思っていなかった。まるで年末の帰省ラッシュとバーゲンセールが一緒になったような混乱ぶりだ。
「ぁ、急いでますんで、すみません、ハイすみません」
 悪いけど、自分はそういうのは苦手だ。早速近寄ってきた数人の上級生を、挙げた手で遮るようにしながらさっさとかわす。まだフリマで買った本すら一冊も読めてないのだ。サークルなんか入ろうものなら、オレの四年間の図書館通い計画に確実に支障が出てしまう。
(しかしイルカのやつ、よくこんな所通って帰ったな…)
 次々目の前に差し出されてくる名刺やビラを断りながら、何とか前へと進む。特に運動系は、全員が一目でそうとわかるウェアを着てアピールしているため、賑やかしいことこのうえない。でもインドア派で眼鏡しか掛ける気のない自分には、運動系こそノーサンキューだ。
「すいません、通して下さい」
 馬術とワンゲルとウエイトリフティングの包囲網を逃れ、「自動車部」「躰道部」「ヨット・ディンギー」と書かれたカードを掲げた一団をやり過ごす。いやはや大変な騒ぎだ。こんな中でまともに話を聞いて決められる者など、果たしているのだろうかと不思議に思いながら、相撲部とボクシング部をかわした時だった。
(イルカっ?!)
 名前順の受付だったのだから、もうとっくに家に帰り着いているはずの男が、このバカ騒ぎの中で上級生らしき男と笑いながら話をしているのが見えて、思わず大股で歩み寄る。
「ちょっと! 何してんの!?」
「あ、カカシさん!」
「ようこそ、『ふすま倶楽部』へ〜!」
(フスマ? ふすまって……襖か?!)
 イルカがつかまっていたのは、「全国各地で襖の張り替え活動をしている」というサークルだった。またなんともコアな団体があったものだが、それに反応したイルカもイルカといったところか。いやこの時間まだでこんな所に居るということは、いっとう最初の野球部から一つずつまともに話を聞いていた可能性も捨てきれないが。
「カカシさん、この方すっごく面白いんですよ〜。あ、この人はルームメイトの畑さん!」
 しかもイルカは、呑気にオレを紹介したりしている。
「やあ、君も新入生かい。どうだい、襖の張り替えを通して、日本の伝統文化を学んでみない? 古い襖の中には当時の古い紙がそのまま残っていて思わぬ発見が詰まってるし、日本全国の貴重な襖絵や社寺仏閣も見て回れるよ」




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