ネクタイについては敢えてフリマでは選ばず、帰ってきてから父のものを渡した。亡くなった時にそれらだけは処分せずに引き取っていた――というか、伯母さんが気を回して取っておいてくれたのだが――どういうわけか最初イルカは、ちょっとおかしいくらい、それを受け取るのを頑なに拒否していた。

「なに、ネクタイの色が気に入らないってこと?」
「そうじゃないです! 違いますよ! でも、だって…それは…」
「だってなによ、模様が気に入らないなら気に入らないって言えばいいじゃない。幾らでも替えるよ」
 父は洒落者というわけではなかったが、仕事上貰う機会は少なくなかったらしい。伯母から受け取った中には、まだ包みが解かれていないものも幾つかあった。一応形見のような形で今日まで持っていたわけだが、将来自分がどんな仕事に就くにせよ、こんなに沢山は必要ないだろう。改めて見ると、似たような色や模様のものも複数ある。イルカはどれでも好きなのを選べばいい。
「違います。違う違う。――カカシさん、もう一度よく考えて下さい!」
「は?」
「だって……こんな大事なもの…」
 黒髪を高く括った男は、大きな口を一文字に結んで、ひどく困ったような顔をしている。ネクタイの出所など何も話していないのに、いや、だからこそなのか、何やら難しく考えてしまっているらしい。
「そうでも、なーいよ?」
 イルカの困惑した表情を見ているうち、なぜだか明るい声が出た。
(もう先の見えない気遣いはさ、この辺にしておこうよ?)
 お互いにね。
「フリマの人も言ってたでしょ。『自分でただ持ってるよりは、むしろ誰かに使って欲しい』って」
「でも…っ」
「それにネクタイなんて、オレが使ってちゃ見えないし」
「ぇ…」
「イルカが使ってるなら、いちいち鏡に映さなくてもよく見えるでしょ」
「ぁ…」
 そこまで言うと、ようやく同居人はさっきからずっと差し出していた空色のネクタイにゆっくりと手を伸ばした。
(よかった)
 イルカは再び窓ガラスに向かうと、怖ろしくおぼつかない手付きで、何度もネクタイを結んでは解いてを繰り返している。結び方自体は知っているようだが、まるで自身の手指が自分の思ったように動いてないみたいなぎこちなさだ。この男、先日のダンボール工作の時にも思ったが、細かい作業は本当に苦手らしい。それでも本人は真剣そのものといった様子で夢中でネクタイと格闘していて、何やら声を掛けるのも躊躇ってしまう。
(まぁでも、自分も初ネクタイの時はそうだったっけ…)
 そのうち頭で考えて結ぶことはなくなり、いつの間にか手が勝手に結ぶようになるのだ。きっとイルカも、来週の入学式までにはきれいに結べるようになっているだろう。
(んじゃこっちは、飯でも用意しますか〜)
 すっかり食べそびれていた昼食という名の夕食を用意すべく、ヤカンを火にかけた。その次に準備するのは、やっぱり今回もイルカが喜びそうな例のあれだ。フリマ会場を出る時には二人ともすっかり所持金を使い果たしていて初の外食はお預けになってしまったが、今日のところは仕方ない。
(まっ、なんでも喜んで食べてるうちは、いーってことで)


     * * *


「――はぁー気持ち良かった〜、さっぱりした! でもいきなり行って大丈夫かなと思いましたけど、意外とすんなりでしたね」
「そりゃあ学生証があるんだから。大丈夫でしょうよ?」
 新緑が広がりはじめたキャンパスの片隅を、買ったばかりの石鹸を鳴らしながら歩く。ドライヤーで半端に乾かした髪や首元の間を、陽が落ちたばかりでまだ暖かさの残る春風が、穏やかに吹き抜けていく。キャンパスは広大なうえ緑豊かで、ここが都心のど真ん中とはとても思えない。
 大家に聞いていた構内のシャワー棟に行って、フリマでかいた汗と砂埃を洗い流していた。隣の体育館で何かしら運動をしないと使えないのかと危惧していたが、そんな雰囲気は欠片もなかった。予め別棟で知らされた暗証番号で入室したが、ずらりと並んだシャワーブースには誰もいない。内心、他にも似たような利用をしている者がいるのでは…などと思っていたが、風呂無しの物件に住む極貧のT大生なんてのは、実はオレ達くらいなのかもしれない。
「えへへー…丁度良かったです、これ」
 グリーンのジップアップパーカーとストレートジーンズに着替えて出てきたイルカに、(なるほど、そうなったんだ)と思う。余りにもペンキジャケット姿を見慣れていたせいだろうか、何やら妙に新鮮に映る。
(ほらね。オレの言うこと聞いといて、良かったでしょ?)
 返事の代わりに、軽く頷いた時だった。急にイルカが立ち止まって、何事かと思う。
「選ぶの付き合って下さって、ありがとうございました。大事に着ます!」
 なぜだろう、その途端急に、その辺の誰でもいいから掴まえて、目の前の男を自慢したいような気持ちになったが、意味不明すぎるから内側だけにとどめておく。
「まっ、タダには見えないから、いーんじゃないのー」
 意外と『ご自由に』の箱のほうが見る人がいないのか、文字通りの「掘り出し物」が多かった。ただ、それだけのことだ。
 だがさっきまで着ていた服装とは真逆の、ラフな格好になった男は、感想もラフだった。
「ほんと、カカシさんが、あんまりお洒落とかうるさくいわない人で良かったぁ〜」
「はぁ? なにそれ。褒め言葉じゃないなら、言わなくていいよ」
「褒め言葉ですよ〜」
「どこがよ〜」
 不思議だ。昨日まではまだちょっと距離を感じていたはずが、いつの間にか今日一日ですっかり埋まってしまっている。なけなしの金をはたきあって、生活用品を選んだだけなのに。

