辿り着いた火事の現場は、既に火の海だった。
 家の中から轟々と広がってきたオレンジの炎が、巨大な竜の舌のように家の周りを舐め回し、この世の全てを焼き尽くそうと猛り狂っている。
 耳を塞ぎたくなるようなガラス窓の割れ落ちる音がひっきりなしに続き、家財道具や乾ききった建材が破裂する音が、バチバチ、ドン、ドカンと絶え間なく冬の夜空に響き渡る。
 凄まじい熱風が、吹き上がる火の粉と共に北風に乗って襲いかかり、少しでも近寄ろうとする者あらば即座に飲み込まんと、うねり、のたうちながら待ち構えている。
 一面が赤と黒に重ね塗られた世界の中で、色を失って右往左往する人々、その場に留まったまま絶叫する人、ただもう呆然とその光景を見つめ続ける人、人、人……。
 火炎と熱風が、ほんの少し前まで平和だったはずのその一角を、恐ろしい阿鼻叫喚の世界へと一変させていた。

 まるで何らかの意志を持っているかのような猛火の、その鬼気迫る凄まじさに、流石のオレ達二人も暫し呆然と立ち尽くしてしまう。
 が、そこにいきなり人がぶつかってきたことで、ハッと我に返った。
 衝突寸前で気付き、いつもの習慣で咄嗟に素早く避けると、人影はそのまま足がもつれて地面に力無く倒れ伏す。
 見ると全身真っ黒にすすで汚れた裸足の女だ。
「大丈夫ですか?!」
 慌ててガイと二人で助け起こすと、女は髪を振り乱し、半狂乱になりながらガイの手を力一杯掴んで叫んだ。
「コザサが! うちの子がっ、どこにも見当たらないんです! 一緒に逃げ出したはずなのに!」
「なぬぅ?!」
「いや待って、落ち着いて下さい。一緒に逃げ出したんなら、この人混みに紛れてしまっているだけではないですか? 我々も一緒に探しますから」
 オレは右手を添えて、とりあえず女を立たせようとした。しかし彼女は冷静になるどころかますます取り乱しながら、差し出した手を振り払って叫ぶ。
「それが! 廊下を這った時には確かにいたのに、裏口から飛び出した時に振り返ったら、どこにも! コザサはどこにもいなかったんです!!」
「なに、コザサだって?!」
 背後でイルカ先生の叫び声がした。
 振り返る間も無く、彼が転がるようにして女の前に跪く。オレ達を追いかけて、酔ったおぼつかない足腰のまま走り通しだったらしく、息が上がって酷く苦しそうだ。
「コザサって…まさかアカデミー生のコザサですかっ?! アサギ先生の所の!」
 女は両手で顔を覆うと、激しく嗚咽しながら何度も頷いた。
 途端、イルカ先生は弾かれたように女の脇をすり抜けて、猛然と猛火の中へと走って行こうとする。
(じょっ、冗談じゃない!) 
 オレは即刻先生を後ろから羽交い締めにした。
 あなたには悪いけれど、今のこの状況では酔っ払いの中忍一人が何とかしようったって、とても出来るようなものじゃない。行っても屍の山を一つ多く築くだけなのは明らかだ。
「ちょっ…! 離して! 離して下さいっ、カカシ先生ッ! このっ、ちょっとぉーッ!!」
 ロクに力も入らないような手足をバタつかせて、オレの腕を何とか振り解こうと暴れまくる。
「もうっ! 少し落ち着いて下さいよ! 聞いてます? 先生! イルカ先生! …って…あぁもうわかりました、わぁかりましたって! オレが行って来ますから!」
「――えッ…」
 羽交い締めにしていた上半身から急に力が抜け、イルカ先生の一杯に見開かれた黒々とした瞳が、真っ赤な炎に照らされながらオレを見つめた。ああもう、こんな間近であなたと向き合うなんて生まれて初めてだというのに、周囲の状況がその先を許してくれない。オレは半ばヤケになって叫んだ。
「オレが行って来ますから! 先生はこの人混みの中にその子がいないか、ガイと手分けして探して下さい! これでいいですね! もう絶対に馬鹿な事考えないで下さいよ! わかりましたね?!」
 先生の胸を人差し指で何度も小突きながら、一気にまくしたてる。
「あ…っ、…いや、でも…っ!」
「あなたに拒否権は無い! これは上忍命令です! 何度も言わせないで下さい、無視したら化けて出ますよ! わかりましたね?!」
 もう「ああ」も「うん」も聞いてられない。こうしている間にも火は確実に回っているのだ。
 オレは即座に踵を返した。 
 その時。
「ちょーっと待ったぁ―――ッ!!!」
 アイツの炎よりも暑苦しい雄叫びが、夜空に響き渡る炎上音を掻き消すほどの大きさで、すぐ背後から飛んできた。
 瞬間、オレは何か物凄く面倒な事が起こりそうな気がした。





