話が飛んだ。とにかく今は、襖を開ける前に眼鏡だ。幾ら生活を共にしているとはいえ、他人の前で必死で目を凝らしながら眼鏡を探し回っている姿なんて見られたくない。
(――よし)
 愛用の眼鏡をかけたことで、それまで曖昧だった襖の隙間がようやくはっきりと見えてくる。
(ハイ、おはよっと)
 誰にも邪魔されずによく眠れたせいだろうか、気分はいい。けれど光のさしているところに指を入れて、内側から襖を開いた時だった。
(?)
 眩しさからぎゅっと細めていた目が光に慣れたところで、突っ立ったままこちらを向いた黒髪の男と目が合って、暫し固まっていた。
「――なに、してんの?」
 イルカは昨日買ったばかりのスエットの腰ゴムを引っ張り広げ、困ったような顔をしながら、自身の下半身をちらちらと覗いている。
「やっ…えっと、その…――なんかすごく、おっきく…なってて…」


「――そ。よかったね」

 見なかった。
(まだオレは眼鏡をかけきってなくて、見なかった)
 共同トイレで用を足しながら、同時に記憶の操作を試みる。
(或いはこれも、夢の続きってーことで)
 確か先日購入した心理学の教材の中に、記憶の書き換えに関する項目があったはずだ。あれもう一度読み直そう。
(…っていや、やっぱあの男、ちょっとヘンでしょ?!)
 起きたとき元気なことなんて、オレ達の年なら何ら珍しくもない日常だ。まぁ自分は途中で入院したり、受験で昼夜が逆転していた期間もあったから、元気じゃない時も少なからずあったけど。
 でも。
(やっぱなんか、おかしくない?)
 夕べは(一風変わった発言をするあの男の人となりが、一緒に暮らすうちに自然とわかってくるといい)なんて思っていたけれど。
 一夜明けるや、それもどうなの? と思いながら手を洗った。


     * * *


「えっとカカシさん、俺すっげぇ腹減ったんですけど?」
「ん、オレも」
 それまで極力意識しないようにしていたが、一緒にいる者に言われてしまうともうダメだ。なのにイルカの表情はというと、空腹だというのにどこか楽しそうでもあり、それの何がそんなに愉快なのかと思ってしまう。
 今日も午前中からキャンパス内を回って、あれこれ作戦を練っていたところだ。朝ラーメンしたあと、まずはアルバイト紹介の窓口に行き、具体的な資料を見て回っていたが、そこで偶然にもノートPCの無償貸与制度があると聞いて、慌ててイルカの分を申し込んでいた。研究室などから出た不要なものを、構内の施設でリユースしているそうだが、毎年更新していれば四年間継続して使えるし、壊れたときも無償でサポートして貰えるという。
「良かった…大事にしなくちゃ」
 ノートPCを大事そうに胸に抱えて安堵しているその姿は、とても『変なヤツ』には見えないが、人とはわからないものだ。
「あとは、バイトが決まれば、ね」
 最近は仕送りだけで生活して、空いた時間を就活に充てる者も多く、以前よりアルバイトの求人も減ったとのことだったが、それでも自分達には絞り込むのが難しいほどだった。これなら来月か、遅くとも再来月辺りからは、食費を真っ先に削るようなことはしないで済むだろう。バイトを希望する者は、自分で直接先方に連絡を取って進めていくスタイルだという。
「面接、がんばります!」
「じゃバイトを頑張れるように、目の前にぶら下げる用のニンジンチェックでも、しておくか」
「は? ぶら下げって…ニンジン? チェック〜?」


     * * *


「うっわあーこれって全部、ここのメニューなんですか?!」
「ま、そうみたいね?」
「うわうわ安い! 全部片っ端から食べたい! カカシさんはっ、どれにするんですか?!」
 イルカが、学食のメニューの前で大騒ぎしている。T大の学食は実用一辺倒でお洒落さは全くないが、安くて品数が多いことで知られているらしい。ざっと見たところ一〇〇近いメニューがガラスケースや張り紙の中に並んでいて、どんなに高くても四〇〇円台、小鉢などの副菜は五、六〇円などという、まるで昨日のフリマの続きのような値段が付けられている。
「ふわーまたすーーっげぇ広さ! これって時間によっては殆どが埋まってしまうからこの広さなんですよね?」
「ま、そうだろうね?」
 食堂は他にも二か所あるらしいが、全部で一〇〇〇席を遥かに超えている。ゼミが始まったら行く時間帯を選ばないと、混みすぎて食べ損ねそうだなどと話しながら、悩みに悩んだ末にピックアップしてきたメニューを空いていたテーブルに乗せる。インスタント続きだったせいで、まともな飯を久しぶりに見ていた。食器は全て地味な色合いのプラスチックだし、レストランのような飾り気や色気は一切ない。それでも強い空腹はご馳走だと訴えている。
「あ〜ラーメン食べたかったなぁ〜。でも今は我慢だ!」
「帰ったらまたカップラーメンなんだから、ここではやめとけばー?」
「そうはいきませんよ〜」
 メニューには三種類のラーメンが並んでいたが、いずれも大盛りの方はメニューの中の最高ランクである475円とあった。一番安い味噌ラーメンの並盛りでも、365円。けれど奨学金の希望は出したものの、判定待ちの身のオレ達には高嶺の花だ。結局イルカは厚切りハムカツと白飯(中)で200円、オレは肉じゃがと白飯(中)で230円と相成った。

