目の前で、コザサの母が我が子をしっかりと抱き締めると、一同に改めて安堵の空気が流れた。
「良かったな、コザサ! カメは大事に育てるんだぞ! 将来口寄せの契約が出来るような、立派な忍亀に育てるといい!
いやーカメはいいぞォーー、カメは〜!」
ガイが真っ黒の顔の中に真っ白な歯を見せながら、脇の巨大忍亀の甲羅をベシベシと叩いている。
「うん、ありがとう! ボク、ガイ先生みたいな忍になるから!」
(それだけはやめとけ!)
オレは心の中で即座に返事をしたものの。
結局言葉には出さなかった。
(――まっ、いっか…)
俯いてこっそり苦笑した。
「あなた方か、今しがた尽力してくれたのは」
よく通る澄んだ張りのある声がして、消防隊の隊長がやってきた。
銀色のマントに身を包み、頭には同種の防火布で作られた頭巾を被っている。オレと同じように、鼻梁の真ん中辺りまで黒い煤煙除けの口布を付けていて、意志の強そうな琥珀色の両の瞳が、真っ直ぐにこちらを見上げている。
しかしオレは、さっきからこのいかにも利発そうな人物に、妙な違和感を感じていた。いかつい消防隊の面々を束ねる隊長にしては、マントの下の体は随分と華奢そうで、声も少年のようだ。そこから察するにまだ相当若いらしいのだが、チャクラを練り慣れた者が発する忍特有の気配が、この男からは感じられない。
「――あぁ、そうだけど?」
すると、オレ達の前で隊長が分厚い手袋と頭巾を取り、口布を下ろした。
「……ぁ…」
その顔を見たイルカ先生の口から、上擦った驚きの声が上がる。ガイなど声も出せずに、小さな目を一杯に見開き、まん丸くしている。
ずっと妙な違和感を感じていたはずだ。
なんと消防隊の隊長は――女だった。しかも忍ではなく、カタギの。
「東分署消防隊・隊長、宝灯アザミだ。あなた方の勇敢な働きで、尊い人命が救われた。心から感謝したい」
背筋がピシリとするような凛とした声で、その場の三人を堂々と見渡す。
三十過ぎといった感じの、化粧っ気のないその顔は、黒々としたベリーショートの髪に取り巻かれ、一見すると少年のように見えなくもない。
しかしその場の誰をも惹き付ける独特の雰囲気は、隊長としての優秀な資質を垣間見るに充分だ。
強い光を放つ琥珀色の瞳ときりりと結ばれた薄い唇が、冷静沈着な判断能力と強固な意志を併せ持っている事を暗に物語っている。
「あっ…アカデミーの、うみのイルカです」
我に返ったイルカ先生が頭を下げる。
「見物人の誘導が的確で助かった、ありがとう」
さっと右手が出てきて、つられて伸ばしたイルカ先生の手を握っている。
「同じくアカデミーのカカシです」
成り行き上、オレもその細っこい手指を軽く握った。と、思った以上に強い力で握り返してきた。
「あなたがはたけ上忍か。お噂はかねがね耳にしている。見事な術の数々、とくと拝ませて頂いた」
オレの名前を聞いても全く驚く様子もなく、真正面から怜悧な双眸で見上げてくる。
「光栄です」
とりあえずお定まりの台詞を口にした。
続いてガイが挨拶か…と思いきや、反応がない。
(ん…?)
見やると、未だにアザミの顔を凝視して呆然としている。
「ガイ先生?」
イルカ先生につつかれてようやく我に返り、あぁ、と手を差し出そうとするが、自分の手が真っ黒にすすで汚れているのを見るや、慌ててその手を引っ込めた。
「構わん。あなたのお陰で尊い人命が救われた。その手は何よりも美しい勲章だ。誇られよ」
アザミは全く躊躇することなく、そのガイの汚れた分厚い手を両手で取って強く握った。
「アッ…アカデミーの…マイトっ、ガイですッ!!」
ガイは何故かやたらと裏返った声で、アザミに手を握られながら挨拶をした。
そうやって一通りの挨拶も済んだところで、オレはずっと気になっていた事を率直に口にした。
「…まっ、この子が助かったからいいようなもんの…、アンタがた、来るのちょっと遅いよ?」
言ってちらりと右目だけで様子を伺う。
「いや、本当に申し訳なかった。残念な事だがここ最近、不審火が頻発しているのだ。先程も同時多発的に各所で火の手が上がって人員を割かれていた。許してくれ」
アザミはあっさりと詫びたかと思うと、物騒な事情説明をした。
「放火、ですか?」
イルカ先生の眉がくっと寄り、顔が曇る。
「ああ。二週間ほど前から急にな。警ら班にも巡回を強化させてはいるが、未だ捕まっていない」
「おぅ、そういう事ならオレも喜んで協力するぞ! 不審者を見かけたら遠慮なくふんじばっとくからな!」
ガイが俄然元気になってきだした。やばい、このままいったらまたハイテンションに振り回されるぞ。
「頼もしいな。ご協力感謝する」
アザミの琥珀色の瞳がふっと細められた。
「いっ、いやぁ〜、まぁ、なんだ、これも木ノ葉の忍の当然の勤めというかだな…その…アッハッハ!」
(なに照れてんの?)