 部屋に帰ると、もう腹が減っていた。カップラーメンは簡単だし安くていいが、腹持ちが悪いのが難点だ。
 かくなるうえは、寝て忘れるべし。
(と、その前にっと…)
 ジーンズの尻ポケットに指をさし入れ、昼間からずっとそこに入れたままになっていたものを、確認するように触る。――あるな。
「ぁ…、えっとさ、……これ…あげる」
「はい?」
 イルカの前…ダンボールテーブルの上に、小さな袋を一つ置く。本を物色している最中に、偶然目に留まったものだが、元々は百円ショップ辺りで売られていたものだろう。しかも封こそ切られていないものの、オレが買い求めた値段は元のそれより遥かに安く、とても言えたものじゃない。
 ただイルカは二人で使うものばかりを選んで、自分のものなんて殆ど見てないんじゃないか…とふと思ったから。
「よく、『ないない』って、探してるから」
「あ…ああ…、髪を、しばる…!」
 その時のイルカの表情を、オレは殆ど見ていない。何か思うところある様子で、何も喋らないままやたらと大事そうに手に取っている彼の気配が気恥ずかしくて、とても見れたものじゃなかった。出来ればさっきみたいにもっとラフに、軽く笑って受け取って欲しかった。むしろ「なんでこんなもん買ったんですか?! センスないなぁ」くらい言ってくれたほうがまだ気がラクなくらいだ。とにかくどうしても顔を合わせられなくて、「っ、オレ、今日からここで寝るわ」と、押し入れの上段に畳んであった布団をそのままバタバタと広げだす。
「えっ、なんでそんな狭いところ」
「なに、アンタだって、そうしてるじゃない」
 しかも下段のほうが足音や振動が響いて、上より寝にくいはずだ。
「押し入れの方がいいんだ。布団をいちいち上げ下げしなくて済むから」と早口で言うや、さっさと上段に上がったオレは、「おやすみ」とだけ言って横になった。

「――カカシさん?」
 襖が閉まった気配がして暫くすると、板一枚隔てた下から控え目に名前を呼ばれた。
「んー」
 初押し入れ睡眠は、不覚にもまだ上手いことできていない。早く寝つきたくて(カプセルホテルと同じと思えばいいんだ)などと言い聞かせてみたが、そのカプセルホテルに泊まったことがないから、どんなものか具体的に思い描けない。こういう時、外部からの情報を活字にばかり頼っていると不便だ。大学生活中は、活字以外の体験も重ねていかなくては、肝心の活字が楽しめない。
「今日、めちゃくちゃ楽しかったです」
「ん」
(ふ、ほんとにね)
 イルカの活き活きした様子を瞼の裏に思い出して、暗がりで小さく口元を綻ばせる。イルカは活字より実体験派という気がする。
「あの会場にいる時ね、俺すごく幸せな気分だったんですよ」
「…そう?」
 自分は百円以下でモノの売り買いが盛んに行われている様子に、(まるでままごとの拡大版のような世界だな)とは思ったが、幸せとかいうものには程遠い気がする。
「だってモノが…数え切れないほど沢山のモノ達がみな、あんなにも大切にされてるなんてなぁ…」
「モノには一つ一つ、そのモノなりの価値と物語が、あるんですよ」と、心の底からしみじみと話している様子は、普通の大学一年生とは何かが違っている気がした。
(ぇなに? モノが幸せ?? だと、自分も幸せって、こと? 物語?)
 よくわからない。発言の主旨がイマイチ理解できない。
 この経済大国で生まれ育った人間が、しかもまだ十八、九の若い男が、果たしてこんなことを言うだろうか?
(あぁでも、聞かないって、誓ったんだった)
 自分も聞かれたくないし、何も話したくないから。お互いそっとしておいて欲しい部分が少なからずあり、そこには例え四畳半で顔をつきあわせて暮らす者であっても立ち入らないという、不文律が出来始めているから。
(にしても…)
 板一枚隔てたすぐ下に居る男は、一体これまでどんな希有で希少な体験を重ねてきたんだろう。
(今後何も聞かなかったとしても、一緒に住んでるうちに…自然とわかってくる…だろ…か…)
 昼間の疲れに塗り潰されながら、遠くで思った。


     * * *


(んーー…、たぶんこの辺だった、はず…)
 真っ暗がりの中、記憶と触感だけを頼りに枕の下を手探りする。起きたときのことを考えて、夕べは確かこの辺に眼鏡ケースを置いて寝たはずだ。
(…ぁ、あった)
 押し入れ寝室は思いのほか快適だったが、目覚めた時が少々頂けない。昨日暗いと思った北西窓の室内など比べ物にならないくらい中が真っ暗で、すぐには身動きが取れないからだ。今も目覚ましを消すのに手間取って、お陰でやたらと目が冴えてしまった。
(まそりゃ、眼鏡がなければ? どっちだっておんなじようなもんだけど)
 暗がりで、ちょっと自虐的に唇を曲げてみる。先日からキャンパスを行き交うT大生を注意して見ているが、眼鏡利用者は確かに多いものの、ここまで分厚くてごつい眼鏡をしている者には今のところお目にかかっていない。
 とはいえ、コンタクトに代えるつもりも更々ない。コンパで女の子と交流とかいう以前に、自分は学業なのだ。入学金免除と奨学金を希望する以上、高成績を残さないと話にならない。




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