「うっ、旨い! これ最高! 蒜山さんの所でも思ったけど、やっぱあったかい白飯って、めちゃくちゃ旨いですね?!」
「そーおー?」
 白い飯がそこまでのリアクションで賞賛できるほど旨いと思ったことはないが、とにかく自分は余り油っこくないものでこの厄介な飢餓感が消えてくれればそれでいい。
「あの、でもその…カカシさん、俺自炊ってやつ、始めてみようかと思うんですけど…」
 見ると早くも残り少なくなった皿を前に、イルカが俯いたまま難しい顔をしている。
(んー、やっぱ200円でこの量は厳しいか)
 かくいう自分も、この分だと夜までもちそうにない。イルカはもう本当に所持金がないらしかった。フリマで食器や調理器具などは揃えたが、その先行投資のお陰で今の危機的状況がある。なのにバイト代が入ってくるのは、早くても来月。となると、あと一ヶ月間だけはどうにかして食いつながないといけない。
「わかった。じゃこの後は、近所で買い物ね」
 また腹が減って動けなくなってしまう前に、何かしら買っておかなくては。


     * * *


「じゃここはオレが払うから、イルカが料理担当ってことで」
「えっ、…はっ、はい…」
 大家に聞いた安売り店に入りながら提案…というか宣言すると、イルカが自信なさげにおずおずと頷いている。
「もしかして…料理したこと、一度もない?」
「っ、…はい…」
 だがそれについては自分も同じだ。ろくな手助けも出来ないかわりに、文句も言えない。
「なっ、なんとか、やってみます!」
「ん、宜しく」
「料理こそ経験の積み重ねが必要なものだろうから、とにかくまずは始めないとな!」と、気合いを入れているイルカの頑張りに期待することにして、レジカゴを取り上げた。


     * * *


「ふーー、これで何とか…」
「したいとこだね」
 スーパーからの帰り道。イルカがしきりにレジ袋の中を覗いている。中には彼が選んだ茄子が入っている。「やっぱ季節外れだからないみたいですね…」と言いながら秋刀魚も探していたりして、結構好みが合うらしいことに内心期待値が上がっている。
「そういやイルカは、将来何か目指してる職業とか、あるの?」
「ぇ?」
 それまでは、「学食で目指すのは、味噌ラーメン大盛りと餃子、ですね」とか、「オレは500円のヘルシーセットかなぁ」などと、他愛のないことを言いあいながら歩いていた。買ったばかりの米や食材の類は、二人で分けてもなおそれなりに重かったはずだが、未来への期待が幾らか軽くしてくれていた。そんな淡い気分の時だったからだろうか、ふと聞いてみたくなっていた。
「えっと、俺は…」
 ちょっと照れ臭そうに言い淀んで、鼻の傷を掻いている。
「前、塾講師のバイトがしたいって、言ってたよね」
 確か子供が好きだとも言っていた。
「ええ。でも出来ることなら学校の教師になりたいです。勉強以外のことも見てやりたいんで」
「そう」
 彼にはそれまで、明るいけれどどこかぼんやりとしているような印象も抱いていたのだけれど、意外なほどはっきりとした答えが返ってきて小さく頷く。なんでも「中学から高校時代にかけて、とても良い教師に出会って感銘を受けた」からなのだという。なるほど、それについては自分もとても覚えがある。誰しも多かれ少なかれ、似たような経験をしてきているものらしい。
「カカシさんは?」
「オレ? んーオレは…」
(そーねぇ〜…)
 気付けば自分の答えも定まってないのに、相手には聞いてしまっていた。軽い気持ちとはそういうものだろうが。
「受験勉強してる頃は、誰かに認められたいとか漠然と思ってたけど、今はちょっと違うかな」
「例えば?」
「わかんない。バイトとか体験入社とかしたら、なんか変わるかもしれないけど」
「ああ、それはそうですね」
 こういう時のイルカは、とても自信ありげに見える。迷いがないというか。
 この流れで夕食も期待していいかな。しちゃうよ?
(話の合ういい教授とか、いるんだろうか)
 いそうではある。ミナト先生のことを知ってる人も探して、早いうちに話が聞けるといいのだが。
(にしても…)
 自分とイルカは、何やらおかしな所で似通っている気がしてならない。どう見ても全く違う環境で育ったように見えるのに、知識の幅や食べ物の好みがたまたま似ているせいだろうか? 度々(あ、それオレも)と思っているような…?
(でも料理のセンスだけは、違ってますように)
 特売で買った茄子の大袋を見ながら祈った。





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