「あうう〜よりにもよって〜」
 カカシさんに「最後列のスタートだからって、決勝に進めないと決まったわけじゃなし」と言われて、それもそうだと少しだけ浮上はしたが、決勝戦のグリッド…いわゆるスタート位置は、当然予選の結果によって決まってしまう。とすれば、これはもう既に随分なハンデではないだろうか。

「へヘッ、んなのぜんっぜんいいんだってばよッ!」
 だが練習走行の時間が終わり、昼休みになってパドックに戻ってきた二人にくじ引きの結果を伝えると、広げられた弁当を見て無邪気に大喜びしていたナルトは一転、不敵に笑った。
「サスケより前に並んで勝っても、勝ったとは言えねぇからな!」
「フン、せいぜい周回遅れにされんなよ」
「なんだとォ! ――まぁとにかくイルカセンセイは、ここで見ててくれればいいんだってばよ」
(ははっ、参ったな。かえって励まされちまった)
 みな本当に逞しい。その姿は汗や油にまみれているというのに、とても爽やかで眩しいほどだ。
 心ばかりの不格好な弁当を勧めながら、(自分も応援だけは精一杯やろう)と心に誓った。


     * * *


 Aクラス、予選二組目。
「フン、決勝で待っててやる」
「おうッ!」
 パドックを出ていく際、先の予選一組目でぶっちぎりの一位だったサスケにハッパをかけられた金髪の少年は、威勢のいい声を上げていた。けれどバイクを押して歩いて行った先は、スタートラインから十メートル以上も離れた最後列のイン側だ。そこが例外なく一番不利な場所であることは、ここに至るまでに他の予選も幾つか見てきたことでも明らかだった。
「ま、六着以内に入ればいいんだからさ」
 大丈夫なんじゃないの〜? とのんきに構えるカカシさんの横顔は、スタートの合図と共にフラッグが振り下ろされても尚、どこか楽しそうだ。
 多分それは、きっと。
(――信じれば、楽しくなる…か)
 なんだってそうなんだろう。なんだって。
(なら俺も!)
「ぃよおぉーーし! いけーーっ、ナルトーーーッ!!」
 目の前の直線コースを、高らかなエンジン音と共に走り抜けていくオレンジ色の皮ツナギの少年に向かって、あらん限りの大声を張り上げた。

 ナルトは反応良く、鮮やかなスタートを決めていた。けれど、自身の目の前にはまだ十人近くがひしめき合っていて、大きな壁になっている。
(あぁ…あのままじゃ…)
 その間にも、先頭集団は先へ先へと進んでいる。サスケは…と見ると、少し離れたところで両腕を組んで、親指の爪を噛みながら黙って成り行きを見守っている。
「「頑張れ、ナルトーーっ!」」
 一周目が終わり、再び目の前を通り過ぎていくタイミングで、木ノ葉丸と一緒に大きな声援を送る。十二台のオートバイが一斉に放つエンジン音は、五〇tでもかなりのものだ。加えてパドックや会場からかけられる大きな声援、スピーカーから流れる実況アナウンス。俺達の声は、彼の耳に届いているだろうか。
(いや、届いているはず!)
「あぁっ?!」
 そうこうしているうちにも、コーナーで転んでいる子がいる。アナウンスによると女の子らしい。だがすぐに立ち上がると、バイクに駆けよって再出発している。塾に来ている子らに、果たしてあそこまでの気丈さがあるだろうかとふと思う。
 一旦グリッドに並んで走り始めたなら、どんなに心細くても困っても、大人達に助けを求めることは出来ない。ゴールするまでは全て自分一人で考え、判断するしかない。
(そうやって、どんどん逞しくなってくんだろうな)
 痛くても悔しくても、泣いている暇なんてないのだ。
 我々の両脇のスペースで、朝からきゃっきゃと騒いでいる子達はもちろん、ナルトやサスケ達も、パドックにいる時はあどけない子供の顔だ。なのに、一旦ヘルメットを被ってシールドを上げると、もうすっかり引き締まって大人びた顔付きになっている。
「大したもんですね」
 ナルトが何とかして目の前で団子になっている集団を追い抜こうと、あの手この手を尽くしている様子を見ているうち、ごく自然に感嘆の言葉が口をついて出ていた。
「驚いた?」
「ええ」
 来て良かったです、というと、左隣の男は軽く目を閉じたまま、うんうんと、初めて見る優しい笑みで頷いた。
 