 どこまで腐っていようが自分は上忍。勘はまたしても当たっていた。
 叫び声と同時に、オレの右肩をガイの大きな手が後ろから掴んでくる。うるさいので後ろ手にはたき落とすと、今度は両肩を物凄い力で掴まれ、振り向かされて、すぐ間近で無理矢理あいつと正対させられた。
「なっ、やめっ…早く探しに行けッ!」
 オレはのけ反って精一杯顔を逸らしながら、肩に掛けられたヤツの両腕を掴んだ。しかし恐ろしい事に、無駄にぶっとい十指は、その先に接着剤でも付いているかのようにびくともしない。
「いいや、オレが行く」
 オレの肩を馬鹿力で掴んだまま、ガイがおかしな事を言い始めた。
「あぁ?! 今頃酔いが回ってきたか? お前ロクに忍術も使えないクセして、あんなとこで一体何するわけ?!」
「お前こそ化けて出てやるとは何だ! まさか死ぬ気じゃないだろうなァ?!」
「筋肉バカのお前よりゃ、まだ生還出来る率が高いの! いいからさっさと離せって! このっ…!」
「いいや、離さん! お前はここでイルカ先生と一緒に子供を捜せ! 大丈夫だ、オレにはド根性と自信と熱き魂があるッ!」
「それサイアクだから!! オレが後で火影に責められるだけでしょうよ!? あぁもう早く離せ! これ以上火が回ったら、オレだって防ぎきれない!」
「フッ、遠慮はいらん! さっきのオレの飲み代だと思って有り難くとっておけ!」 
 ガイがニヤリと不敵に笑うと、のぞいた白い歯が炎の色に紅く染まる。
「何をよッ!?」
 間髪入れずにその意味不明のボケに突っ込んだ瞬間、目の奥に物凄い数の火花が飛び散り、全身の力ががくんと抜けた。
 ガイの石頭で渾身の頭突きを食らった…とわかった時には、オレは膝から地面に頽れていた。




(フッ…、今こそ不死身のヒーローがハッスルすべき時だからなッ!)
 ガイは昏倒するカカシをイルカに任せると、うろ覚えの印を切って何とか薄い結界を張り、辛うじて猛火を防ぎながら、ガラスの割れ落ちた窓から室内へと飛び込んだ。
 襲い来る凄まじい熱波の中、無意識に片手を顔の前にかざし、轟々と燃えさかる室内の中を、低い姿勢を保ちながらじりじりと進み始める。
 渦を巻きながらぶつかってくる炎が、いい加減な結界を破って体を焼き尽くそうと、次々と襲いかかってくる。
 濃い煙は結界で防げても、渦巻く熱波の全てまでは防ぎきれていない。
 ましてやこの水の無い状況で、火消しのための水遁術など使える訳がなかった。(いや、使う以前に元々知らなかったのだが…)
 たちまちガイの全身を、滝のように汗が滴りだす。
「コザサ! 居るのか?! コザサ! 返事しろ――っ!!」
 一部屋一部屋、戸を蹴破っては声を掛けて回る。
 叫ぶたびに熱風が喉の奥まで押し寄せてきて、肺まで焼けそうな熱さに激しくむせてしまう。更に火の付いたままの天井や柱が、何の前ぶれもなく次々と崩れ落ちてくる。
 ガイはその度に鋭い回し蹴りでもって、風圧と共に右へ左へと弾き飛ばし続ける。何度も、何度も、何度も…。