オレはさっきの頭突きのお返しに、一発突っ込んでやろうと思った。
だが、それは不発に終わった。
ガイは慣れない忍術…結界の連続使用と酷い熱中症で、とうの昔に限界に達していたのだ。なのに、お得意の根性だけでそれをひたすら押し隠していた。
そして何の前触れもなく、その場で意識を無くした。
「なっ…」
直立不動の姿勢のまま、いきなり丸太みたいに倒れてきたガイを支えると、その体の燃えるような熱さに驚く。
顔が真っ黒に汚れていたせいで、今まで全く気付かなかった。
(こんの大馬鹿野郎がッ!)
今日何度目かの馬鹿台詞を、オレは再びガイにぶつけた。
「医療班ッ!」
アザミが鋭く叫んだ。
病院へと搬送されるガイを、オレとイルカ先生はどこかぼんやりとしながら見送った。ここにきてようやく静かになり、彼と二人になれた訳だが、オレのテンションは少しも浮上することなく地を這っていた。
「アンタさ…さっきあいつと握手した時、変だって気付かなかったわけ?」
オレは脇のアザミを見ることなく、ガイの消えていった方を向いたまま言った。
「いや、手は冷たかった」
アザミが形の良い眉を寄せて首を振る。
「あ、そ」
(アイツ、そんな下らない事だけはきっちりしちゃってまぁ…)
オレは大きな溜息をついた。
どうせ一度手を引っ込めた時、最後のチャクラを振り絞って手だけ冷たくしたんだろう。
それでぶっ倒れるなんざ、呆れてものも言えない。
霜月の冷え切った夜風が、あれ程熱かった現場を急速に冷やしていった。
「――で、なに。アイツはそのアザミ隊長とやらにお熱が上がっちまって、あえなく入院と?」
アスマが悪戯っぽくニヤつきながら、煙草を燻らしている。
翌朝、上忍待機室。
オレは眠い目を擦りながら、アスマと紅に昨夜の一部始終をようやく説明し終わった所だったりする。
「さーね」
「おめぇ、相変わらず他人の色恋にはまるっきり無関心なのな」
アスマが苦笑すると、唇の端から煙が漏れる。
「るさいなー。今猛烈に眠いんだから、もう話しかけないでくれる?」
目の前にある湯飲みを持って、ぐっとあおる。
「仮眠室、空いてたわよ」
言いながらも、紅は話し始めてからかれこれ三杯目となる緑茶をいそいそと継ぎ足して差し出している。もっと話せってか?
昨夜はあの後、イルカ先生と二人して消防隊の事後処理班に呼ばれ、みっちり一時間、実況見分や事情聴取につきあっていた。
その後ようやく解放され、一人で帰れますというイルカ先生をまぁまぁと宥めながら自宅に送り届けた後で(だってそれは外せないでしょ〜?)シャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ時にはもう既に明け方だったのだ。
それなのに朝っぱらから火影に呼び出されてまた事情を聞かれるわ、待機室に来たら来たで今度はアスマと紅が手ぐすね引いて待ちかまえているわでもう散々だった。
「んじゃ少し寝る。またいつ呼ばれるか分かったもんじゃないし」
オレはまだまだ話を聞きたそうな二人を残し、殺風景な仮眠室に入った。
額当てだけ外して枕元に放り、支給服のままベッドに横になる。
そっと額に手をやると、昨夜ガイに食らった頭突きの箇所がずきんと痛んだ。
(…ってぇ〜。ったくもうー、アッタマくんなぁ〜)
ムカッ腹を立てながら寝返りを打つ。ヤツのせいで、今の呟きが微妙にオヤジギャグ状態になっていることまでが腹立たしく感じられる。
だが目を閉じると、すぐに昨夜の凄まじい惨状がありありと瞼の裏に浮かんできた。その騒ぎの中、人の肩を強引に掴んで見当違いのことを咆え散らかしていた時の男の顔が思い出される。そのせいで、こっちはまんまと頭突きを食らってしまった。
(…アイツ……まるっきり手加減しなかった…)
目を閉じたまま、つらつらと考える。
それはつまり…
絶対にオレを行かさないつもりだった……とか?
(…………)
「――ぁあもうっ! くそっ!!」
オレはがば、と起き上がり、仮眠室のドアを乱暴に開けた。
驚いて振り返るアスマと紅を尻目に、『病院に行って来る』とだけ言い残し、待機室を後にする。
「――なに? どうしちゃったのカカシってば?」
紅が、盛大な音を響かせて閉まった待機室のドアを唖然としつつ見つめる。
「さぁな。急に友情に目覚めた訳でもあんめぇが」
アスマが苦笑しながら、煙草を灰皿で揉み消す。
吊り上げられた彼の唇から薄く紫煙が立ち上り、やがて消えていった。
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