 その後、レースは予想外の展開を経て、チェッカーフラッグが振られていた。
「うわっ?!」
 団子になって先を争っていた中盤グループの二台が接触し、あっという間もなく転倒。それを避けようとした一台も転び、その三台が転がっていく中を、ナルトが一気に走り抜けていた。その後もまるで水を得た魚のようになり、一台、また一台とパスしていき、気がつけばゴールラインを見事四位で通過していた。
「イルカセンセェ! 見てたか、オレのスッゲェ走り!」
「おうっ、もちろんだ! やったなぁおい!」
 サスケ曰く「フン、単なる偶然だろ」ということだが、その偶然を確実にものに出来るってことは、何かしら「持ってる」からではないだろうか? とにかく、決勝戦をより楽しみにしてくれた二人に感謝だ。


 午後になり、気温がピークを迎えている。目の前に広がる剥き出しのアスファルトが熱せられるせいか、この時期とは思えないほど暑い。
 綱手さんがパドックでバイクの最終チェックに忙殺される中、コースでは次々と決勝レースが行われて、今日の正式な順位が決まっていく。
 その間俺に出来ることといえば、決勝レースに熱くなっている皆に水分補給を促すくらいで、気がつくとレース会場の持つ勢いのようなものに呑まれてぼんやりしている有様だ。
「大丈夫?」
 後ろから声を掛けられて、今しがたもまたそのことに気付いていた。
「ぁ…あぁ、すみません、大丈夫です。…あはっ、なんか俺、今日役に立ったのかな、とか」
 一緒にやりたいという気持ちはあっても、実際には専門知識がないと出来ないことが想像以上に多かった。それは痛感といっていい。
「ま、初めてにしては立ってるよ。――いや大いに、かな」
(ぇ…?)
「三代目が孫をレースに寄越したのは今回が初めてだし、アスマがポケバイのレース会場に顔見せたのもこれが初めてだからね。ま、アンタが行くって言い出さなかったら、あの二人は来なかったよ」
「はぁ…? そう、なんですかね…?」
 でもそれこそがサスケの言う「偶然」てヤツなんじゃないだろうか。
「なに、もうギブアップとか?」
 気づけばからかいともプチ非難ともつかないものが、あまりにさらりと穏やかに投げかけられていて、慌てて否定する。
「ゃっ、違いますっ!」
 その瞬間、ゴール地点でチェッカーフラッグが派手に振られるのが見えた。こうしちゃいられない。次はいよいよ二人の出番だ。


     * * *


 Aクラスの決勝レースが迫ってきている。
 カカシさんがパドックを出た少年達を呼び止め、二人に最終アドバイスを始めた。その足下では、木ノ葉丸が真剣な面持ちで聴き入っている。彼は今日初めてポケバイに跨がってレース場を走ったとのことで、残念ながらレースにはエントリーできなかった。でもナルト達の走りを目の当たりにして、どれほどコースで走りたいと思ったかは想像に難くない。彼の瞳には、ナルトやサスケの姿がヒーローとして映っていることだろう。その小さな胸の内を思うと、今にも走って行って「よしっ、これから一緒に頑張ろうな!」とエールをおくってやりたい気持ちになる。
 もうマシンのセッティングは完璧とのことで、すでに二台ともコース上に配置されている。予選の結果を踏まえたうえで、四台づつが三列に並べられているが、どのバイクもスタンドを噛ませているため真っ直ぐに立っていて、大人が近付いていくと笑ってしまうほど小さいのに、晩夏の日射しに照らされたその姿は、とても誇らしげに見える。今日最後のレースとあって、パドックに居並ぶ人々は元より、レース場全体がピリピリとした空気に包まれているのがわかる。
「お? なんだ、可愛い応援団がいるじゃないか」
 そんな中、「サスケく〜ん!」という声に観客席の方を見上げると、最前列に身を乗り出すようにして手を振っている女の子が数人いる。なるほど、あれがナルトの言っていた「気になっている子」だなと微笑ましく思うが、全員サスケのツナギカラーであるブルーの団扇を振っている。え? あの子じゃないのか? いいのかナルト〜?

