(退路が…!)
 振り返った瞬間、ガイは立ちすくんだ。前には火の壁、背後には分厚い土の壁が立ちはだかっている。例えそれらをぶち破ったとしても、その向こうがもっと酷い火の海だった事は、さっき蹴破った戸口から確認済みだ。
(囲まれた…)
 次々と降り掛かってくる火の粉を、蹴りの風圧で払いのけながら、胸の中の子供が少しでも熱くないよう抱え直す。と、懸命にしがみついてきた子供の手に、小さな黒い何かがしっかりと握られているのが視界の端に入った。
 その、丸い甲羅から四本の足を伸ばしてばたつかせている生き物は。
(…カメ…? ――おぉそうか、亀だ!)
 ガイは素早く親指を噛むと印を切り、即座に屈み込んでバン! と足元の木の床に手を突いた。
 どんっ、という一塊の煙と共に、巨大な忍亀がその場に現れる。
「――なッ…! なんという所に呼び出すのだ! ガイ!」
 太く、地の底から響くような威厳のある声で亀が叫んだ。
 懐のコザサは置かれた状況も忘れ、驚いて目を丸くしている。
「こういう時だから呼んだんだッ!」
「ろくに忍術も使えんお前が無茶するでない! ワシとて老いた陸亀じゃ、この状況はどうにも出来んぞ!!」
「いいんだ! 手足引っ込めて、ずっとここに居てくれさえすれば!」
「なんじゃとォ?!」
「オレは結界を張ってこの子と床下に潜るから、お前はその上からしばらく蓋をしててくれ!」
「嫌じゃ! 御免こうむる!」
「じゃぁ何だ! この子の大事な子ガメが焼け死んでもいいってのか?! お前は仲間を助けてくれようとしている子供さえ見捨てるような、そんな情けない奴だったのかァ!」
「なぬう?!」
 見ると、熱さに耐えかねた小さな緑ガメが、子供の手の中でパタパタと手足をバタつかせている。
「……ぬぅぅ〜〜」
「早くしてくれ! 結界が薄いから熱いんだッ!」
「…仕方ない、今回だけは言う通りにしてやる! 但しこの猛火だ、結果どうなろうと後の事は知らんぞ!」
「わかってる! 後はどうなっても恨みっこナシだ! 男に二言はない!」
 言うが早いか、ガイは子供を脇に抱いたまま、空いた方の拳で厚い床板を楽々とブチ抜いた。素早く床下を覗き込む。
 ひょっとして、床下を這って逃げられないかと思っていたが、覗けばあまりにもその高さは低く、仕方なく更に一発、剥き出しの地面に向けて思い切り右手を振り下ろした。
 激しい衝撃波と共に大量の土が盛大に飛び散り、跡には大人がゆうに入れるほどの大穴が開く。
「では、後でまた会おう! 頼もしい我が相棒よ!」
 ガイはコザサをそこに下ろすと、亀に向かってグイと親指を立て、自分も素早く降りる。
「ったくいつもいつも調子のいい事ばかり言いおって! こちとら言うほど楽ではないんじゃぞ…!」
 忍亀がブツブツ文句を言いながらも、その穴をぴったり塞ぐような形で座り込んだ。そして手足と頭をきっちりと分厚い甲羅の中に引っ込める。
 その数秒後。
 バリバリという耳を劈くような大音響と共に天井が一気に崩れ落ち始め、ドォンという落下音が響くや、つい今し方までガイ達が立っていた場所を紅蓮の炎が瞬時に埋め尽くした。
 火の勢いはますますその激しさを増してゆき、天をも焼き尽くさんばかりの勢いで渦巻きながら、四方八方へと燃え広がっていく。
 その光景は、地獄の業火が二人と二匹を探し出し、根こそぎその命を奪い取らんと猛り狂っているかのようだった。




 以前、再不斬からコピーしていた大瀑布の術は、かなり破壊力の強い水遁術だ。よってオレは建物ごと崩壊してしまわないようチャクラを加減し、細心の注意を払いながら発動させた。
 いずれにせよ、周囲は全く水の無い乾いた環境なのだから、それほど大量の水は出せなかったが、術の力によって生まれた巨大な水の壁は、またたくまに三階の屋根の高さに達して砕け、広く拡散していく。
 水に囲まれて無理矢理に消されていく紅蓮の炎が、悔し紛れに一斉に水蒸気を上げ始めた。夜も更けた真っ暗な空に、雲のようにもうもうと蒸気が立ち上り、端から北風に吹き飛ばされてゆく。建物の外側を舐めていた炎は、この一発でほぼ収束の目処がついていた。

 周囲では、到着した消防班の十数人の忍達が動き出していた。
「一班! 先に北西に土流壁を築いて、風の流入を止めるぞ! 二班! 私が合図をしたら南東から水龍弾を放て!」
 隊長が的確な指示を次々と出していく。
 銀色の防火マントで全身を覆った班員が一斉に散開し、配置についた。
「一班、土流壁構え! ――放て!」
 赤黒く染まる闇夜に、隊長の凛とした声が響き渡る。
 ある者は口から、ある者は周囲の土から大量の土塊を作り出し、みるみるうちにその障壁は高さと厚みを増していく。
 あっという間に、風避けと周囲の建物への延焼及び水害よけを兼ねた強固な防護壁が、真っ赤な炎の前に高々とそびえ立った。
(へぇ、結構やるじゃない)
 オレは少なからず感心した。
「二班! 水龍弾用意! ――放て!」
 隊長の右手が振り下ろされると同時に、オレも同じ術で加勢してやる。
 建物の奥にまで水を届かせるには、かなりの気を使った。焼けたことで脆くなった柱や壁を直撃して、家を全壊させしてしまっては元も子もないからだ。
 龍の姿に形を変えた大量の水が一気に室内へと流れ込むと、シューシューという激しい蒸発音と共に、辺り一面に濃い水蒸気が立ちこめていく。
 炎のせいであれほど明るかった周囲の景色が、みるみる暗くなってきた。と同時にあれほど全身を圧していた熱風が止みだし、木材の燻る臭いがそれにとって替わる。
 窓という窓から白煙と水蒸気を吐き出しながら、紅蓮の魔物は次々と去っていった。