 気の遠くなりそうな、しかし実際には突入後からまだほんの数分ののち。
 子供のすすり泣くような声が、燃えさかる炎の音の間から聞こえたような気がして、ガイはとある部屋の前で立ち止まった。
「コザサ?! コザサか!」
 叫ぶと、それに答えるかのように泣き声が一段と大きくなる。ガラガラと横から倒れてきた柱を裏拳で背後に砕き落とし、燃えさかるテーブルを蹴り一発で部屋の隅に吹っ飛ばしながら、ガイは声のする方向へと真っ直ぐ向かった。
 声はクローゼットの中から確かに聞こえていた。
「コザサ!」
 バン! と勢いよく扉を開け放つと、そこには真っ赤に染まった恐ろしい外界の様子と熱さに驚き、怯えて、ますます身を固くする幼い少年がいた。
「よぉし! コザサ、もう大丈夫だぞ! ほら、オレにつかまれ!」
 両手を広げて伸ばしてやると、小さな体が震えながらしゃにむにしがみついてきた。その倍の力を込めてしっかりと抱き返してやると、ガイは元来た戸口へと猛然と振り返る。
 だが炎は僅かな間にも壁面全体を舐め尽くし、倒れた柱が燃えながら何本も出口付近に折り重なって、すっかり彼の退路を塞いでしまっていた。
 自分一人だけなら何とか通れるかもしれない。けれど今はか弱い子供を抱えている。無茶は出来なかった。
「むぅぅ…」
 ガイは少年を懐に抱いたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。





「――カカシ先生、大丈夫ですか、カカシ先生、先生ーっ!」
「…ぁっつつ……いってぇ……くそっ、ガイの奴――ッ?!」
 イルカ先生に肩を揺さぶられたことで、ようやく気が付いたオレは、まだ吐き気がするほどズキズキと激しく痛む額を押さえながら、よろよろと起き上がった。
(あんの大馬鹿野郎…!)
 何てことしやがる。額当て越しじゃなかったら、本当に頭が割れてたところだ。戻ってきたら100倍にして返してやるからな!
(…戻って……来たら…)
 しかし、目の前で完全に猛火に包まれて炎上し続ける三階建ての古い建物を見ると、何やらひどい胸騒ぎがした。
(畜生! 消防隊はまだか! いくら何でも遅すぎるぞ!)
 オレは心の中で苛々と毒づいた。
 だが、こうしちゃ居られない。事態は一刻を争う状況だ。昏倒していたほんの数分の間にも、火の元らしいこの家から両隣へと延焼が始まっていた。
 古い木造の集合住宅がひしめき合うこの一帯では、乾いた強風に煽られるがまま、どんどん類焼していくのは目に見えている。
「イルカ先生はその人と二人でコザサを探して下さい! オレは消火に当たります!」
「はっ、はいっ!」
 二人が怒号飛び交う雑踏に紛れたのを見届けると、オレはガイが消えていったと思われる正面の建物に進み出て正対した。
 すぐに待っていたぞと言わんばかりに、全身を熱風と火の粉が取り囲む。厚い結界を張っていなければ、思考はおろか、命すら一瞬で燃え尽きかねない凄まじい熱さだ。
 オレは斜めに付けていた額当てを、右手で掴んで持ち上げた。
 とその時、ふと背後の気配の変化に気付いて振り返る。
 見るとようやく消防隊の面々らが駆け付けた所だった。隊長らしき小柄な男が、消火専門術を駆使する忍らを集めて、大声で何事か指示を出し始めている。
(遅いっ!)
 そいつらには構わず、オレはチャクラを練ると素早く印を結んだ。
(――鬼人の遺した術が、こんなところで役立つとはね…)
 オレは『水遁・大瀑布の術』を発動した。












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