「――はァーーやれやれだよ」
 綱手さんが肩や首をぐるぐる回しながらやってきて、「お疲れ様でした」とサーバーから注いだ麦茶を手渡す。スタート前のこんな時だけど、今話しかけてもいいだろうか。彼女に少し聞いてみたいことがあった。
「…あぁ、カカシかい? アイツはな、古い出刃包丁一つでどんなことでもやれちまう男なのさ」
「は? 出刃…? 何でもって…?」
 今し方「カカシさんて、どういう人なんですか」とたずねたところだ。だが思いもよらぬ例えで返ってきて面食らう。何でもやれる? 出刃包丁って?
「何でもったら何でもさ。最近じゃステンレスだのセラミックだの、高性能の包丁が出回ってるってのに、わざわざ年季の入ったド鉄の出刃一丁で、マグロの解体はもちろん、毎日の料理から本格フランス料理から、時には護身用や切り絵細工や、やろうと思えば銀行強盗まで何でもな」
 途端、隣にいたアスマさんがブハッと煙を吐いて、「おう、あのおトボケ野郎にそんな言い方があったか」と口端を上げている。
「オートバイってのは、基本包丁と同じ「道具」だ。普通はシーンによって使い分ける。果物ナイフでマグロは捌かんだろう」
「はぁ…まぁ、確かに」
「ところがアイツはやっちまうのさ。『ハサミ(車)なら出来ないことでも、ナイフ(バイク)なら出来ないわけがない』ってな」
「それだけオートバイが、好きなんですね」
 もちろん、そのナイフをいつでもきちんと研いでくれる、三代目や綱手さん達の存在あってのことだろうけれど。
「まぁ好きにも色々あるだろうから? 一体どの好きかは知らんが、器用なのは間違いないな。他の連中はバイクが変わるとすぐには乗りこなしきれんが、アイツだけはどんな車体でも不思議なくらいすぐにベストを引き出せるんだ」
(そう、なんだ…)
 アドバイスが終わり、スタートグリッドに向かう少年達を見送っている男の後ろ姿を見つめる。
 今でもエンジンやブレーキを新しくセッティングした場合は、まだ技術や言葉での表現が未熟な子供達ではなく、まずはカカシさんに乗って貰い、調整していくのが常だという。
「アタシらが修理やチューニングの職人というなら、アイツはそれが持ちうる能力を限界までフルに引き出して乗りこなす職人――つまり生まれながらのバイク乗りってやつさね」


     * * *


(頼む、転ばないでくれ!)
(お願いだ、怪我だけは…っ)
(どうか本人が満足いくレースでありますように…!)
 だが第三者の大人がどれほど強く念じたところで、どうにも出来ない所を子供達は走っている。俺でさえこうなのだ、周囲の親御さん達の気持ちは如何ばかりかと思う。
 決勝レースは、グリッドの良さを最大限活かしたサスケがトップを取り、巧みなライン取りで二位以下を抑え込んでいく展開になった。
 ナルトは前から二列目に並んだが、気合いが入りすぎたのか気持ち出遅れてしまい、第二集団の団子に取り込まれている。よくよく目を凝らして見ていると、膝やヘルメットが周囲と接触したりしていて、気が気ではない。いつもは冷静なカカシさんも、背高い体を更に乗り出すようにしてレースの行方を追いかけている。木ノ葉丸はアスマさんの肩の上で跳び上がり、塾で鍛えているはずの俺の声はすっかり嗄れている。綱手さんは…とその姿を探すと、パドックの奥に広げてあったリクライニング式のサマーチェアの上で高いびきをかいていた。あの場所ばかりとるイスを、誰がどういうシーンで使うのかと思っていたのだが、そういうことでしたか。
 
 結果、サスケ一位、ナルト四位。
 ブルーの皮ツナギ姿で表彰台の一番高い所に上がり、首からメダルを下げて、ノンアルコールのシャンパンを抜いている彼の姿は、どこからどう見てももう大人のそれだった。アナウンスと応援団の女の子達の黄色い歓声が、それを一層華やかに盛り上げる。
「あああもう! くっそおお〜!」
 その様子を見ていたナルトの悔しがりようは大変なものだったが、それだけに未来の成長も予感させた。
「でも聞いたぞナルト、このコースでのベストラップを記録したそうじゃないか」
「自己ベストじゃ、ダメなんだってば!」
 少年は、「サスケに勝たねぇと意味ねーんだってばよ!」とぎりぎり歯噛みしている。
「――ああ…そうだな」
 そこを見つめているのなら、いずれ結果は彼の後ろについてくるだろう。
 彼らには、そう思わせてくれる何かがある。
 綱手さんやカカシさん達が、採算度外視で早朝からサポートし続けている理由が、本当の意味でわかった気がした。





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