(ガイ!)
 オレはまだ脇で消火活動を続けている連中を残し、結界は張ったまま、大量の水が流れ落ちてくる一階へと走った。
 背後で「まだ早い、止めろ!」という、特徴のある隊長らしき声がしたが、軽く無視した。
 生きているなら、もう既に外に出てきていてもいいはずなのだ。
(なんで出てこない! ガイ!)
 窓から飛び込み、床に出来た川のようになった水たまりの間を、人の気配を探りながら移動する。
 燻り続ける白煙が内部に充満していたが、厚い結界と左目の前では無いも同然だ。
「ガイ! ガイーッ!」
 生きているなら気配だけで充分探せるにもかかわらず、オレはいつしか大声を出しながら、未だあちこちが散発的に燃え続けている部屋を一つ一つ見て回っていた。
(あの馬鹿、カッコつけてどこまで突っ込んだんだか…。さっさと返事しろ!)
 もしや上の階まで行ったか…? そう考えて、元は階段があったと見られる所から上へと跳び上がろうと構えた時。
 床に燃え落ちていた大きな天井板が、ぐら…と動いた。
(?!)
 どうやらこの下に何か居るらしい。オレは夢中で天井板をひっぺがす。
「――…やーれやれ、助かった。――いやぁ、まったくえらい目におうたわぃ…」
 すすで真っ黒に汚れた巨大な忍亀がそこに現れた時、オレはガラにもなく焦って聞いてしまっていた。
「ガイは?! ガイはどこだッ!」
「…おぉぉ、そうじゃそうじゃ。すっかり忘れとったわ。おい、もう出てきてもよいぞー」
 甲羅から頭だけ外に出していた忍亀が、太い手足をのっそりと出して、数歩後ろに下がった。そこには大きな穴がぽっかりと開いている。
「ぬおぉ〜! やはりシャバの空気は美味いなぁ! カーッ」
 的外れな台詞を吐きながら、そこからひょっこりと顔を覗かせたのは。
「ガイッ!」
「おぅ、カカシィ! なんだ、お出迎えかぁ? ハッハッハッ! いやーご苦労ご苦労〜。だが心配はいらん! オレはこの通り、ピンピンしているぞォ!」
 こちらに向けて、真っ黒な親指を押っ立てている。
 無事だとわかった途端、不覚にも肩から溜息をついてしまったが、次の瞬間にはいつも通りの台詞にカクンと頭が落ちていた。
 ガイは軽々と穴から飛び出すと、柔らかい体で伸びをしながら、亀の上でいつものキメポーズなんぞをとっている。
(あのね…)
 誰かこいつのテンションを焼いて灰にしてくれ。


「さぁ、コザサも出ろー」
 手にしっかりと小さな緑亀を握りしめた少年が、穴から引っ張り上げられる。良かった、行方不明だった少年も元気そうだ。
「ガイ、その子をこっちへ。オレの結界の中に入れる」
「おう、そうだな」
 その時、どういうわけか、珍しくあいつが何の余分なリアクションもせずに、素直にオレの言うことを聞いていた。そのいつも違うテンポが何となく気にはなったものの、あれこれ考えている時間はない。
 コザサを腕に抱くと、オレ達は白煙渦巻く建物内を突っ切り、表へと飛び出した。
 全焼した建物がその重みを支えきれず、大音響と共に崩壊したのは、それから数分後の事だった。




「ガイ先生っ! ご無事で! コザサも…! あぁ、良かった、良かった…!」
 イルカ先生がガイの脇に駆け寄ってきて、息を弾ませながら泣き笑いのような表情で子供を抱き締めている。後ろでは群がる野次馬達を整理している彼の影分身が、何体も忙しなく動き回っている。
(オレは? ねぇオレは? イルカ先生〜〜)
 オレは右目だけで一生懸命合図を送ったが、全然気付いてもらえない。
(…ちぇーっ)
 こんなことなら、頭突きを食らって昏倒した時に、もっと甘えておくんだったと後悔するが、後の祭りだ。



 火災現場は、チャクラを強い光に転化する照明班によって、真昼のような明るさになっていた。
 そこで改めて見たガイの姿は壮絶だった。
 おかっぱの黒髪はあちこち炎で焼かれ、チリチリに縮れている。顔はすすと泥で真っ黒になり、どこが目なんだかわからないくらいだ。ご自慢らしい激眉も焼けて縮れ、部分的に随分薄くなってしまっている。ベストもレッグカバーも真っ黒になり、あちこちが破れたり燃えたりしていた。
 様子からして、猛火の中で相当な死線をくぐったのは間違いないだろう。すす汚れ一つ付いてないオレとは対照的に、ガイは悲惨な姿になって限界ギリギリの所からようやく戻って来ていた。
(だからあれ程止めておけと言ったのに…)
 しかし、奴を囲んでくるイルカ先生やコザサに、笑いながら尚もズレた台詞を吐き続けているボロボロのあいつを見て、オレは何故かほんの一瞬、本当にちょっとだけだが、カッコイイとか思ってしまった。
 一生の不覚だと思った。












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